第3話「苦悩する長」

 スカパフローに停泊する臣民海軍艦艇は、皆穏やかな波に傍目には分からぬほど微かに揺られながら、その鋼鉄の巨体を静かに休めている。

 おんぼろのトロール船に在りあわせの武装を取り付けた小型船や、冬の北海を航海することはまず不可能であろう、対潜装備と機関銃を乗せたコルベットに、通常ならスクラップにされているような旧型艦艇が、港内には総計八隻あった。

 中でも異様なのが、黒・灰・白の三色で幾何学的な迷彩を施された戦艦だった。その名を『エジンコート』と言う。


 再武装化に伴い近代化改装が施された『エジンコート』は、前大戦的な設計と近代的な設計の継ぎ接ぎのような有様になっており、お世辞にも洗練されているとは言えない形をしていた。

 艦橋はネルソン級に採用されクイーン・エリザベス級の近代化改装でも使用された箱型艦橋に改装され、機関部はジョン・ブラウン社の新型に載せ替えられていた。ネルソン級戦艦の機関設計で躓き英国海軍の信用を失ったジョン・ブラウン社からすれば、この仕事は助け舟のようなものであり、その分エジンコートの機関は狭い積載スペースにしては上等な出力を慣熟訓練中に発揮している。

 船体はバルジが設けられ、艦尾が延長され、艦首形状も実験的にアメリカ海軍の造船官デヴィット・W・テーラー少将が考案した『バルバス・バウ』に改められていた。これにより航行能力が良好なものになったと、航海日誌には綴られていたが、その真偽は海軍上層部でも疑われている。


 火力面においても『エジンコート』は進歩していた。

 進歩はしていたが、実態は解体された『アイアン・デューク級』の主砲を実験要素の強い新型砲塔に無理やりねじ込んだだけだ。

 正式名称は『Mark VI/N(H) 34.3cm45口径連装砲』だが、旧式ゆえに砲性能的には疑念が残るものである。

 この改装で『エジンコート』は弩級戦艦から超弩級戦艦にクラスアップしたものの、この種別変更はさしたる衝撃を産むことはなく、大抵の場合無視された。


 副砲の15.2㎝砲の一部は引き続き使用され続けたが、雷装は廃止されている。

 対空用としてエリコン二十ミリ対空機関砲が数カ所に搭載される予定だったが、納入が間に合わずに結局おなじみの四連装ポムポム砲が据え付けられ、その周囲には申し訳程度の防御対策として土嚢が積み上げられていた。

 対空銃座用の防弾板は次期主力戦艦の儀装が先であると言うことで、納入は当分先になると、兵站部は慣熟航海を終えスカパフローに入港したその時に通知済みである。



「見事な艦だ、張子にしては。――さて、話を戻すがヴィクス艦長。この度の〝反乱〟について、私は大いに落胆している。諸君らの、……理解力の欠如を」



 窓越しに『エジンコート』を眺めていた海軍中将ヴィンセント・ビスカイトはお世辞を述べた後、おもむろに、もったいぶって、煙草をもみ消す。

 ヴィクスはその動作になんとなく、直感的なものを感じ、物事は私の思い通りにはいかず、遭難する小舟のように良くない方向へと向かい、二度と舵を戻すことはないのだろうと確信した。

 彼女は次にヴィンセント海軍中将が、なにを口にするか知っている。


 すると一瞬、無視するにはあまりにも大きく、無作法な痛みが、彼女の項から前頭葉へと突き抜けた。

 ヴィクスはそれが敗北感と言う名の下らない感傷のせいではなく、己の身体が限界に近い兆候だと言うことを知っていたため、ひたすら耐える。

 彼女は疲れていた。人生にも陸にも、ほとほと飽きている。もはや海軍中将の言葉に神経を張り詰めることなど、できるわけがなかった。



「ロンドンにこのことを報告するのはとても――とても気が滅入る。これより英国海軍からは、さらに白い目で見られることになるだろう。君の艦、君の水兵の、……我々が信ずる個々の自由意思と主権によって」



 こちらを激怒させようと皮肉を言っているのか、とヴィクスはげんなりしながら思う。

 この手の策は気に食わない軍人を、振るいに掛けるようなものだ。臣民海軍に、振るいに掛けるほどの士官が、かつて存在したことがあっただろうか。

 〝休め〟の体勢で立ち続けているヴィクスに、ヴィンセント中将は話を一時中断し、白銀のシガレットケースをさしだした。

 ヴィクスは黙ってかぶりを振ると、ヴィンセント中将は薄笑いを浮かべて、一本取り出した。彼は灰色のダブルの背広の胸ポケットに、ケースを落とし込む。

 そして、彼が椅子に座り直し、煙草に火を点けたとき、笑いはすっかり消えていた。

 一瞬、齢六十四歳のヴィンセント・ビスカイトがやって来たが、今や彼は臣民海軍本部幕僚長ヴィンセント・ビスカイト中将となっている。



「危機的意識と言うものが、欠如しているようにも思える。我が英国は九月三日、ドイツに宣戦布告した。そのことを、『エジンコート』の水兵は理解しているのか、私は疑問に思っているのだ、ヴィクス艦長」


「申し上げました通り、閣下。これは〝反乱〟ではなく、一種の〝差別意識レイシズム〟なのです」



 ヴィクスは苦しげに息を吸った。

 彼女の肺や気管、そしてその身体はすでに弱りきっている。



「我が艦にはスコットランド、北アイルランド、ウェールズの、三つのカントリーの辺境から志願した女性水兵が乗り込んでおります」


「ふむ」ヴィンセントはもったいぶって、紫煙を吐いた。「続けて結構」



 ヴィクスは煙草の匂いを嗅ぎ、やや間をおいて言う。



「彼女らは賢いのです、中将。我々イングランドが彼女らの先祖になにをしたかをしかと記憶し、学んでおります。そして、我々は海軍学校で学んだイングランド人です。彼女らは我々を恐れ、彼女らの恐怖が我々の末端である水兵に伝染し、命令不服従に繋がったのであります」



 ヴィクスの至極在り来たりな報告の後、ヴィンセント中将は煙草を吹かしながら椅子にもたれ掛かる。

 そのわずかな間にヴィクスは、先程までの皮肉は私を激するためではなく、私の反論を誘い出すためのものであったのではないか、と思った。

 傍目から見れば、ヴィクスは老け込み疲れ果て、目には静寂をたたえ、身体は凍り付いたように微動だにせず、まるで幽鬼のような様である。


 彼女は英国海軍の補助任務についていたアフリカ艦隊所属の『シアリーズ級軽巡洋艦』で一時期航海長として勤務した際、赤痢に罹患し、それ以来健康的とは言えなかった。

 青い瞳は精気を失いつつあり、潮風に長く当たったせいか肌も綺麗とは言えず、艦内勤務のせいでただでさえ白い肌は雪のように白くなっている。

 肉付きの良かった身体も今では痩せこけ、ネイヴィーブルーのダブルコートをきっちりと着こなしていなければ、あまりの華奢さに誰もが気遣う素振りを見せる程だ。



「勘違いを……」



 ヴィンセント中将はまたも紫煙を吐きだした。

 その様子を見たヴィクスは煙草を断ったことを一瞬後悔したが、今更一本貰えますかなどという戯言が許される雰囲気ではない。



「士官や君は撤回できなかったと。どうやら私が思っていた以上に、君らは問題解決能力が欠けていたようだな」



 ヴィンセント中将の言葉にこれ以上なにを言っても無駄なのだろうと、ヴィクスは溜息を堪えながら思った。

 元より、臣民海軍士官の練度は低いのだ。水兵たちが不安がり相談しても、士官は「害はない」の繰り返しだったと、先任下士官の報告もある。

その士官らを統括できなかったのは、艦長であるヴィクスの責任だ。

 艦長であるということは、責任者――もしくは保護者であるということである。子が為した不敬を認めなければ、親とは言えない。

 ヴィクスは決心し、またもや苦しそうに息を吸った。



「その通りであります、閣下。本件は本官と、士官らの練度不足に起因するものであり、つきましては、艦長である本官の能力不足によるものであると――」


「結構だ。ヴィクス艦長」



 ヴィクスの言葉を遮って、ヴィンセント中将が言った。

 その物言いは倣岸で一方的ではあるものの、威厳と重々しさが感じられる。



「よく分かった。実によく分かった」



 言葉を遮られたことに対する怒りよりも先に、ヴィクスは、救われたと思わず感じた。

 弱った身体では、威厳ある言葉を紡ぎ出すだけで疲労する。

 すでにヴィクスがこの部屋に着いてから、一時間半は経過していた。始めは慣熟航海の成果と、記録を参照しての問題点の洗い流し。次に各兵科の練度と士気。

 最後に、この反乱騒ぎに関する課題だ。

 疲れた、とヴィクスは思っている。事実として彼女は疲れ果てていた。

 しばしの沈黙の後、ヴィンセント中将は煙草を揉み消し、手袋を手に取る。

 そして意味ありげに立ち上がり、年相応の息を一つ吐いた。



「全て解決せよ。ヴィクス艦長。これは命令である」



 ヴィンセント中将は少し間を置いた。



「私の――英海軍本部付臣民海軍本部幕僚長としての、最上位命令だ」



 休め、の姿勢から直り、ヴィクスは答える。



「了解致しました、ヴィンセント中将閣下」


「下がってよろしい。ヴィクス大佐」


 ヴィンセント中将に言われるまま、ヴィクスは部屋を去った。



―――


 どの時代もそうであるように、責任と言うものは、上へ上へと押し付けられ、最終的に誰かの手元に落ち着くまで、その持ち主がはっきりとしないものである。

 慣熟航海中に起きた些細な不服従は、戦艦『エジンコート』内部の問題にとどまらず、その設立経緯からさまざまな侮蔑を投げかけられる臣民海軍、ならびにその主であるヴィンセント・ビスカイト中将の元へまで、個人の偏見による変換を除けば、その詳細まで知れ渡った。

 が、それらが広く知れ渡ったところで臣民海軍の名声はそれほど低下したわけではない。


 元より、英国海軍からの出向士官が居て初めて成り立つような補助海軍など、正規軍である英国海軍からすれば足元に及ばず、陸軍からすればこの問題はまったく関係なく、艦砲射撃などの支援を受けられれば、誰でも良いとのことだった。

 戦艦『エジンコート』が十一月二十一日に帰投し、その日の内に艦長であるマリア・ヴィクス大佐がヴィンセント・ビスカイト中将から最上位命令並びに、次期航海予定を受けたのは、ヴィクス大佐の健康を考えるならば、あまりに早急過ぎる日程だった。

 だが、スカパフローにこの噂が広まる前に出港できたのは、成功であったと言う他ない。


 臣民海軍第一艦隊所属『エジンコート』は、燃料と食糧、弾薬、その他物資が積み込み次第出港する事となった。

 予定日は十一月二十七日で、それまで乗員には交代で上陸許可が出ていたが、これは二十三日夕方には取り消しとなり、上陸中の乗員は艦に呼び戻され、それでも戻ってこない乗員は憲兵隊や海兵隊に連行され軍艦に詰め込まれた。

 なにが起こったのか水兵たちが知らされるまもなく、戦艦『エジンコート』はその老体をスカパフローから、一路北海へ移動させねばならなくなった。

 精確に言うならば、北海のメイン諸島沖海域に向け、である。


 スカパフローから出港した戦艦『エジンコート』は、艦内放送が鳴っている。

 当直のものは作業を続けながら、休憩を取っているものは、ぼんやりとその放送を聞いた。

 航海の疲れを癒すために、医務室でマッサージと点滴を打っていたヴィクス艦長の体調は万全とは言えず、何度か咳き込みながら、彼女は艦橋でマイクを片手に乗員千百十名に向け状況を知り得る限りに話した。



「本日、十一月二十三日、十六時。ドイツ海軍ドイッチュラント級ポケット戦艦と、英国海軍補助巡洋艦『ラワルピンディ』が交戦との報告があった。本艦はこれより、メイン諸島沖、さらには北海へ進出し敵艦捜索の任に当たる」



 実際は十九時、哨戒中の軽巡洋艦『ニューキャッスル』が敵艦を発見してはいたが、荒天に紛れその艦影を見失うという出来事がある。

 だがヴィクスはそれを省略した。功を結ばなかった策を話したところで、士気はあがらない。



「なお、敵艦発見の場合はこれと交戦し、本国艦隊ホーム・フリートの到着まで足止めする。その際、我が艦は戦闘状態へ移行するが、各員が最善の努力を惜しまないことを、私は確信している」



 ヴィクスは、低気圧のせいで痛む関節を庇うように壁に寄り掛かっていた。

 傍らには従卒のエレン・マクナマラが、医務室から持ってきた小瓶を片手に、直立不動の体勢で待機している。

 この赤毛の小柄な従卒は、ヴィクスの信頼できる水兵の一人だ。大西洋がどれほど荒れ狂い、艦内が混沌に揺り動かされていても、マクナマラは持ってこいと言ったものを、必ず持ってくる。


 それが医務室に隠された、ブランデー入りの小瓶だとしても、まったく疑いを持たずに、彼女はそれをヴィスクの元へと運んでくるのだ。

 唯一、スコットランド交じりの英語を話すと言うことが欠点と言えば欠点だったが、それ以外に欠点らしい欠点がない。

 真面目に過ぎるというのは、欠点として上げるには些か不当なような気がするほど、マクナマラはヴィクスに信頼されていた。


 ヴィクスは息を吸い、マクナマラから小瓶を受けとり、中身の琥珀色の液体を少量煽った。それだけで青白かった肌に血色が戻り、声に張りが増す。

アルコールが喉を焼き、じんじんと痛みを発する。慌てて息を吸い込めば、気化したアルコールが肺に入り込み、むせ返るだろう。ヴィクスはそれを知っていた。

 長く酒と付き合っているヴィクスは、焦らずゆっくりと息を吸い込む。心なしか気管と肺が温まったような気がして、呼吸が楽になった。



「――女性が望み、手にした自由を我々は行使している。ならばこそ、戦うのであれば、男に負けぬ戦いをすべきであろう。男たちもまた、女に負けぬよう努めるべきである。各々準備し、覚悟せよ。以上、終わり」



 副長にマイクを手渡し、ヴィクスは俯いた。

 まるでネルソン提督のようだと、彼女は自身の言葉を思いだして後悔する。

 戦闘とは関係のない演説――しかも私情が入り込んだ、演説染みたようなことを言ってしまった。乗員の一部は、先の放送に反感を抱いただろう。


 とはいえ、気象観測機によれば北海は荒天であり、敵艦補足は困難であるとのことだった。

 冬の北海は、それこそ史上最悪の航海を意味する。吹き付ける雨風は肌に突き刺さり、艦首から噴き上がった潮は艦に降り掛かり、しばらくすれば白く凍りつく。

 それは大したことのない自然現象のようにも思えるが、重さ数トンの海水が容赦なく艦上構造物に叩きつけられる様は見ていて面白いものではない。


 それが凍ってしまえばなおさらのことで、氷が艦上構造物に付着するのは、すなわち艦の復元性の低下を意味している。厳しい冬には定期的に氷を除去する作業が必要になる。

 北海では完全防寒をしていてさえ、寒さは身に染みわたる。

 染み込む寒さは意思を侵食し、集中力を削ぎ、体力を奪う。想像を絶する極限状態が、海の上に出現するのだ。


 果たして練度不足の水兵たちが耐えられるだろうかと、ヴィクスは小瓶からブランデーをもう一口煽りながら思った。

 北極海の航海よりはよっぽどマシだとヴィクスや他の一部士官は知っているが、北極海がなんであるかも知らぬ水兵たちは、どうだろうか。

 そんな艦長の不安を余所に、戦艦『エジンコート』は、タグボートに先導されながら、ゆっくりと細い水路を抜けた。

 1916年、ユトランド沖へと向かう、大艦隊グランドフリート所属第一戦艦戦隊として出港した時と違い、今、戦艦『エジンコート』は単独であった。

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