第30話「捕虜」

  救助できた乗員の数、役職、階級、それらすべてを把握するのには時間がかかった。

 英語を話せる者がいないのではなく、負傷者が多すぎるのだ。流出した燃料に火が回り、海面が燃え上がったため重度の火傷を負ったものや、被雷の衝撃で甲板から海面に叩きつけられ下半身が動かないもの、砲弾の弾片によって裂傷を負ったものなど、ありとあらゆる負傷原因でドイツ海軍の軍人たちは傷めつけられていた。中には恐慌状態に陥って飛び降りたところで、魚雷の水中衝撃波を受けてもだえ苦しむ者もいた。

 誰も、医務室に近寄ろうなどという者はいなかった。

 大多数の者たちはすでに甲板で彼らを引き上げたときに、彼らに深く同情していた。彼らの立場に自分がいなくて良かったと思った。

 震える彼らに毛布をかけてやり、温水の入ったバケツが真っ黒になるまで肌にこびり付いた燃料を拭き取ろうとした水兵がおり、中には子供のようにすすり泣くものを優しく抱き締めてやる者もいた。

 だが、そうでない者がいたのも確かだった。

 ヴィクスが頭を悩ませているのは、ドイツの捕虜たちについての問題と、そのそうでない者たちに関する問題についてだった。前者に関しては医務室の軍医が首を縦に振るか、もしくはあちら側の最上級士官がなにか言ってこない限り手は出せないが、後者に関しては出来る限り迅速に問題を解決する必要があった。

 イギリスはスイスのジュネーヴ条約に署名し、特に1929年7月27日に作成された俘虜の待遇に関する条約が、今回重要となってくる。

 イギリスは当日に署名し、1931年の6月23日に批准している。ドイツもまた同様に、当日に署名し、1934年2月21日に批准していた。これは戦時国際条約であり、守るべき規範、規律である。少なくともヴィクスはそう思っていたし、当然士官たちもそう思っていたはずである。

 しかし、対独戦はすでに一年前から始まっていた。二隻のポケット戦艦が大西洋での通商破壊を負え、無数の機雷がばら撒かれ、空母『カレイジャス』も戦艦『ロイヤル・オーク』もUボートに食いちぎられていた。他にも数多くの商船が、駆逐艦が、船と言う船が乗員諸共沈んでいた。

 敵に優しく振る舞うには、あまりにも多くの血と重油が流されていた。 


「………私は救助せよ、と言った。誰も、決して、望まぬ慈悲の一撃を与えよ、などとは、言わなかった」


 ヴィクスは単語一つ一つを噛み締めるように言った後、ベントレー水兵に同意を求めるように目を向けた。

 部屋には戦艦『エジンコート』の治安を司る将官たちが顔を連ねており、その周囲をライオネル大尉指揮下の海兵隊員が囲っている。

 椅子に釘で打ち付けられたように固まっているベントレー水兵は、よもやこんなことになるとは思っていなかったのだろう。頬にそばかすを散らせた今時の若い娘、腕っ節がたち、特定の集団にのみ留まる傾向のある彼女が起こしたのは、以前の出身地差別問題のことのように独房三日で済むものではなくなっていた。


「ジュネーヴ条約について知らなかった、というわけでもないと思うが。どうかね、掌帆長」

「イエス・マム、艦長。それはありえません。ベントレー水兵を含む班はたしかに艦長の指示通り、捕虜の扱いに関して教育を受けさせております。私が教えましたから」

「ふむ。であるならば、なぜ、救助活動ではなく、戦艦『エジンコート』の舷側をよじ登ったドイツ海軍兵士を、再び海に突き落とす、などということを行ったのか。私は水兵、君がどのような権限と判断によって道徳心を欠如させたのか、自己弁護を許す。発言を許可するぞ、水兵」


 

 この場にボラン少佐がいたら、あるいは甲板上でのベントレー水兵をボラン少佐が見ていたらどうなっていたかを考えながら、ヴィクスはベントレー水兵に無機質な、なんの感情も篭っていない目で見る。

 ベントレー水兵は脅えているが、ヴィクスはそれを気にしなかった。気にする必要性を感じなかった。

 ボラン少佐ならあの腰に吊るしたクレイモアで、確実にベントレー水兵を殺しただろうか。

 それに比べたら、ヴィクスの対応はまだ優しい方であろう。彼女がどれだけ怒ったところで、彼女が行う手段のすべてはすべて法の下において行われるものなのだから。

 とはいえ、ヴィクスが激怒しているのもまた事実であった。本来であれば一水兵の問題などに艦長が直接出向くなどということは、ヴィクス本人も敬遠するようにすべきではない。潜水艦や駆逐艦、その他小型戦闘艦艇ならまだしも、戦艦の艦長という肩書きと権力は、その威容と同じく堂々としたものでなくてはならない。安易にあちこちへ動くことは、避けるべきなのだ。動くとしても、その行動それ自体が貴重な、大変に意味のあるものだということを兵が知っているべきなのだ。

 しかし、ベントレー水兵はわなわなと唇を震わせるだけで、なにも言わない。

 ヴィクスは、じっと水兵の目を見つめる。だが彼女はただただ、唇を震わせているだけだった。

 ヴィクスは待った。されど彼女はそれに答えなかった。チッ、という舌打ちがどこかから聞こえた。


「…………海兵、独房へ連行しろ。話すことなど、ない」


 詰襟の制服を着た海兵隊の兵卒二人が、ベントレー水兵を引き摺るようにして部屋から出したところで、ヴィクスは「水兵」と呼び止めた。

 わなわなと震えるベントレー水兵がヴィクスを見れば、彼女は静かに煮え立つ溶鉱炉のような瞳で水兵を睨みつけ、吐き捨てるように言った。


「いいか水兵、私に、二度と、その顔を見せるな」


 そこで海兵がドアを閉めた。

 ベントレー水兵は部屋にいる者たちに助けを請うような、見捨てられた子犬のような表情をしていたが、誰も彼女に目を向けているものはいなかった。


「それで、収容したドイツ人捕虜の様子はどうだ、掌帆長」


 眉間を揉みながらヴィクスが言うと、掌帆長のグラッドストーンが口元を歪めながら言った。


「はい、艦長。ライオネル大尉と海兵隊が護衛しているため大人しくしております。そもそも、なにをしようにも体力がありませんので、まずは軍医の診察と療養が必要かと」

「収容できたのは、何人だった?」

「はい、艦長。現在のところ、我々が収容したドイツ人捕虜は33名です。スループ『キングフィッシャー』には11名が、仮装巡洋艦『ヘイリング』には27名おります。合計で、71名であります」

「内訳の方はどうなっているか、分かっているのか?」

「はっきりとしたものは分かっておりませんが、士官が数名、あとは皆水兵ではないかと。先任士官を名乗る者が艦長、戦隊司令との面会を望んでいましたが……火傷が酷かったため、現在治療中です」

「そうか……。軍医の許可が出れば、私が会おう」

「イエス・マム」

「以上だ。ライオネル大尉や下士官たちと相談し、捕虜に関する取り決めの厳守を心がけてくれ掌帆長。先に退室してよろしい」

「アイアイ・マム。お先に退室します」


 敬礼するグラッドストーンにヴィクスが返礼し、部屋内の者もそれに倣う。

 グラッドストーンがそのまま部屋から退室すると、部屋に残された面々がヴィクスに目を向ける。同時に、ヴィクスがその面々を見ては、口を開く。


「……各部署、二度とこのような事態が起こらぬように警戒せよ。艦内秩序の構成はすべて海兵隊がやってくれているなどという過信は捨て去るように。この件に関して、私が見なかったことにする、ということはない。しかるべき報告をロンドンにするつもりだ」

「「「イエス・マム」」」

「各員、各部署の士官に私の言ったことを伝達し、シフト通りの活動に戻れ。解散」


 部屋に集まった士官たちが一斉に敬礼し、ヴィクスはそれに返礼する。

 士官たちがぞろぞろと退室していくのを見送り、部屋に誰もいなくなった時、ヴィクスはほっと息を吐き、そのまま椅子に座り込む。

 酷く眠かった。酷く頭が痛かった。だがその弱音を吐こうにも、その相手になる軍医は今、彼女の戦場にいるのだ。

 彼女の戦場の邪魔をするわけにはいかない。そこはもっとも生と死が近しいところなのだから。



―――



 軍医のアガサ大尉は包帯の巻き方も知らないボンクラ水兵を押し退け、巻けもしない包帯を巻く仕事の代わりに仮装巡洋艦『ヘイリング』に医薬品の補給要請を伝えるよう艦橋へ伝えてこいと怒鳴りつけた。代わりにきちんとした資格持ちの衛生兵に包帯を巻くように指示を出し、海兵隊の衛生兵には熱傷の程度の判別と分別を、そして他の水兵にはシャワールームで海水と油を洗い流し、患部を冷やしてきた捕虜たちに毛布と珈琲を配布させ、全員を食堂へ案内しヒーターを設置するように激を飛ばす。

 医務室は戦場だ。軍医は戦いの中にいる。気道の熱傷、損傷をした患者を見分けなければその捕虜は最悪窒息して死に至る。熱傷面積を間違い治療の優先度を誤れば死人が出る。適切な処置を一つでもしなかった時、人が死ぬ。それを阻止するのが軍医であるアガサの仕事だ。誰であろうと、命令であればその生命の保護と保持を最優先とするのがアガサの仕事だ。国籍など関係なかった。それは命令なのだから。


「シャーリー、糸鋸を準備しろ。そっちの患者は輸液しておけ。医薬品のストックは『ヘイリング』にある。助けられるなら惜しまず使え。無駄遣いはするな!」


 白衣を棚引かせながらアガサ大尉は指示を出し、痛みで悶絶するドイツ兵を膝で無理やり押さえつけ、衛生兵にモルヒネを打たせた。

 痛みを感じるだけまだ良しだが、その痛みのせいで暴れまわられると他の患者の治療の邪魔になる。邪魔な奴は黙らせるのがアガサのモットーだ。いつだってそうしてきた。

 軍医はモルヒネの投与が終わるとすぐに立ち上がり、手術室へ向かった。 彼女の背後ではドイツ語で泣き喚く声や英語の怒声やらが聞こえていたが、巡洋艦『ヴィンディクティブ』で中国人相手の経験があるからか、軍医はそれになんの感慨も抱かなかった。艦砲射撃される市街地、逃げ惑う無力な民間人、そしてその後の死ぬよりもつらかった激務の日々。何日も眠れなかった。言葉が異なり分からないといっても、なんにせよ、それらの声には後々正面から向き合わなくてはならないのだ。


「軍医長、あの士官が艦長に面会をと騒いでますが?」


 海兵隊の衛生兵の一人が軍医に声をかけた。軍医は振り返って、そのドイツ軍士官の負傷程度と治療済みか否か、状態はどうだったかを思い出した。そして言った。


「許可する。海兵隊が連行してくれ」

「アイアイ・マム」


 ラフに敬礼する衛生兵に、ラフな返礼で答え、アガサは扉を潜って、それを閉めた。

 切断手術が彼女を待っている。ワインのコルク栓を削って作った愛用の耳栓を詰めて、彼女は手袋をはめた。恐怖と痛みで青ざめたドイツ人の青年の顔を、アガサは見ないようにした。



―――



 久しく使っていない艦長室でマリア・ヴィクスが入室を許可すると、まずマクミランがドアを開けて敬礼し、その後にややだぶついた士官服着た人物が入ってきた。士官服は戦艦『エジンコート』のなかで一番大柄な士官の制服だが、女性用を着るよりは多少ましであろうという判断だったが、ヴィクスはそのだぶつきが気に入らなかった。

 とはいえ、いくら着慣れたドイツ海軍の士官服でも燃料と海水塗れとなっては、敵国の制服でも乾いた暖かいものの方が良いはずだ。

 敬礼と形式的なやり取りの後、ヴィクスはマクミランに退室するように言った。マクミランは少し戸惑った様子だったが、ヴィクスの命令通りに部屋を退室した。


「本来であればこちらから招待すべきところ、申し訳ない。私は本艦の艦長であるマリア・ヴィクス大佐。念のため、そちらも自己紹介を」

「了解しました、大佐」


 やや訛りのあるイギリス英語で、ドイツ人士官は言った。ここに連行される前にヴィクスは彼のことをおおよそ知っていたが、本人から直接聞くことに意味があるのだ。


「ドイツ海軍、オスカー・レムケ中尉。砲術長。お会いできて光栄です大佐。捕虜への適切な対応、感謝致します」 

「ありがとう、レムケ中尉。こちらでは不祥事により君らが不快な思いをしているのではないかと、気が気でなかった。なにか不足があれば遠慮なく言ってくれ。珈琲はいかがか?」

「ありがたいですが、部下がおります。彼らと一緒に飲もうと思っております」

「ふむ、分かった。失礼な話だが、レムケ中尉、我々になにか話すつもりのある情報はあるかね?」

「………いえ、ありません。条約に則り、条約に保護されている情報を私は話すつもりはありません」


 真一文字に口を閉ざして、オスカー・レムケ中尉は返答する。

 茶色い髪は乾かしたばかりなのかごわごわで、商船の乗務員に偽装するためか顎には髭が生えていた。堅苦しい英語の発音にしては物腰が柔らかそうに見えるのは、垂れ気味な碧眼のせいだろうか。

 幸いにしてオスカー・レムケ中尉は軽度の熱傷とあちこちの打撲程度だからか、とても捕虜のようには見えなかった。

 少なくともヴィクスが想像していた捕虜というのは、もう少し戸惑い、おどおどとしているものだと思っていたのである。しかし、現実はそうではない。現実は目の前にいる、このレムケ中尉が示してくれている。


「よろしい。では、今後の予定について連絡する。レムケ中尉以下、ドイツ海軍捕虜はより物資に余裕のある補助巡洋艦『ヘイリング』へ乗艦。現在の任務が終わり次第、スカパフローにて英国海軍へ引き渡す。その後は恐らく、収容所へ連行されるだろう」

「了解しました、大佐。……疑うようで悪いのですが、英国本土での扱いはここよりも良いでしょうかね?」

「断言しかねます。今は戦時ですので。もちろん、条約があるということは士官であれば誰もが知っているはずですが」

「……了解しました。では大佐、私は部下の下へ行かねばなりませんので、これで宜しいでしょうか?」

「許可します、レムケ中尉」


 敬礼と返礼。オスカー・レムケ中尉は英国海軍士官と遜色ない足取りで退席し、最後に不器用そうな笑みを浮かべながら、部屋を去っていった。

 

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