第13話「今と次の戦い」

 世界が傾いだ、というよりは、右斜め前方に微かにスライドしたと言った方がより正確だろうか。

 なんとか両足を踏ん張って堪えたヴィクスは、被弾したのだと直感した。

 ノルウェー沖での戦闘時よりも衝撃は強く、あきらかになにかが鉄を貫きその重量を叩きつけたのだと分かる轟音が響いている。


 しかし、ただそれだけだった。誘爆もなにもなく、未だに戦艦『エジンコート』は健在である。

 ロフォーテン諸島沖の零度に限りなく近い極寒の海原を艦首で切り裂き、その要塞の如き巨体を海面に滑らせ、この地上の大半の物体を破壊可能な十三.五インチ連装砲、計十四門を左舷の敵艦隊へ向け、撃ち続けていた。

 ダズル迷彩で彩られたその巨体には着氷が所々に見られ、それはまるで薄化粧をしているかのようであったが、砲撃戦の衝撃波は凄まじく、こうしている間にも主砲バーベット部などの着氷は砕け散り、甲板の上でごろごろと無様に転がっていた。


 艦橋を見渡しながら、ヴィクスは言った。

 エジンコートが健在であるならば、我々もまた健在でなければならない。

 彼女を動かす人間は、ここにいる我々を他に置いて存在しないのである。


 どれほど恐怖で腰が引け、足が震え、手が言うことを効かなくなったとしても、この戦艦『エジンコート』に乗り込んでいるからには、戦わなければならない。

 未だびりびりと震える椅子に手を置き、両足をしっかり床につけ、痛む関節を無視しながらヴィクスは艦長として振る舞った。

 いや、振る舞わなければならなかった。



「各部署、被害報告!」


「っ……後部甲板に被弾した模様。現在被害状況確認中です、艦長! 最寄りのダメージコントロール班を向かわせました!」


「よろしい。シルヴィア少佐、その調子で対応を頼む」


「アイアイ・マム。……当たりましたね、艦長」


「戦艦同士の殴り合いだ。当たらない方がどうかしているのだ」


「失念していました、艦長。被害状況確認に戻ります」


「うむ。やってくれ」



 顔をうっすらと朱に染め、口元に引きつった笑みを浮かべながらシルヴィア少佐が動く。

 各部署からの報告を聞き受け、記憶し、頭の中に存在するエジンコートの見取り図と掛け合わせ、艦内がどうなっているかを把握する。

 それは慣れた者にしか到底できない芸当ではあったが、シルヴィアはよくやった。


 ひっきりなしに飛んでくる被害報告を、パニックに陥らずに処理していた。

 時折、報告にもなっていない意味不明な言語が聞こえ出すと、びくっと肩を震わせるのが心配だったが、それでも彼女は副官としての任務を全うしている。

 良い傾向だとヴィクスは思ったが、同時に怖くもあった。


 いったいなにが彼女を変えたのか、いまいちよく分からなかったのだ。

 このロフォーテン諸島沖の海がか、はたまた、迫りくる敵弾の恐怖か。

 それとも、ようやく自分の階級に相応しい振る舞いを思いついたのか。


 

「少尉、主砲射撃指揮所に内線を繋いでくれ」


「アイアイ・マム。どうぞ、艦長」



 艦橋に居た少尉の一人に声をかけ、ヴィクスは少尉から受話器を受けとり、窓の外を見ながら声を張り上げる。

 主砲の砲声と敵砲弾の着弾音、そして艦橋内の報告や確認がうるさく、とても普通の声量で会話ができる環境ではなかった。

 もっとも、それを言うのなら機関室の方がうるさい。


 機関科の人間は独特な読唇術と発声法を心得ているからか、まるで騒音など存在しないかのように振る舞う。

 だが、実際は常人には耐えがたい騒音の中で作業を行っている。

 蒸気を目いっぱい溜め込んだ巨大なボイラーで、タービンを回しシャフトを回し、スクリューを回転させ巨体を動かしているのだから当然だ。



「こちら艦長、主砲射撃指揮所、異常はないか?」


「こちら主砲射撃指揮所、―――し、水曜日砲―――せん」



 なにを言っているのかさっぱりだと、ヴィクスは忌々しげに艦橋から見える日曜日砲塔と月曜日砲塔を睨みつけると、再び声を張り上げた。



「発砲音のせいでよく聞こえない。もう一度繰り返せ」


「アイアイ・マム。主砲射撃指揮所、異常なし。水曜日砲塔も異常ありません」


「よろしい。引き続き砲撃を頼む。期待しているぞ」


「イエス・マム。もったいない言葉です、艦長」



 要員の手をこれ以上煩わせるわけにもいかず、ヴィクスはそれを聞くと小さく相づちを打ち、受話器を少尉に返す。

 そして自分がいるべき場所である、艦長席の前に立つと、両足を踏ん張って海戦の様子を見守った。

 主砲がまるで戦艦『エジンコート』の憤怒を表すかのように火を噴き、一四○○ポンド六三五キログラムの砲弾を敵艦へ降らす。


 艦と砲、それぞれ数奇な運命に転がされ、弄ばれ、北極圏の冷たい海水を浴びながら、それでも老女は義務を果たそうと健気に戦い続けている。

 我々が指針とすべきは、この『エジンコート』そのものなのかもしれないと、ヴィクスは思った。

 被弾の混乱がようやく納まってきた時、ふいにシルヴィア少佐が声を張り上げた。



「艦長、敵艦隊、退避行動に移った模様です。『レナウン』が増速をかけ、これを追撃す、とのことです」


「よろしい。では、スカートをまくり、我らは『レナウン』の尻を追おう。少尉、次は機関室に内線だ」


「アイアイ・マム」


「――こちら艦長、機関室、これより増速をかける。機関状態はどうか?」



 建造されて此の方、戦争と新兵育成に尽くしてきた鬼子である『エジンコート』だが、その心臓たる主機は一新されている。

 とはいえ、この想像を絶する極寒の海において、なにも不具合は起こらないということはありえない。

 もともとが限られた機関スペースにどうにか押し込めたという主機であるため、巡洋戦艦『レナウン』を追随する前に、そして主機がなにかしらの問題を吐き出す前に、ヴィクスは問うた。

 少しの間があった後、女性のものとは思えないウェールズ訛りのだみ声が返ってくる。



「こちら機関室、機関長。機関状態は良好。過負荷全力公試をやるにゃ絶好の状態だと思いまさぁ、艦長」


「異常発熱が見られた場合、即報告してくれ、機関長。今ここで『エジンコート』の心臓を破裂させるわけにはいかない」


「アイアイ・マム。老婆と言えども国王陛下の所有物His Majesty's Shipでさ。丁重に扱って見せまっせ」


「頼んだ、機関長」


「イエス・マム。任されましたで」



 ウィスキーで焼けた声だと、ヴィクスは機関長エディス・プリチャード中佐の声を聞く度に思う。

 本人は怒鳴り過ぎたから声が枯れたと言っているが、本当のところは飲んだくれて喉がアルコールで焼けただけだろう。

 だがそれでも、老婆の真新しい心臓を完全に把握しているのはあのエディス・プリチャードしかいない。


 新米ばかりが多い臣民海軍の中でも、古くから在籍する女性軍人は、ヴィクスを含めて叩き上げが多い。

 新米が目立つのは出生率も関わっているからかもしれないが、どちらにせよ、すべての古い女性軍人が有能ばかりとは限らないのも、また事実だった。

 老いて時代に取り残される人間は、どこにだっているのだから。



「では諸君、我らは『レナウン』を追随し、敵艦隊を追撃する。両舷全速」


「アイアイ・マム。両舷全速」



 老い耄れよ唸れ、とヴィクスは席に腰を下ろしながら、遠く霞んだ敵艦隊を睨みつける。

 煙突から轟々と煙を吐き出し、徐々に遠ざかっていくドイツの戦艦二隻――『シャルンホルスト』と『グナイゼナウ』は、結局のところ囮だ。

 ならば、戦いはこれで終わらない。次があるはずだ。



 次は恐らく、だろう。

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