第28話「この海原が戦場」

 ドイツ陸上軍がフランス・ベルギー国境に侵攻を開始したと報告があった。

 まやかしが解かれ、来るべきときがきたのだと、ヴィクスは珈琲を飲み、サンドウィッチを口に放り込みながら、ぼんやりと思った。

 本国よりもたらされた情報は士気に多大な影響を与える。


 ベルギー・フランスにドイツ軍が侵攻したという報せは、三十年前の第一次世界大戦を連想させるだろう。

 圧倒的な破滅が、地獄の釜が開き、我々は今その釜を覗き込んでいるのだということを、嫌でも考えさせられる。

 あの戦争でヨーロッパの各国はあらゆるものを破壊し、喪失し、傷を負っていた。ヴィクスの父も、臣民海軍の士官や水兵ことごとく、父や祖父がなにかしらの分野で必ずあの戦争に関わっていた。


 大量の砲弾が大地ごと人間を耕し、塹壕を前にして無力な突撃が繰り返された。

 毒ガスが陣地を覆い、窒息しながら、爛れた肌を掻き毟りながら死んでいく者たちがいた。

 未だかつて経験したことのないような総力戦に誰もが狂っていた。


 人命が弾丸や砲弾と等しく、次々と戦場へと送り込まれていく。

 まるで屠殺場に送り込まれる家畜のように、はにかんだ若者に付け焼刃な訓練を受けさせ、リー・エンフィールドを担がせ、地獄の釜の中へと蹴落としていく。

 それがあの大戦争だ。

 誰もが親や知り合いから聞かされる、〝たった三十年前ほどに〟実際起きていたことなのだ。



「………本国から他にはなんと?」


「それだけです、艦長」


「そうか。ありがとう、少尉。下がっていい」


「アイアイ・マム」



 本国から至急帰港せよ、という命令は送られていないかと、ヴィクスは珈琲で食道に詰まりかけたサンドウィッチを胃に流し込み、一息ついてから考える。

 ドイツは今やその無尽蔵な精力と力を持って、欧州大陸を制覇しようとしている。一度その首を切り落としたはずの怪物が、ふたたび禍々しい首を生やして欧州に牙を剥いている。

 精強なる陸軍と空軍をもってして、時として歴史上現れてきた偉大な皇帝や征服者のように、欧州と言う大地をその足元に敷こうとしていた。


 それに対抗できうる国は、はたして何カ国であろうか。

 第一次世界大戦末期では、ドイツたった一カ国をイギリス、フランス、アメリカ、その他連合各国が取り囲み、多大なる犠牲を出した。

 戦においてドイツほど洗練された国はないだろうとさえ言える。砲弾から生まれた国、国家の体をした軍隊。ローマ軍団をその腹に収めたかつてのゲルマン人の末裔。



「……如何致しましょうか、少将」



 ざわつく艦橋の空気を察し、ヴィクスは木のように動かず、喋らずにいたジョージ・ハワードに言葉をかける。

 如何するも何も、本部からの命令は絶対だ。ヴィクスにも、そしてハワードにもそれは分かっている。

 だが、この場では誰かがそれを下々に教える必要があるのだ。その絶対の権力を持つ者、誰かが。



「うむ。本国から帰港の命がない以上、我々はここで通商破壊を阻止し続ける必要がある。シーレーンの防衛、我々大英帝国の方針は不変だ。現状維持だよ、ヴィクス艦長」


「了解致しました。――各員、聞いてのとおりだ。やることは変わらない。仕事を続けるんだ」



 浮ついた雰囲気が幾分か引き締まるのを感じ、ヴィクスはほっと息を吐く。

 艦橋で時間を共有する間柄であるためか、ヴィクスとハワードはお互いにお互いがどのような歯車であるかを熟知しているようであった。

 年齢からすれば、ぎりぎり親と娘といった風にもとれるこの二人の不可思議な関係に、当直のニーナ・マクミランは首を傾げる。


 ついこの間まで、艦長はまるで虎でも借りてきたかのような顔色でいたというのに、今ではまるで既知の仲のようだ。

 ヴィクスの一見すれば馬鹿らしい問いにも、その真意を汲み取って言葉を選び返答してくれる。

 それまでヴィクスとマクミランがやっていた艦橋の士気のコントロールを、今ではヴィクスとハワードが協同でやっていた。



(……なぜか、気に入らないな)



 口元をきゅっと結び、マクミランは艦橋の回転窓から外を見遣る。

 戦艦『エジンコート』の前方には波風に揺られる漁船にも見えるスループ『キングフィッシャー』がおり、そのマスト上で英国海軍旗がはためいている。

 中立国の国旗を恥もなく掲げ、非武装の艦船を攻撃する卑劣なドイツ仮装巡洋艦の姿は、まだない。


 もしかするとここに第11任務部隊がいるということが、敵側に漏れているのかとマクミランは思う。

 しかし、それはないとすぐに断定した。

 位置情報が漏れているとすれば、ここにいるのは仮装巡洋艦などではなく灰色狼の群れだ。


 目元を押さえ、深く息を吸い込み、マクミランは背筋を伸ばす。

 我々は情報においてドイツに負けるはずがないという自信が、彼女にはある。

 そして同時に、ドイツ海軍などに我々が負けるはずがないという信念もだ。


 旧式艦艇と女性ばかりの臣民海軍だが、ドイツの海軍もたいしたものではない筈だ。海軍を作るのは、容易ではない。一度すべてが破壊されたのならばなおさらだ。

 慢心ではなく、現実問題としてマクミランはそう考えていた。

 戦術的に負けていたとしても、戦略的に大英帝国は勝つだろうと。そしてあの大戦争と同じように、再び勝利を手にするだろうと。


 しかし、いかに精強な大英帝国の海軍と言えども、無血の勝利はありえない。

 ドイツの降伏、それまでにどれほどの血が流れるだろうかと思った辺りで、艦内電話が鳴った。無意識に受話器を取り、いつも通りの受け応えをする。

 何度かマクミランは受話器越しに言葉を交わすと、受話器を取った時と同じように素早くそれを元に戻し、ヴィクスに告げた。



「―――艦長、後部艦橋の右舷見張り員が四時の方向、地平線に艦影を確認したとのことです」


「艦影の特徴は?」


「三島型、二本マスト、煙突が一、デリックらしきものが二、見えたそうです」


「旗は?」


「アイルランドのものだったと」



 ヴィクスの表情が不快に歪むのをマクミランは見なかったことにする。

 そうか、と口にし、ヴィクスはしばし考えた後、同じように渋顔になっているハワードに言った。



「少将」


「うむ。『キングフィッシャー』を先行させよう。『ヘイリング』には臨検用意を知らせるんだ。海兵隊を集めるようにと」


「アイアイ・サー」


 ハワード少将の命令を復唱し、ヴィクスが指示を飛ばす。マクミランはその指示を細分化し、各部署に通達した。

 遠い欧州本土でいかな戦いが起こっているのか、彼女たちは知らない。

 今、この海域が彼女たちの戦場であった。

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