第26話 答えてよ、新妻くん

「アタシ、新妻のことが好きなんだ」


 聞こえた言葉が頭の中でリフレインする。聞き間違いじゃないことを確認したくなって言葉を止めた。


 中山さんの真剣な目を見たら、そんなこと言えるはずがなかった。

 その瞳はあの夜に見た会長の瞳と同じ色気を帯びていた。


 赤みを帯びた茶色の瞳が熱っぽく潤んでいる。会長とは正反対の燃えるような熱を持って僕の心の奥に届け、と射抜いている。副会長を解任されてぽっかりと開いた僕の心の穴を埋めるように這い入ってくる。


 僕に後ろ暗い過去がなければ、もしかしたらはい、と答えていたかもしれない。今の僕は空っぽになった心を何かで埋めてほしいと願っているんだから。


 でも、やっぱり僕は。


「ごめ」


「やっぱ、いいや。答えなくて」


 僕の答えを知っていたかのように、中山さんは僕の言葉を遮った。


「アタシ、ズルい女だからさ。今の新妻なら勢いでオーケーしてくれんじゃね、とか思っちゃったんだ。でもやっぱなし。そういうのは本気マジのときにやることじゃないし」


 一度言いかけた言葉を引っ込めて、僕は内心安堵していた。中山さんを傷つける言葉を言わなくて済んだと思ってしまった。そういう意味では僕もズルいのかもしれない。


「なんとなく副会長辞めさせられた理由わかってるんだ。会長から告られて新妻が断ったんでしょ。噂と逆。でもめっちゃ未練がましく思ってるから、そんな顔してるんでしょ」


 告白よりもっと直接的な誘いだったけど、中山さんの予想はだいたい当たっていた。僕の顔を見つめる瞳はいったい何が映っているんだろう。僕が気付いていない僕のことさえも知っていそうな深みがあった。


「そんな新妻はかわいそうだから、これあげる。これ読んで会長に会ってきなよ。そんで、もしそれでもアタシの方がいいって思ってくれたらまた一緒にご飯食べよ」


 中山さんはそう言うと、ブラウスのボタンを外して胸の谷間から何かを取り出す。

 何なの、女の子はみんなそこに大切なものを隠すものなの? あ、会長だったら隠すのは無理か。


「これ、って!」


 手渡されたのは見覚えのあるピンクの布カバーの文庫本。探していた伝説の参考書だった。そんなところに隠されていたら見つかるはずがない。


「新妻と会長が怪しかったから証拠つかんでやろうと思ったんだけど、それ読んだらなんかそんなのどうでもよくなったんだよね。アタシのことフッたんだから、生徒会館に忍び込んだのはチャラってことで」


 中山さんは呆然とする僕の横から屋上に飛び降りる。そのまま振り向かず校舎に向かって一直線に走っていった。右手につけられた校則違反の指輪が太陽の光を受けてキラリと光る。


「これ、参考書だったはずなんだけど」


 生徒会長に代々伝わる参考書。会長は僕には見せられないと言っていた。でも中山さんは読んだらどうでもよくなったと言っていた。本当に簡単に成績が上がるなら次の中間考査が終わるまで持っていてもおかしくないのに。どうして今、僕に渡したんだろう。


 ごくりと生唾を飲む。僕は読むべきなんだろうか。でも読まなきゃ何も変わらない気がする。まだ中山さんの体温が残るカバーをゆっくりと開く。最初のページのタイトルが目に飛び込んできた。


『主従逆転! 淫乱メイド、秘密の夜のご奉仕』


 ……何これ?

 これのどこが参考書なの!?


 いやいや、もしかしたらそういうカモフラージュなのかもしれない。

 数ページめくってみる。淫靡いんびな章タイトルが並び、物語の最初はメイドが自分の秘部を机に擦りつけているのを主人公が覗き見ているシーンだった。


 現物を見たのは初めてだけど、名前は聞いたことがある。これは、官能小説だ。


「いったい何の参考書なの?」


 これを中山さんは読んだっていうんだろうか。だとして返したくなくなった理由は何なんだろう。内容がどうこうなんて話しぶりじゃなかった。


 パラパラとページをめくる。内容はあまりにも刺激が強すぎて直視できそうにない。数ページめくったところで、急に鮮やかな色が目に入ってくる。


 白地に黒文字しかないはずの小説。その中の単語に蛍光ピンクのラインマーカーで色付けがされている。気になって急いでページをめくる。一冊のそこかしこにラインが引かれていた。


 かわいがってあげる。言える。

 お口でしてあげる。言えない。

 朝立ち。言える。

 ご奉仕。言える。


 引かれた単語の隣には、そう小さくメモ書きがされてある。

 その単語ひとつひとつを追いかけていくと会長の顔が何度も浮かんできた。

 これは、僕に卑猥な言葉をかけるための参考書だ。


 言えると書かれた単語は、いつかどこかで会長の口から聞いたことがあるものばかりだった。恥ずかしそうにしたり口ごもったり。何も知らない僕の前で、会長の口からは何度も卑猥な意味が含まれた言葉が放たれていたのだ。


「ふわぁぁ」


 体の力が抜けてその場にしゃがみこむ。マーカーの引かれた言葉を見るたびに会長との思い出が浮かぶ。顔が熱くなる。あの何気ないやりとりの一つ一つが会長の愛情表現だったのだ。


 少し間違っているけど、懸命に僕にだけ向けられた純粋な言葉たち。マーカーの引かれた言葉が目に入るたび、僕は会長の真意を知っていくようで嬉しくて怖かった。


 ページをめくる手が早くなる。止まらなくなる。

 ふいにひとつの単語が目に入ってきてようやく手が止まった。


 セックス。


 マーカーの横のメモ書きは、言えない。でもそこに打ち消し線が引かれ、隣には一際小さな文字で、「がんばる」と書かれていた。


「よかった。新妻くんもセックスは知っているのね」


 あの夜の会長の姿が思い出される。暗い部屋で顔もよく見えていなかった。でもあの日の会長は、きっと泣いていた。


 あの日もそうだった。ぐっと顔をこわばらせて、必死に涙をこらえようとして、でも耐えきれなくて。あの涙を止めたかったから、僕は会長の胸に手を伸ばしたんだ。


 行かなきゃ。僕はまだあの日の答えをちゃんと伝えていない。表面上の言葉じゃなくて、あの日の言葉の奥にあった本当の意味を聞かなくちゃ。


 まだ会長は生徒会館にいるだろうか。いなくてもいい。会う理由も手元にある。今の僕は生徒会副会長じゃない。本当は生徒会館に入る権利はない。でも今はそんなこと関係ない。退学だって覚悟の上だ。


 買ってきたメロンパンを屋上に置いて、僕は階段を一気に駆け下りた。


 生徒会館の扉は鍵がかかっていなかった。今思うと、ここも古い鍵だから中山さんは簡単に開けられちゃったんだろうな。


 食堂にはいない。もう教室に戻ってしまったんだろうか。いや、会長が鍵をかけ忘れるなんて考えにくい。二階へ上がる。生徒会室の扉を開け放つと、椅子に座ってぼんやりと窓を眺めている会長が振り返った。


「どうして?」


 会長の声。たった数日聞いていなかっただけなのに懐かしく感じる。脳髄の奥まで届く。自分の意思で歪めて奥底にしまい込んだ記憶が導かれるように流れ出る。


「僕、約束を守りましたよ」


 自然にこぼれた言葉が、答えだった。


「思い出すのが遅すぎるわ」


 不平を伝える言葉のはずなのに、会長は笑顔だった。


 ゆっくりと一歩ずつ足元を確かめるように。生徒会室の中央を最短距離で会長のところまで。


 それでも待ちきれなかったらしい会長が僕を迎え入れるように立ち上がると、もう離さないというように強く抱きしめた。


 あの日と同じ、涙のしょっぱい香りがした。

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