第29話「仮装巡洋艦」
戦艦『エジンコート』を最後尾に、スループ『キングフィッシャー』と補助巡洋艦『ヘイリング』はアイルランドの商船旗を掲げる船に近づいていった。
先頭を行くスループ『キングフィッシャー』が信号旗を挙げ停船命令を出し、ついで商船に発光信号で停船命令と船名の誰何をしているが、返答は無い。
――というよりも、返答できていないようだ。
「……信号が、読み取れないのでしょうか?」
「現状を見るに、そのようだ」
双眼鏡を覗き込みながらヴィクスが呟くと、ハワードが答える。
商船の上では船員が突然の誰何に呆然としている様子が、そして艦橋付近では、慌てふためいている船員たちが必死になって信号を読み取ろうとしているのか、目を丸くして信号を読み取ろうとする男と、その隣で一緒になって解読作業をしている船長らしき男が見えた。
「マクミラン中佐。第二種警戒態勢発令。右舷戦闘部署に戦闘配置」
ヴィクスがマクミランに命令を下す。
ハワードはなにも言わず、双眼鏡を片手に商船をじっと睨みつけていた。
「アイアイ・マム。――第二種警戒態勢、繰り返す、第二種警戒態勢。右舷戦闘部署に戦闘配置」
マクミラン少佐は受話器を戻し、再び違う部署に向け電話をかける。
部署が部署なだけ、相手が相手なだけはあるのか、マクミランの声音は先程と比べて幾分か高圧的で有無を言わさぬ厳しさを孕んでいる。
「艦橋より砲術長へ、主砲そのまま。主砲そのままだ。待機するように。以上、終わり」
「ありがとう。右舷砲郭には榴弾の使用を前提として待機するように。持ち場に着いたと報告があってからでいい」
「アイアイ・マム」
「……『キングフィッシャー』も砲を向けたな」
「射程圏外ですが、威嚇にはなります」
右舷、二時の方向にぽつねんと浮かぶ商船の周囲をスループ『キングフィッシャー』が警戒しながら航行し、四インチ砲の筒先を商船に向けているのが見える。
彼我の距離はキロメートルで、おおよそ一.五キロほど、九マイルだろうか。
その横には補助巡洋艦『ヘイリング』が急ごしらえの主砲をまるで大昔の戦列艦のように商船に指向しながら、のそのそと近付いている。
ようやく商船が機関を停止したのか、煙突からの排煙が薄くなった。それを見て、ハワードはヴィクスに耳打ちする。
「潜水艦『L71』は所定の指示通り、雷撃準備にかかっているかね?」
「ここからでは確認できませんが」
「先走って撃沈することなど、なければいいのだがな……中立国籍船舶への攻撃は、国際世論の避難を受ける。くれぐれも注意し、軽率な行動は慎んで欲しいがな」
「……彼女は軽率な愚か者ではなく、計算して狩りをするタイプでしょう。不安ではありますが、信じるしかありません」
「そうか。そうだな」
可笑しなことを聞いてしまった、とでも言いたげに、ハワードは苦笑する。
海軍軍人であれば一通りの国際常識と国際法を知りえているはずなのだ。
その根本を疑って掛かるというのは、軍人であることを否定するようなものであると、思い出したからだろうか。
とはいえ、時にそのような人物がいるということは歴史が証明している。
ヴィクスは提督ほど潜水艦『L71』の艦長、イライジャ・ヒースコート中尉を信用できなかった。
惰性でするすると海面を滑る商船に、スループ『キングフィッシャー』は信号旗をまた新たにあげ、停船命令と砲撃を警告する。
速やかに返信しなければ、しかるべき適当な位置にスループ『キングフィッシャー』の四インチ砲が火を噴き、盛大に水柱を巻き上げるだろう。
さすがに戦々恐々としたのか、商船の甲板上の動きが慌しくなった。
信号を確認したと信号旗をあげ、信号手が艦橋に首を突っ込んでなにかを聞き取ろうとしているのが見える。
その動きになにかきな臭いものを感じながらも、ヴィクスはそれを見つめている。
彼我の距離は徐々に縮まっていく。
スループ『キングフィッシャー』が四インチ砲の射程圏内で足を止め、補助巡洋艦『ヘイリング』がその隣に並ぶ。
その後ろでは巨体を横たえた戦艦『エジンコート』が、その右舷砲郭に並んだ六インチ砲を一斉に商船へ向け、待機している。
「……おかしいですね。旗旒信号の返信くらい、もっと短時間で出来るはずですが」
マクミランがそう嘯くと、ヴィクスは頷いて言った。
「そうだな。副長、六インチ砲で威嚇射撃を――」
ヴィクスが命令を下そうとした瞬間、遠くから砲撃音が轟いた。
誰もがそれをスループ『キングフィッシャー』か補助巡洋艦『ヘイリング』の威嚇射撃だと思っていたが、そうではなかった。
高々と水柱があがったのは、スループ『キングフィッシャー』の右舷側であり、その水柱の高さはとても四インチ砲で出来たものとは思えない。
「っ……。右舷砲郭、撃ち方初め!」
「アイアイ・マム。右舷六インチ砲撃ち方初め。繰り返す、撃ち方初め」
唖然とする艦橋要員の中にあって、ヴィクスとハワード、そしてマクミランだけがすぐに動き出した。
ヴィクスはマクミランに命令を飛ばし、ハワードはその顔に憤怒と憎悪を浮かべ、まるで巨像のように椅子に深々と座りなおす。
その堂々たる主砲に比べれば、砲郭の六インチ砲はまさに豆鉄砲のようなものだ。
だが、その威力は巡洋艦の主砲として備えられるには十分な性能を有しており、ボラン少佐以下砲術科の練度も合わさって、商船は――いや、ドイツ帝国海軍の仮装巡洋艦はこの世の地獄を味わうことになる。
六インチ砲が火を噴き、ドイツ海軍の仮装巡洋艦の周囲に水柱が上がる。
アイルランド国旗をするすると下げた仮装巡洋艦は、見まごうことなきあの鉄十字を掲揚し、甲板上に隠蔽していた火砲すべてをあたりに発砲し始める。
まるで気でも狂ったかのような暴れようにはスループ『キングフィッシャー』の艦長キーラ・マクレイ大尉も肝を潰したのか、四インチ砲を撃ちながら少し離れようとしていた。
一方の補助巡洋艦『ヘイリング』は、移動だけでなくここでもまた戦列艦の如くゆったりと動きながら四インチ砲を景気良く撃ちまくり、至近弾を浴びて船体を海水でびしょびしょに濡らしている。
碌な水密隔壁も無いおんぼろ船が見せる気概には、感嘆する者もいれば、その危険さに肩を強張らせる者もいた。
「敵艦、なおも発砲を続けています」
マクミラン少佐が面食らったような表情をしながら言った。
六インチ砲の猛撃を浴びながら、どうして降伏しないのだと思っているのだ。
ヴィクスはゆっくりと立ち上がり、マクミラン少佐に手を差し出した。
マクミランは受話器をヴィクスに渡し、未だに抵抗を続ける敵国の船舶に目を向けた。
「砲術長、沈黙するまで撃ち続けろ。ただしそちら側で敵に降伏の意思有りと判断した場合、射撃を中止せよ。追って指示を出す」
『アイアイ・マム』
どこか投げやりなボラン少佐の応答を聞きながらも、ヴィクスは受話器を手に持ち、未だに発砲をやめない仮装巡洋艦を見る。
補助巡洋艦『ヘイリング』と似たような見た目をしているが、その主砲は水柱の大きさからして六インチ砲と同程度だろう。
だが、いくらドイツとはいえ、仮装巡洋艦の内部を軍艦のそれに作りかえるような手間は取らないだろう。
仮装巡洋艦の運命は決まったようなものだった。
右砲郭の六インチ砲が火を噴けば、砲弾は仮装巡洋艦目掛けて飛翔し、砲の後部からは巨大な空薬莢が排出され、巨大な六インチ砲弾の弾頭と装薬の詰まった薬莢を抱えた装填手たちがそれぞれ腕に抱えるものを装填し、砲手が狙いをつけて発砲する。
その単純な繰り返しが、仮装巡洋艦を殺すのだ。
巨大な水柱が周囲にあがると、仮装巡洋艦は身じろぎするかのようにぐらついたが、その甲板に備え付けられた砲はまだ動いていた。
六インチ砲弾が直撃すると砲弾は薄い外郭を突き破って内部で爆発し、甲板が内側から捲れ上がってチーク材が空に舞い上がる。
中には信管が動作せず両側を貫通して向かい側まで突き抜けた砲弾もあったが、それらは海面に叩きつけられると巨大な水柱をあげて数トンの海水を仮装巡洋艦に浴びせかけた。
数十発の砲弾を戦艦『エジンコート』が消費すると、抵抗も微弱なものとなっていた。
砲は未だに動き続けていたが、その数はたった一門になり、艦は見て分かるほどに傾斜していた。
甲板には艦上構造物の残骸や人間の残骸、チーク材の破片やひしゃげた鋼材などがちらばり、ぽつぽつとその中に人間の死体やその一部が突き出していた。
誰もが、あの仮装巡洋艦の乗組員を哀れんだ。
艦上は地獄と化し、艦の内部構造は壊滅的なまでに歪んでいるだろう。
非装甲の艦船であるため、爆発によって生じた鉄片が艦内の至る所を貫通し不運な乗員を殺傷したはずだ。
出入り口のなくなった区画に取り残された者もいるだろう。
機関部などは、もしかすると高熱の蒸気が噴出した為に全滅しているのではないだろうか。
『―――こちら砲術長、射撃を中止する。甲板に白旗を確認した』
「こちら艦長。砲術長、了解した。待機せよ」
『アイアイ・マム。待機する』
受話器をマクミランに返し、ヴィクスは仮装巡洋艦の甲板を見た。
あれが白旗なのだろうかと、ヴィクスは空しさを感じながら思う。
ボラン少佐が白旗と言ったのは、生き残った水兵が、折れたマストの近くで小銃に巻きつけた白シャツを、必死に振っているだけだった。
各艦に撃ち方止めを下令するようにマクミランに伝え、ヴィクスがハワード提督に指示を請おうとした時、死に体の仮装巡洋艦の左舷に巨大な水柱が二つあがる。
ズタボロになり半ば焼け焦げたスクラップになった船の中央が、ふわりと持ち上がったかと思えば、それは水柱が重力に従って海へ帰るのと同じように、海面と同じように下へと勢いよく叩きつけられ、耳障りな低い金属音が響いた。
船の大黒柱、生命線たる重要な部材が叩き折れた音に違いなかった。
「『L71』の魚雷だ」
と誰かが呻くように言った。
ヴィクスはなにかを殴りつけたくなるのを堪え、魚雷によって真っ二つになり恐ろしいほどの速度で沈み始めた仮装巡洋艦を見た。
甲板から飛び降りる乗組員が見えた。
流出した燃料に火が回り、浮いていた人間たちと海面が燃えた。
弾薬庫に引火したのか、仮装巡洋艦の残骸は爆音を吐き出し、生き残った水兵たちをその渦に巻き込みながら、海底へと沈んでいった。
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