愛してるよ、新妻くん

第27話 約束してよ、新妻くん

 僕が忘れてしまいたいと思って、奥底に隠した記憶。


 去年の秋、僕は全国模試の成績を少し落としてしまった。母は殺人でも犯したかのごとく僕を叱りつけ、環境を変えると新しい塾を契約してきた。塾に通って帰ったら寝る直前まで家庭教師をつけての勉強。それでも僕は母に叱られた恐怖からさらに自習をすることにした。


 限界を超えた脳がパンクして、正常な思考はなくなり、僕は塾に行く振りをして立川の街中をあてもなくふらついていた。


 誰かとケンカしたら傷害罪で逮捕してもらえるだろうか。それよりも万引きの方が相手が傷つかなくて済むかな。でもあまり軽い罪だと子どもだからと許されてしまうかもしれない。


 僕の目的は、勉強をしなくていい理由を作ること。勉強でパンクした頭はまともなことは何も考えられない。僕が出した結論は犯罪をして刑務所に入ることであの家から離れることだった。


 でもそんな勇気が簡単に出るはずもない。街ゆく人を眺めながら、僕はどうしてこんなところにいるのかもわからないまま立ち尽くすばかりだった。こういうとき、同じ中学生だったらどんなことをするんだろうか。


 あまり聞かないように、と思っていても耳に入ってきていた教室での雑談の内容を思い出してみる。勉強には不要だと思って忘れようとしていたからはっきりとは思い出せない。


 カラオケ、ゲームセンター、本屋に寄るとかも言っていたかな。そういうところに行けば、普通の中学生の感覚がわかるんだろうか。いや、一時的に体験したところで気が晴れても解決にはならない。


 いっそのこと交通事故にでも巻き込まれないかな。そんなことを考えながら何もできずに時間だけが過ぎていく。


 そんな時にあの一度見たら忘れられない姿をした黒髪の女性を見たのだ。


 強く巻いてふわりと広がる真っ黒な長髪にほとんど下着のような上下のトップスとボトムス。それだけなら水着と思えばまだ理解が追いつくのに、その上からレースのカーテンみたいな半透明のワンピースを着ているせいで下着なんじゃないかと錯覚させられる。


 はっきりと思いだした今でも、あれが会長だなんて本人の口から聞いていなかったら信じられない。


 すれ違う人がみんな振り返る。僕も目を奪われたまま、自然と後ろを追いかけていた。生まれてからずっと押さえつけていた性への興味が一気に彼女に集中していた。たぶんあのまま何も起きなければ、僕は本当に会長に手を出していたかもしれない。


 僕より先に声をかけたのは茶髪と金髪の二人の男の人だった。いかにも女の子と一緒にいることが生涯のすべてとでも言いそうな雰囲気だった。


「それ、誘ってんの?」


 問いかけはあまりにもぶしつけだった。少し体を跳ねさせた会長はぐいぐいと間合いを詰めてくる二人組に何も言えないでいた。


「いくらでヤレんの?」


「それともこんな早くから神待ちとか?」


 意味は分からなかったけど、下世話な言葉だということは理解できた。会長も意味が分かっていなかったのか固まったまま何も言わずに立ち尽くすばかりだった。


 いてもたってもいられなくて、気がつくと、僕は二人組の男と会長の間に割り込んでいた。


「やめてください。困ってるじゃないですか。警察を呼びますよ」


 割り込んできた僕の顔を見て、二人組は少し驚いたけどすぐに僕の顔をまじまじと見て、ニヤリと笑った。


「じゃあキミが代わりにヤッてくれんの?」


「ヤッてってなんですか」


「ハメさせてくれんの、って言ってんの。もしかしてわかんない感じ? 無知なイケメン女子とか俺全然イケるんだけど」


「僕は男です!」


 ものすごく残念そうな顔をして二人が同時に大きな溜息をついた。


「男かぁ。かわいいけどギリ無理かな」


「惜しいな。想像したけどやっぱ生えてるのは無理だわ」


 言っていることは全然わからないけど、なんだかバカにされていることだけはわかった。


「とにかく警察を呼びますよ。離れてください!」


 僕の言葉に反発するように片方の男の人が僕の手をつかむ。


「お、意外と柔らか。じゃなくてさ、俺ら別に何も悪いコトしてなくない? ちょっと話してるだけじゃん。キミが男ならこうやって触っても犯罪じゃないよね?」


 幼い子どもに話しかけるような口調が余計に僕を腹立たせる。年は僕より上かもしれないけど、知能は絶対に勝っている自信がある。さっきから日本語かも怪しい言語を使っているし、話が端折はしょられすぎていて、情報伝達能力に欠陥がある。


 本当に警察を呼んでしまおう。そう思って気がつく。ここに割り込んでしまったら僕はどうやって警察を呼べばいい? 携帯電話なんて便利なものは僕には与えられていない。


「誰か、警察を呼んでください!」


 街ゆく人並みに誰ともなく声をかける。その瞬間、注目が集まっていた僕から一斉に視線が逸らされた。


「ほら、誰も悪いと思ってないってさ」


 面倒事に関わりたくない。普段の僕もきっと同じ反応をするだろう。いざ当事者になってみると無関心ほど怖いものはなかった。


 会長の方を振り返る。その時の会長は声をかけられた恐怖から固まってしまっていて、なにも言い出せないようだった。決して声はあげないけど、涙の筋が頬をつたっている。


「どうすんの? 俺たち好き勝手言われて結構傷付いちゃったなー」


 僕の手をつかむ手に力がこもる。簡単には振りほどけそうにない大人の力。逃げられないし、そもそも会長を置いてはいけなかった。


 誰も警察を呼んでくれないのは問題がないから。だったら警察を呼びたくなる理由を作ればいい。


 体をよじってつかまれていない左手を伸ばす。

 目指す先は、僕の後ろで固まっている会長の胸。


 むにりとした例えようのない柔らかさが左手にいっぱいに広がる。僕を見ていた二人組も会長も驚いて何も言えないまま僕の奇行をただ見つめていた。


 でもまだこれで終わりじゃない。


「ここに痴漢がいまーす! 誰か、通報してくださーい!」 


 大声をあげる。それに気付いた通行人が何人か携帯電話を取り出すのが見えた。

 あの男の人が怖いなら僕が警察に捕まってしまえばいい。そうすれば二人は騒ぎを嫌って逃げ出すに違いない。


「なんだよ、こいつ。意味わかんねえよ」


 予想通り二人組は慌てて走っていく。そこでようやく僕は会長の胸から手を離した。


 すべてが終わると、自分のやったことがいかにひどいことか理解できる。


「ご、ごめんなさい。とっさだったので」


「いいから。本当に警察が来たら大変でしょう」


 さっきまで会長の胸に触れていた左手が今度は会長の右手につかまれる。そのまま男の人たちとは違う方向へと逃げ出した。


 街中を走って逃げて何度か角を曲がっていく。人ごみに紛れて逃げて、人通りの少ない路地裏まできたところでようやく立ち止まった。


「ちょっとこれ持っててもらえる」


 そう言って会長は体を隠す役割がまったくない半透明のワンピースを脱いで僕に渡した。混乱して何も言えないままの僕の前で同じデザインの濃紺のワンピースをバッグから取り出して着替える。これでようやく体をきちんと隠したまともな服装になった。


「あなたのおかげで頭がすっきりした。自暴自棄なんてよくないわ」


 その時の会長の声と表情は今以上に冷静で平坦で、僕は言葉の真意が飲み込めなかった。ただようやく緊張から解放された会長の頬には涙の跡が引かれ、目の色がはっきりと変わって見えた。


「あの、僕はどうやってお詫びをすれば」


「別に。私も助かったと思っているから」


 そこで会長は少し考えて、握っていた僕の手を両手で包み込んだ。


「あなた、中学生?」


「はい。中三です」


「じゃあ来年、天稜に来なさい」


「天稜? 天稜学園高校って、超天才が集まる進学校じゃないですか!」


「私はそこにいるから。お詫びがしたいならそこで、ね」


 そう言って会長は僕の手を最後に強く握って、街の中に消えていった。


 こんなにも大切な約束だったのに。僕は本能のままに行動した記憶に僕自身が流されてしまわないように、いつものように記憶の奥深くへとしまい込んでいたのだった。

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