第25話「ピューリタン・ハワード」

 ジョージ・ハワード予備役少将は椅子に腰を掛け無言でただただ、じっと回転窓越しに海原を見つめていた。

 大英帝国の船乗りの大半は、大昔よりこの海原を敵と感じたことはなかった。我らが国を取り囲むこの海原を敵として捉えてしまっては、大英帝国は大英帝国としてその名を轟かせることなどなかっただろう。かつて、ローマ帝国さえ辺境と扱い、欧州の外れの田舎であったイングランドは、海原を制して初めて、真に世界に冠たる帝国としての地位を得ることが出来たのだ。

 そしてその伝統を引き継いだかのように、ジョージ・ハワードも同様に海原を敵と感じたことはない。海との戦いとはつまるところ自分と船員の訓練度合いが試されているのだと感じ、度重なる困難を全て試練だと思い、自分自身に負けてなるものかと意固地になって対策を考え出し、試練が訪れるたびに船員たちと共にそれを乗り越えてきた。


 海原とは無限に広がる荒野であり、新天地であり、大いなる女性だった。

 愛人よりも愛おしく、妻よりも気難しく、恋人のように嫉妬深い。

 ジョージ・ハワードにとって、船乗りの友である海原も艦船も、また等しく女性だった。


 そのため、今更周囲に女性が溢れていようが気にも留めずにいた。

 しかし、彼が気にも留めずにいたとしても、周囲がそれを実践するには彼の階級は高すぎた。

 提督が着任するのもまた、他艦隊から人員が異動してくる時と同じような変化が見られる。


 軍隊とは娑婆とは隔絶された絶対なるピラミッド構造の組織であり、軍指揮官は要するに独裁者のようなものであると。

 喜ばしいことにゴシップのネタは娑婆と同じように、一部ではそれ以上の速度を持って、文字通り電撃的に広がっていく。

 自分の指揮官が、あるいは分隊長がどんな人物であるかというのを、責任ある階級を持つ者たちが値踏みするからだ。特に英国海軍においては、士官がそうであった。水兵たちはあくまで噂するに留まり、変わらずに義務を果たしている。水兵たちにとって提督がどうというよりも、自分らに近しい下士官や士官の方がもっと切実な問題となることが多かったからだ。

 しかしそれでも水兵たちは独自の情報収集網を用いて情報を仕入れては吹聴し、気付けば艦内にその噂を知る者はいなくなる。


 この悪質なウイルスの病巣を叩くべく歴史に記されない者たちは悉く規律を並び立て怒鳴り散らし、軍紀軍律の下で縛り上げて厳罰をもって営倉にぶち込みと、かなり精力的に活動はしたのだろうが、意味はなかった。噂は誰にも止められない。

 伝統と言うものは廃れぬから伝統というのであり、伝統が伝統として受け継がれる限り、この伝統もまた廃れることはない。

 帆船が過ぎ去り、汽船が通り過ぎ、タービンを備えた最新の軍艦が就役しようとも、伝統は形を変えずに生き残る。

 海軍に数多く存在する、古びた慣用句と同じように。



「マクミラン中佐」



 不意に、回転窓越しに海原を見つめながら、ジョージ・ハワードが当直のマクミラン中佐に言った。

 マクミラン中佐を呼んだだけだというのに、士官候補生の数名は直立不動の体勢をとって固まり、今から張り出しに出て哨戒に出ようとしていた者に到っては不意打ちを喰らった猫のようにその場で飛び上がった。ハワードはもちろんその様子にも気づいたのだが、気づかないふりをした。そうしてやった方が彼女たちの為になると彼は信じていた。

 しかし、ニーナ・マクミランは平静そのものの態度でハワードに答えた。



「はい。なんでしょうか、提督」


「ヴィクス艦長は、いつ休んでいるのだ?」


「はい。ヴィクス艦長はご自身が必要だと思った時にしか休みません」


「そうか。少なくとも私には、艦長はもっと休息が必要なように見えるのだが、……中佐はどう考えている? 意見を聞きたい」


「アイ・サー。ヴィクス艦長は必要とされる時に休み、それ以外の時間は艦を監督しています。過剰である、というのは本官も同感であります。しかし、ヴィクス艦長のように積極的に艦を監督する責務を負う方は、士官や水兵の正統な評価を受け易い方でもあります。でなければ、ここまでの統括は不可能だったと本官は考えております。また、そのことでヴィクス艦長の能力が損なわれたことは一度たりともありません」



 軍学校で模範解答を答えるかのような口調でマクミランがハワードに述べる。

 それを無愛想と見るか、任務に実直な態度と見るかは、ハワード次第だ。あるいは、ヴィクスの信奉者がその評価を盤石にするための嘘なのかは、この任務中にいずれ分かることだ。

 ハワードは、自分を根っからの現場至上主義者だと思っている。退屈な任務で順当に出世した連中が嫌いだった。だから臣民海軍への移籍も文句を言わなかった。おべっか使いの蔓延る政治の場に慣れた提督たちは大抵、愛想のいいイエス・マンを傍らに集めてはパーティーを開きたがる。だが、臣民海軍にはそんな提督はそもそもいなかった。パーティーを開くほどの人数がいないからだ。


 ハワードの嫌う連中は、少しばかり反抗的な美人を軍服の威光でとっ捕まえ、胸元にぶら下げた勲章のようにあちこちに見せびらかす。

 数年後にやって来る停滞と倦怠の日々のことなど知らず、考えもせず、本分を忘れ享楽に浸るのだ。海軍軍人としてあるまじき姿だ。

 そしてハワードは、そのような馬鹿者の一人ではない、愚直な提督アドミラルの一人だった。彼はかつての仲間内ではその姿勢を面白がって《清教徒ピューリタン・ハワード》などと渾名されていたほどだ。



「なるほど、了解した」



 回転窓からマクミランに視線を移し、ハワードは彼女を値踏みするようにじっと見つめた。

 まるで海原を見るかのように、胸の内に秘められた感情まで読み解き、微かな波浪の傾向まで知り尽くそうとするように、静寂が二人の間を過ぎ去る。



「君は君自身がもっとも困難な状況に置かれた時、それでもヴィクス艦長を信ずるか?」


「はい。信じます、提督」


「他の士官たちはどう思っている?」


「はい。それは本官からはお答えしかねます、提督」


「私に答えられないような状態なのか?」


「はい。いいえ、提督」



 他人の揚げ足を取ろうとするばかりの人間がいるならば、ここでマクミラン中佐を糾弾しようとしたかもしれないが、提督に対しての応答は絶対である。

 応答の後に、マクミランは自分の考えを告げた。



「他の士官たちが私と同じ答えをお答えできるからこそ、提督自らがお尋ねになったほうが良いかと考えました」


「マクミラン中佐、君には芯のある自信があるようだ」


「はい。提督」



 マクミラン中佐はじっと見つめるハワードの瞳を、同じようにじっと見つめ返しながら、静かに言った。



「私は艦と乗員を艦長同様、信じておりますから」


 

 潮風と年の瀬に揉まれた提督は、その言葉を聞いて少しばかり口元を緩めた。

 排水量3万トンを超えるこのような大型艦にあって、このような家族ファミリーを持てる艦長は、なかなかにいないものなのだ。

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