第12話「遭遇戦」

 4月9日 ノルウェー

 ロフォーテン諸島沖 英国海軍艦隊


 今度こそ徹甲弾だと、主砲射撃指揮所のボラン少佐は傍目に見て分かるほどに機嫌が良かった。

 忌々しいあの戦艦を今度こそ吹き飛ばしてやると言わずとも、彼女がそう思っているであろうことは、主砲射撃指揮所どころか、艦橋や七基ある主砲塔の要員にさえ分かっただろう。

 なぜならその声は弾み、上機嫌に高く、生き生きとしていた。


 伝声管や通信機越しでもボラン少佐の機嫌の良さが、簡単に分かるほどにである。

 もちろん、何時も素っ気ないボラン少佐がそこまで機嫌が良いのだから、副官がヴィクスになにか言わない訳がなかった。

 これがシルヴィア少佐であれば頭の中で勝手に報告せずとも良いと解釈し、なにも言わなかったかもしれないが、それが先任であるマクミラン少佐であるならば、報告しない理由がないのだ。


 だが、ここにいるのはそのシルヴィア少佐だった。

 時刻は午前四時。本来であれば当直が交代し、ここにいるのはナイトウォーカー少佐であるべきなのだ。

 が、午前四時前に敵艦を発見し『総員配置につけ』の号令が出されていた。変えたくとも変えられず、かといって無理矢理変えるとなると、シルヴィア少佐の権威は完全に失墜する。


 どうするべきだ、とヴィクスは思った。考え思案しはするが、良案は閃かず時間だけが過ぎていく。

 慌ただしく動く艦橋の中で、ただ一人小さな艦長席に座り込んだまま取り残されたような感覚だけが、ヴィクスを焦らせる。

 落ち着けと自分に言い聞かせはするが、それで簡単に落ち着けるのならば苦労はしない。


 身体の節々が痛む。

 自分の腕さえ重い。

 だがそれでも、やり遂げなくてはならない使命があるのだと、ヴィクスは自分の体に鞭を打つ。



「シルヴィア少佐、砲術長が浮かれすぎてはいないか?」


「は? いえ、本官はそのようには感じませんでしたが……」


「そうか。なら、良い」



 借りてきた猫のように大人しいならまだいいが、士官として自分を押さえ込むこともできないのは甚だ不愉快だと言いたくなるのを堪え、ヴィクスは艦長席に座りながら艦橋の窓の外を見た。

 北極圏の早朝、太陽が完全に地平線には沈まぬ白夜を越え、再び太陽が天に昇り始めたとはいえ、海はまだ激しく波打っている。

 その海水は冷たく、飛沫は船体に張り付くとたちまち風を受けて氷に変わる。


 とはいえ、艦の上下運動が激しいこの中では氷塊の撤去作業を夜間に行うわけにもいかず、陽の出ている頃、命綱をつけて水兵たちが文字通り命懸けてやっていた。

 艦上に張り付いた氷は何層にも渡り、時にはピッケルの刃が貫徹せず、スレッジハマーを振りかぶって叩き割ることすらあったという。

 その上、このロフォーテン諸島沖で対峙したのが、例のドイツ海軍のあの二隻なのだ。思わず、ヴィクスは零す。



「――たしかに、呪われているのかもしれんな」


「敵艦隊との距離一八六○○ヤード、九.二海里。……『レナウン』、撃ち方始めました」


「うむ」



 巡洋戦艦『レナウン』は戦艦『エジンコート』の前方で縦列を組んでいる。

 その『レナウン』の十五インチ砲が火を噴き、轟々と黒煙が上がった。

 戦艦『エジンコート』の主砲は十四門あるがこれは十三.五インチ砲であり、その発砲煙と発砲音は『レナウン』の比ではない。


 軽量化のためにリヴェンジ級の四基八門から一基削り、三基六門となった今でさえ、その砲声は戦艦たるもののままだ。

『レナウン』の発砲で窓がびりびりと振動するのを聞き流しながら、ヴィクスは『エジンコート』の発砲と、敵艦隊からの応射に備える。



「さすが十五インチだ……」



 艦橋にいる士官の誰かが呟いた。

 無駄口を叩くなと注意すべきかと思ったが、その直後に戦艦『エジンコート』の十三.五インチ砲十四門が至近距離で炸裂する。

 射撃訓練で慣れていたとはいえ、実戦でこの砲声を聞くと腹の奥まで震えあがった。


 その威力にではなく、音と圧力、そして一瞬ではあるが強烈な光を発する発砲炎のせいだ。

 だからこそ、その砲に撃たれてなお無傷でいられると言う事実は、痛快にして愉快であり、戦艦『エジンコート』の乗組員たちは初戦に置いて自分たちは、そして〝彼女〟『エジンコート』は無敵であるとさえ錯覚していた。

 その後に殉職した水兵の御蔭で、無敵という幻想がいとも簡単に崩壊したのは、ヴィクスにとって、そして『エジンコート』にとって良いことであった。


 ヴィクスは巡洋戦艦『レナウン』と戦艦『エジンコート』が主砲を斉射し、そしてまたドイツ海軍がそれに応射するのを見遣りながら、シルヴィア少佐のぎこちない補佐に何度も激怒しそうになりはしたが、驚異的忍耐力によってそれに耐えた。

 身体の節々だけでなく胃まで痛みだしたが、なにもこれはシルヴィアのせいではないとヴィクスは思う。

 珈琲の飲み過ぎで胃でも爛れたのだろう。



「……艦長、敵艦隊、どうやら本当に二隻だけのようです」



 砲撃戦を開始してから十分ほど経った頃、シルヴィア少佐がヴィクスに言った。

 戦闘前にヴィクスが懸念していたのは、そのことだった。

 ホイットワース中将はここで敵艦隊を待ち受けるつもりでいたのだが、やって来たのは敵戦艦が二隻のみである。


 他の大型艦一隻、そして駆逐艦らはどこへ消えたのだ。

 もし、この艦隊が本当にノルウェー侵攻部隊であるとするならば、他の艦艇は今、フィヨルドの中に入り込んでいるのではないか。



「レーダー室からも、他に感はないと報告がありました」


「よろしい。それについてはホイットワース提督も了解しているだろう。今はこの砲戦に全力を尽くそう、シルヴィア少佐」


「アイアイ・マム」



 となれば、面倒なことになったとヴィクスは思った。

 この二隻は、この忌々しい因縁か呪いによって再び『エジンコート』と対峙したこの二隻の戦艦は、囮だ。

 どうすべきだとヴィクスは考えようとしたが、すぐにその考えは吹き飛んだ。

 ホイットワース提督はどう考えどう出るかと考えていたヴィクスが『レナウン』に目を向けたその時、『レナウン』の艦橋近くでなにかが弾け飛び、右舷側の海面が真っ白い水柱を上げた。



「レナウン被弾!」


「艦橋近くだったようだが、提督は無事だろうか……」


「そればかりはなんとも分かりません、艦長。しかしレナウンは、砲撃能力に支障はないようです」



 旗艦『レナウン』の被弾に動揺する艦橋に只中にあるヴィクスは、『レナウン』の砲声とシルヴィアの報告を聞き、安堵した。

 現在『エジンコート』は『レナウン』と別目標を照準しているため、もし『レナウン』が砲撃能力に支障をきたす、あるいはそのものを喪失するという事態になった時、戦艦『エジンコート』はまたもや二隻の戦艦から同時に集中砲火を受けることになる。



「『レナウン』の砲弾が、敵艦に命中した模様!」



 双眼鏡を覗いていた士官がそう言うと、艦橋内の空気は幾分か明るくなった。

 それに乗じてか、シルヴィアが言った。



「報告がないということは、戦闘行動に支障はないということでしょう」 


「そうかもしれんな。副砲は使えるか、シルヴィア少佐」


「射程圏外であります、艦長。また、氷塊の除去作業が間に合わず、凍結により使用できない砲もあります」


「よろしい。では主砲による応戦を続けよう。我々も『レナウン』に続くぞ」


「アイアイ・マム」



 どういうわけか、シルヴィアが少しずつではあるものの、まともになっているような気がしてヴィクスは驚いた。

 無自覚な生意気さと鈍感さを併せ持つこの少佐は、いつか必ず本部に上申し、しかるべき階級に戻すか、もう少し位の低い艦に乗せてもらうよう推薦するつもりだったのだが。

 実戦が彼女を変えたのか。


 それとも、まだ『エジンコート』に砲弾が命中していないということが彼女に空虚な自信を与えたのか。

 どちらにせよ、もうすぐ分かることだとヴィクスは思った。

 この『エジンコート』が被弾した時、そこでどのように振る舞うかで、彼女の今後が決まる。



「更に『レナウン』の砲弾が、敵艦に命中した模様!」



 また、同じ士官が言った。彼女は目が良いのかもしれないとヴィクスは思い、目を閉じて忘我を保つ。

 『レナウン』と『エジンコート』の砲声と、敵艦の砲弾の落着による衝撃で身体がさらに痛み初めていた。

 ブランデーを入れた珈琲を飲もうにも、今は戦闘行動中であり、さらにいえば砲撃戦中だ。


 そんな悠長なことはしていられない。

 そんなことをすれば、いや、たしかに戦闘行動中に余裕を見せるのは指揮官として部下に自信を持たせることでもあるが、ヴィクスは自分がそれほど優れた指揮官ではなく、余裕すら見せられない女であると思っていた。

 少しでも部下が自分を過大評価してくれればいいと、ヴィクスは常々思っている。


 自分はそれほど優れた軍人とは思えず、臣民海軍には長くいたが、ただそれだけであると思っていた。

 実際は海軍士官学校卒業成績は女性七十五名中三位であり、勤務態度も勤務経歴も立派なものであったが、ヴィクスはなぜかこうして自分を卑下する傾向があった。

 だからというべきか、彼女の能力を評価している者にとって彼女のその性格は陰鬱としたものに見え、時に不快な印象を与えることもしばしばである。


 しかし、ヴィクスは忘我の末にそうなったのであり、無能ではない。

 痛みに堪えながら双眼鏡を手に取り、艦長席から腰を上げ、立ち上がる。

 士官たちがそうしているように、彼女もまた遥か遠くの敵艦を見ようと双眼鏡を覗く。


 瞬間、世界が傾いだ。

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