第26話「悪性腫瘍」

 夜間。戦艦『エジンコート』の艦内には、物々しい雰囲気が漂っている。


 上級士官がどれほど艦長を信頼していようと、末端の水兵にとってそれはどうでもいいことだった。

 どのような時代においても、引いては艦船と大海原の歴史において、この問題はどれだけ兵装が、船体が、戦術が、航法が新しくなってもなお撲滅すること適わず、いつの時代も船上での、これ以上ない頭痛の種となってきた。

 それはどの等級の軍艦においても起こりうる問題であり、時には凄惨たる物語として度々歴史の中に登場する。


 時には銃火器を用いず穏便に、時には銃火器や刀剣を用いて過激に行われてきた。

 それは俗に言う、〝〟と言うものである。

 末端の水兵が上級指揮官に反旗を翻して行われるこの行動は、たとえ軍艦内部に治安維持のための兵士を置いても発生することがあり、時にはその兵士すらも反乱に加わる可能性のあるものだった。


 戦艦『エジンコート』において、と言う言葉は禁句となっている。

 それは規律として定められたわけでもなければ、誰かがそう命じたわけでもない。戦艦『ロイヤル・オーク』の反乱に臣民海軍の潜水艦戦隊の一部が加わった事、そしてその後に起こった戦艦『エジンコート』での実質的反乱行為のことを知っていれば、なぜそうなったのかは理解できる。

 言わば暗黙の了解というもので、そうするべきだと水兵たちが考えたからこそ、そうなったものであった。


 戦艦『エジンコート』では多くの女性が働き、ベストを尽くしてこの鉄の城塞を運用しているのだが、城塞は女性だからといって情けを掛けてなどくれぬものだ。

 それに不平不満を言うものが、皆無とはいえない。

 どの国においても、どのような人種であっても、無論、男であっても女であっても、そのような人物は存在する。

 

 自らが選択した道だというのに、まるで自分の選択ではなかったかのような物言いをする不遜な輩など、文字通り世界には履いて捨てるほど存在しているはずである。そして英国の海軍には、水兵とは命じられたことを実行する人員であり歯車であり、彼あるいは彼女らがその命令の仔細など知らなくてもよいという風土があった。

 その不遜な輩が、戦艦『エジンコート』にも存在した。

 ヴィンセント・ビスカイトの警告した問題は、なにも自然消滅したわけではないのである。


 報告を聞いたヴィクスが医務室にやって来ると、軍医長のアガサ・ナオミ大尉が極めて不愉快そうな表情で、なにも言わずに一番奥のベッドへ案内した。

 ベッドごとを仕切るカーテンなどはなく、ただそこには一人の女が毛布に包まって震えているのが見える。

 漂流者などではない。彼女は戦艦『エジンコート』の乗組員であり、士官である。


 彼女は、甲板士官のカーラ・コリンズ少尉だ。

 癖のある黒髪に泣き黒子がトレードマークの彼女が、実習士官として戦艦『エジンコート』に乗り込んだとき、励ましの言葉を告げたのをヴィクスはつい昨日のことのように思い出せた。

 だが、目の前にいるカーラの顔はヴィクスの記憶の中の彼女とは丸っきり違っていた。

 まるで冥界から必死の思いで這い出してきたようだと、ヴィクスは思った。

 青白い肌に鳥肌を浮かべ、ぶつぶつとなにかをうわ言のように呟いている。



「なにがあった、コリンズ少尉?」



 状態を説明しようとする軍医を横に退かせ、ヴィクスはカーラの肩にそっと触れ、俯く彼女の顔を覗き込む。

 焦点の定まっていなかった双眸が、次第に生気を取り戻し、その褐色の瞳がヴィクスを見る。



「艦長……? ああ、私は、その、いえ、決して不注意で落ちたわけでは、なく………ですが、私は、もう少しで、スクリューに……」


「落ち着け少尉。なにがあったのか、説明するんだ」



 おおよそその事情について、ヴィクスは知っていた。

 夜間、左舷後の最上甲板にて悲鳴が上がり、それを聞いた下士官たちが急いで駆け寄ると、コリンズ少尉が片手で手摺にしがみ付いていた。

 すぐに引っ張り上げて事情を聞いたものの、酷く混乱し動揺していたので医務室に搬送し、軍医が負傷の確認などをしながら尋問を行った。

 

 彼女は転落したのではなく、誰かに突き飛ばされ、間一髪のところで手摺を掴んだ、とういうのである。

 海兵隊が現場検証をしようにも、夜間に甲板上で捜査を行うことほど時間の無駄にならぬものはない。

 今のところ捜査といえるものは、甲板要員のシフトを確認し、他の甲板士官や下士官に事情聴取をするのみの留まっている。


 コリンズ少尉が震える声で事件の経過について話すのを聞きながら、ヴィクスは痛みと怒りに燃えていた。

 冷静になるべしと頭脳の一部分は怒りの感情に冷や水を浴びせかけていたが、全身に篭った熱と痛みはむしろ怒りを増大させた。

 これは明らかに士官を殺害しようとして行われた行為であり、弁護のしようがない。


 許されるのであらば、ヴィクスは今ここで容疑者を縛り付けて銃殺隊を組織し、愚か者を北海のど真ん中でなんの儀式も礼儀もなく銃殺して捨ててやろうかとさえ思った。

 だが、それは艦長の振る舞いではない。大佐としての振る舞いとしても、正しいものではなく、軍人としても最悪なものである。

 たしかに英国海軍においては過去、戦闘において最善を尽くさなければ死刑と、軍法に記述されていた時代もあったが、それは合法殺人を容認するものだと今では消し去られた。


 拳を強く握り締め、エンフィールド拳銃を片手に犯人を探そうとする自分を押さえつけ、ヴィクスはコリンズ少尉に微笑みかけ、そっと抱き締めてやった。

 恐怖で震える体と体温が、ヴィクスの弱りきった身体に触れる。

 唖然として言葉を失ったコリンズ少尉に、ヴィクスは囁く。



「よく喋ってくれた、少尉。もう大丈夫だ。犯人は私が責任を持って見つけ、しかるべき処罰を与える。今は休んで、しっかり仕事ができるようにするんだ。やるべきことはたくさんある」


「は、はい……艦長、あ、ありがとうございます……」



 目を潤ませながらコリンズ少尉がそう答える。

 ヴィクスは軍医長のアガサ・ナオミを見、彼女を頼むと伝え、医務室から去った。

 医務室の外には、待ち構えていたように海兵隊のライオネル大尉がいた。

 彼は敬礼し、ヴィクスは返礼し、艦内の状況を聞く。



「甲板士官、下士官ともに知らぬ存ぜぬです。ウィングに出ていた見張りは風が酷く悲鳴すら聞こえなかったと言っております。――海兵隊としては一度、艦内捜索をやりたいところですが」


「現在我が艦は作戦行動中だ、大尉。海兵隊が捜査と任務を両立できるのならば、許可する」


「では、最善を尽くします。今回は前回の反乱騒ぎとは違い、確実に殺意を持った反抗です。艦長もお気をつけ下さい。現状、水兵だけでなく、下士官、士官ともに嫌疑が掛かった状態ですから」


「分かっている。だが、心配は無用だ大尉。少なくとも、私が信用している者たちはこのようなことをする卑怯者ではない。ライオネル大尉、海兵隊はよく義務を果たしてくれている。それだからといって、更なる負担を強いる気は私にはない。やってくれるか」


「艦長、我々は我々以上に義務に忠実な艦長にこれ以上負担を強いるつもりはありません。繰り返させて頂きますが、我々海兵隊は最善を尽くします。そのための海兵隊です」



 分かった、とヴィクスはライオネル大尉に言い、下がってよいと許可する。大尉は去り、あとにはヴィクスが残された。

 この件は提督に話すべきだろうかとヴィクスがよろよろと通路を歩いていく。

 酷い頭痛がした。頭に矢じりでも刺さったかのような痛みだ。関節は腫れ上がり、息をするのも億劫になる。


 しかし、耐えられぬほどではない。

 息を吸い、吐き出し、ヴィクスは背を伸ばす。

 やるべきことは山のようにあった。そうだ、


 明日はスループ『キングフィッシャー』に燃料を給油せねばらず、潜水艦『L71』には糧食を渡さねばならなかった。補助巡洋艦の『ヘイリング』のポンプの調子が悪い上に、滑車が壊れて使い物にならないから、それらすべてをこの『エジンコート』がやらなければならなくなった。

 予定は詰まっている。それが終われば、再び捜索が始まり、燃料が帰路分を残すまでとなる時まで、ここにいなければならない。

 誰もが帰港を待ち望み、あるいは敵との遭遇を望んでいた。


 その遭遇によって誰かが死ぬことになるという現実は、不思議なことに大多数の人間の頭の中には入っていなかった。

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