第24話「戦艦の心臓」

 艦長が艦内を巡回しているという噂はどこから流れたのか、それは艦底にある機関室にまで広まっていた。

 艦内の中でもっとも劣悪な環境にある機関室は、言わば戦艦『エジンコート』の心臓であり、弾薬庫と共に最重要防護区画として厚い装甲で守られている。英国式の設計の艦ならば、たとえ他がいくら薄かろうとも弾薬庫と機関部は装甲で守られている。そこさえ破壊されなければ、浮力のある軍艦は意外とタフなのだ。

 だが、機関室はその性質上艦内のもっとも奥まった場所、艦底部にもっとも近い場所にあり、退艦時に最上甲板に出てくるのが一番遅い兵科でもあった。故にここは穴倉と呼ばれ、他の兵科の者はあまり近寄りたがらない。騒音と熱に常時晒される空間は、そこで仕事がないのなら誰だって敬遠するものだ。


 もともと機関科は戦闘職である他の兵科と区別されており、英国海軍でもかの有名なジョン・アーバスノット・フィッシャー提督とウィリアム・パルマー海軍卿が‶セルボーン=フィッシャー・スキーム〟と呼ばれる兵機一系化改革を行わなければ、そして大戦勃発に伴いフィッシャー提督が第一海軍卿に返り咲かなければ、英国の機関科兵員は今でも「指揮権もない罐焚き野郎」として戦闘職である他兵科から差別されていただろう。

 大戦後、英国海軍では再び兵科と機関科が再分離されるなどの流れもありはしたが、臣民海軍ではフィッシャー提督ら改革派の流れを汲み、機関科も戦闘職であるとして一括りになっていた。フィッシャー提督の失脚にともなって中央での出世の道が閉ざされた者たちが、この臣民海軍に左遷させられたためだ。彼らは彼らなりの王国を、この臣民海軍で築こうとしていた。その名残だ。

 もっとも、これは人気のないだろう機関科にもそれなりの人間が入るようにしなければ、臣民海軍の艦艇の機関を動かす兵員が確保できないだろうという現実的な見通しに基づいてのことでもあって、決してその取り組みが先進的なものであるとは言いがたかった。根強い伝統と現行の規律の衝突は、戦時において致命的な事態に繋がることもあるのだから。


 戦艦『エジンコート』の機関長エディス・プリチャード中佐はそういった機関科に在籍しながら、今現在でも機関科にかける情熱を失わない珍しい人種だった。

 ついでに言えば誰にでもニックネームを付けたがるウェールズ人の、女性のものとは思えないだみ声を発するウィスキー好きの飲んだくれだ。

 まだ石炭で動いていた頃の『エジンコート』と、新しく心臓を移植されて図々しくも重油以外に受け付けなくなった痩せぎすの老女たる『エジンコート』の両方を知る数少ない人物で、ヴィクスが腹を割って話せる数少ない軍人の友人でもある。



「艦長、なにかありましたけ?」


「艦内の巡回だ、プリチャード中佐。……もう耳に入っているものだとばかり思っていたがね」


「耳にへーっていたかもしれもせんが、もしかすっど機関の作動音であれい流されちまったんかもしれねえすな」



 にんまりと唇の端を釣り上げて笑うと、痩せっぽっちの中年女性も少しは若返るものだなとヴィクスは思う。

 百、いや数百だろうか。それほどのメーターやパイプがあちこちに散乱している機関室の長はすっかり枯れ草のようになってしまった茶髪を裁ちバサミかなにかで適当に切り揃えたような髪型をし、案山子のように細い上にヴィクスを見下ろすほどの背丈の持ち主、つまりはのっぽだ。

 褐色の垂れ目のせいか、どこか柔和そうで大人しげな雰囲気を纏ってはいるが、こと機関の扱いに関しては誰よりも厳しく、兵員を容赦なく怒鳴りつける苛烈な気性の持ち主でもある。


 蒸し暑い機関室にいるせいか、紺色の軍服の下に来たシャツは熱などで劣化が激しく、彼女が他の士官たちと同じ材質のシャツを着ているのだと信ずる人間がどれほどいるのかヴィクスは気になった。

 きっと誰も信じないに違いない。

 汗の所為か、色だってすっかり変わってしまっているのだ。

 


「ジョン・ブラウン社製の心臓の調子はどうかね?」



 ヴィクスが言うと、プリチャードは肩を竦めて言った。

 まるでヴィクスがすべて知っていて、あえて機関長の自分に聞いているのだ、とでも言いたげだ。



くもわーくも。この手の機関にはどっこかしら無理があるもんでさ。ネルソン級の機関が良い例でさあな。クイーンエリザベス級とリヴェンジ級は235psiで16バールのヤーロウ社製の機関ときて、こちとら250psiの17バールでジョン・ブラウン社ときたもんでさ。ま、なんとかなっちょりまさ。ただ、止めろとか無理だとか機関室から声が上がったらそんときゃは言葉通りの意味だと思ってくださらねえど、えれー事になりまさあ」


「というと?」


「機関が損傷、最悪航行不能になってもおかしくねえってことでさ、艦長。私らは機関の扱いに関しては誇りを持っちょります。それだから言いますが、この機関にも皺寄せされた部分ってのはあるんでさ」



 ヴィクスは黙って頷く。

 戦艦『エジンコート』の三面図を見れば、それは容易に判明することだ。

 多数の主砲塔を持つが故に、弾薬庫があちこちに存在する異様な配置の中に、あの大きなボイラーやギヤード・タービン、そしてシャフトを組み込まねばならないのだ。


 それだけならまだしも、ジョン・ブラウン社はネルソン級ほどではないが軽量化のために粉骨砕身の努力を持ってこの機関を開発、製造している。ネルソン級でさえ、3万5000トン以内という縛りの上にあるのだ。やりにくいはずだ。

 この罰ゲームにも似た戦艦の新機関製造になぜジョン・ブラウン社が手を上げたのかはヴィクスには理解できなかったが、それでもジョン・ブラウン社はよくやったと心底思っていた。

 その証拠に戦艦『エジンコート』の機関トラブルは航海を重ねるごとに減り、その初期のトラブルにしてもほとんどがヒューマンエラーによるものであった。


 今ではプリチャードを始めとする機関科士官たち、そして下士官たちまでもがこの新機関に対する知識や実践の経験を積み、扱いを心得ている。

 そのプリチャードが念を押すように言うのだから、首を横に振るわけにもいかない。

 事実を事実として認識しなければ事実ではないという考え方は、ここでは単に致命的な愚行でしかないのだ。事実を無視すれば、ここでは高圧高熱の蒸気によってすべてが蒸し殺される。


 プリチャードに首肯し、ヴィクスは機関部を見渡した。

 チャールズ・アルジャーノン・パーソンズが蒸気タービン搭載試験艇タービニア号で観艦式に乱入し、かのヴィクトリア女王の前で英国海軍を手玉に取って見せたことより始まった蒸気タービンの歴史とその広がりは、今やどの国の軍艦にも用いられる普遍的なものとなっている。

 だがそれを戦艦に用いたのは我々連合王国であるのだと、ヴィクスは過去の栄光を思い出すような心境になりながら胸中呟く。

 偉大なる戦艦『ドレッドノート』より始まる、現代型英国戦艦の系統。


 その中からやや外れた場所に戦艦『エジンコート』は身を置いている。

 始めはブラジル、次はオスマン帝国、そして女王陛下の赤錆号と揶揄される屈辱に耐え、戦艦『エジンコート』はグランドフリートに籍を置き、あのユトランド沖で砲火を交えた。

 戦艦『ドレッドノート』の申し子たちの中において、まさに鬼子と呼んで相違ないというのに、この戦艦は今尚ヴィクスたちに遣えている。健気な田舎娘がたらい回しの挙句に臍が曲がり、今では重油しか口にしない、頑固で痩せぎすの老女へと変貌したのだ。



「上品な大佐なら、余計なお世話かもしれねえですが」


「戦艦は私の私物ではないからな。プリチャード中佐の意見は多分に参考にしている」


「なら私は満足ですな。それ以上は望んでおりませんで」



 にんまりと唇の端を釣り上げて笑いながら、プリチャードはラフに敬礼して見せた。

 ヴィクスは律儀にしてやることもないかと思いながら、プリチャードに倣ってラフに返礼をした。

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