第21話「休日の終わり」

 翌日。

 戦艦『エジンコート』は艦内もどこもかしこも騒がしかった。

 搭載を予定していたエリコン社製の四十ミリ連装機関砲は届かず、代わりに四連装のQF二ポンド砲が艦上の砲架に乗せられ、ノルウェー沖での行動中に故障、あるいは故障したと思しき箇所に関しては、次に出港まで完璧にするよう命令が下っていたからだ。


 そんな中、北海を越えたノルウェーでの作戦状況を聞く度に、ヴィクスは陰鬱とした気分になった。

 ただでさえ良い噂話がない中で、ノルウェーの苦戦に続く苦戦のニュースはその戦場から離れたものにとって、まるで十字架のように圧し掛かってくる。

 命令とはいえ戦地からおめおめと帰ってきたと後ろ指を差されるのではないかと、何度思ったかすら分からない。


 誰もがあのノルウェー沖の海を知っているわけではないのだと思っていても、あの時あの場所で発揮した勇気を値踏みされるのだけは我慢ならないが、そう言われても仕方のない状況だったのだ。

 幸いなことに、メディアは戦艦『エジンコート』など知らん顔でノルウェーの戦いを書きたて、ドイツを非難している。

 また、ノルウェー方面での経験がある士官たちがいるからか、英国海軍から白い眼で見られることもなかった。


 あの海で戦列に並び戦い、戦死者を出したというだけでも戦艦『エジンコート』は二線級で練度不足のお荷物から、ようやくまともな戦力の一つとして数えてもらえるようになったのだ。依然として練度不足気味ではあるものの、死と隣り合わせに一つの敵と戦う状況は皆の意識を統一させるのに役に立っている。

 所謂、処女を切ったというやつだと、ヴィクスは思う。ノルウェー沖で二隻の巡洋戦艦と対峙した後も、来るべき叱責は思ったよりも少なかった。むしろこの痩せぎすで装飾華美な老女が、よくもまあ生きて戻ってきたものだと驚く者の方が多いくらいだった。

 二度の実戦を経験して、ようやく戦艦『エジンコート』はその戦艦バトルシップという名に恥じぬ扱いと敬意を持たれるようになったのだ。


 だが、この人はそういった経緯でこの戦艦『エジンコート』を褒めているのではないなと、ヴィクスはちらりと後ろを歩く老人を見遣る。

 老人の背は曲がっていない。皺だらけで潮風に当たりすぎて痛んだ肌と髪。かつて黒かった髭や髪は艶のない鉛色に変色し、右の頬骨辺りに肉が削がれたような傷跡がある。その皺だらけの両手にも、火傷の後や削がれたような古傷がいくつも見えた。

 それでいて老人が浮浪者に見えないのは、海軍正装をしっかりと着こなし、眼深に帽子を被っているからだけではない。


 その鋭く細いアイス・ブルーの瞳は未だに生気に満ち溢れており、なにもかもを威圧するような覇気があった。右手に掴んでいるパイプはよく使い古されていた。

 腰はまっすぐで、その立ち振る舞いはシーマンシップを体現する老紳士のようでいて、胸のうちに荒れ狂う海原のような凶悪さを秘めているように思える。

 こんな人物がどうして予備役に送られたのだろうかと、不思議に思うほどだ。


 予備役少将、ジョージ・ハワードはヴィンセント中将が予告した日時よりも早く、戦艦『エジンコート』にやってきていた。

 早朝に電話があり、すぐに見たいとだけヴィクスに告げ、海兵隊の仰々しい出迎えもなにもいらないとして、午前十一時に桟橋に自分が運転する車で来た。

 前日にはハンター・キラー・グループに所属する予定の補助巡洋艦『ヘイリング』と旧式のスループ『キングフィッシャー』の視察を終えており、予想以上に酷い状態だったと苦々しげに呟きながらタラップを渡った。


 そうして今、戦艦『エジンコート』内を案内しながら、ヴィクスはこの老人に古臭いなにかを感じている。

 とはいえ、そう邪険にするものでもない。この老人は第一次大戦からこのかたずっと、海軍の名誉と誇りを重んじ、それを磨き続けてきたのだろうと思っただけだ。第一次大戦からこのかた、軍人の給与と扱いは右肩下がりで、士気を維持するのは困難だった。十分な給与を払わずに責務だけを押し付けるのは、いつだって愚者のすることだ。その責任の在処は、いつの時代もなぜか現場の者に押し付けられるものだが。

 そんな時代を経てもなお、ジョージ・ハワード予備役少将は気概と風格を保っていた。むしろそれは戦艦『エジンコート』にとって必要不可欠なものであり、これにはヴィクスも肩の荷がいくらか下りたようだと笑みを浮かべる。



「……ああ、『キングフィッシャー』は酷いありさまだった。艦体には錆が浮き、排水口はヘドロでいっぱいだ。いつペンキを塗りなおしたのかすら定かではない。それに比べて、ここは英国海軍にそれなりに近いようで安心したよ、ヴィクス艦長」


「お褒めの言葉、ありがとうございます。しかし、『エジンコート』は私が乗り込む前からこうでした、ハワード提督。臣民海軍旗艦であったころから、この艦は整備され、運用されてきました」


「戦艦は名ばかりではないようだな。……〝あの〟『フッド』の後釜というのも、なかなか名誉な仕事だ。遣り甲斐があるだろう」



 本気で言っているのかとヴィクスは思ったが、ハワードの言葉には少し皮肉ったような響きがあった。

 そのためヴィクスは苦笑を浮かべながらうなずく。



「ええ、まったくです」


「時にヴィクス艦長、L型潜水艦の『L71』についてなにか知らないかね? 彼女も我々のグループに入ると中将から聞かされていたのだが、スカパにはいないようなのだ」


「あぁ……『L71』ですか。彼女はチャタム工廠で修理を受けた後、のっそりと我々に合流するでしょう」


「ほう、チャタムか。あそこも仕事をさせんといかんからな。――しかし、戦前の演習で臣民海軍の水上艦艇を弄び、最後は水上砲撃までやったじゃじゃ馬らしからぬ登場になるな?」


 

 相槌を打ちながら、ヴィクスは笑うしかなかった。

 練習艦として戦間期を過ごし、臣民海軍に払い下げられた潜水艦『L71』は、対潜護衛を想定した演習で駆逐艦二隻、軽巡一隻を撃沈判定に持ち込み、戦艦『アイアン・デューク』に二発の魚雷を命中判定に持ち込んだ深海の狂犬だ。

 最後は対潜行動ができる艦がいなくなり、魚雷も撃ちつくしたため浮上して戦艦『アイアン・デューク』に肉薄したてやったという。潜水艦でビーティー提督の真似事をして何が悪いとは、その艦長の言い分だった。


 もちろん、これは演習の範囲を著しく逸脱した行為であり、艦長は減給に加え禁錮刑と少尉への降格処分が言い渡された。

 その後、巡りに巡って『L71』の艦長は、演習時に大暴れした狂犬に戻ったという話だ。名前はたしか、イライジャ・ヒースコート中尉だったはずだ。

 あまりいい噂は聞かないが、艦長として優秀ならばそれで良い。



「そうなりますが、『L71』の能力が損なわれるわけではありません。ドイツ海軍の襲撃艦対策として、あれ以上の戦力は今臣民海軍にはありません」


「仮装巡洋艦か。聞けば中立国の国旗を掲げ、平然と商船を襲撃するそうだな」


「……そのようです」


「戦争とはいえ、戦争にもルールがある。ルールも忘れた馬鹿者には拳骨を落としてやらねばならん。――ヴィクス艦長、視察はこの位で終わりにしよう。見たところ、戦艦『エジンコート』は一戦に耐えられるであろうと確信した」



 ヴィクスが振り返ると、ハワード少将はしきりにうなずきながら、手を差し伸べた。



「一戦、また一戦と、なんとか耐え抜いてきました。提督のご期待に応えられるよう、我々も勤めます」



 言葉を選びながらヴィクスが言う。伸ばされた手を掴み、しっかりと握る。

 ハワード少将の手はいたるところにできたタコや古傷のせいでごつごつとしており、まるで削りだされた岩に皮膚がくっついている様な感触だった。

 予備役に入っていたとはいえ、この男もただものではないと思ったが、ヴィクスはあえて心を許すことはせず、警戒することにした。

 こういう類の提督は時折居るが、なにもかもが戦場で機能しなくなる可能性がある。すべては戦場が決めることだ。



「うむ。出航まで日がある。君も上陸して疲れを取りたまえ。休むこともまた戦いだ」


「アイ・サー。――お見送り致します。どうぞ、こちらへ」



 ハワード少将を甲板まで誘導しながら、ヴィクスはふと、マグカップになみなみと注いだ熱いコーヒーが飲みたいと思った。




―――




 ジョージ・ハワード少将の査察を終えて尚、戦艦『エジンコート』の喧騒は続いた。

 半舷上陸を終えて帰ってきた士官がそれぞれの部署に戻ると、一部ではさらに騒音が増し、ヴィクスは上陸すべきかしないべきか悩むことになった。

 結局上陸したものの、ヴィクスにとってスカパはただの母港でしかなく、ただゆっくりと柔らかいベッドで眠り、暖かいシャワーを浴び、髪と体をしっかりと洗うこと以外にすることがなかった。

 他にも、熱いコーヒーを飲んだり、酒を飲んだりもしたが、これといって特別なことなどなにもせず、気がつけば上陸期間が終わっているという有様だった。



「お帰りなさい、艦長」


「ただいま、カーン大尉」



 クリーニングに掛けた制服を入れたトランクを片手に、ヴィクスは桟橋で戦艦『エジンコート』の海兵隊指揮官であるライオネル・カーン大尉から敬礼を受け、返礼し、苦笑した。

 航海中はあれほど陸地や陸地の上に乗っかっている物や事象が懐かしく、渇望さえしていたというのに、いざ上陸してみるとなにもかもが虚構としか思えなかったのだ。

 自分にはやはり、ここしかない。


 海の上に浮かぶ城。物々しい我が家。

 海軍という、唯一無二の家と、家族。

 陸地にあるもののほとんどに失望しながら、ヴィクスは海上へ希望を見出し、いつの間にか清清しい笑みを浮かべている。



「さて、次の航海へ往こうか。――提督が到着次第出港せよ、とのお達しだ」


「アイアイ・マム。我らは常に用意万端ぞ、です」


「よろしい。では、待とう。最後の陸地だ。しっかりと踏みしめないとな」



 鞄を従卒に手渡し、ヴィクスはカーン大尉と並んでジョージ・ハワード少将を待つことにした。

 これから往くことになる厳しい航海を思い浮かべても尚、ヴィクスは気分がよく、平穏な面持ちでいることができた。

 だが、またこれから立つことさえ億劫になるほどの疲労を背負いながら、戦艦を運用しなければならないということに変わりはない。



 そうして、戦艦『エジンコート』は煙突から排煙を巻き上げながら、白波を立てて戦いを求め海原を駆け、スカパ・フローより出でた。

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