第33話 夢の子追いかけ、終わるのはあなた

『口答えするなっ!』


 廊下の角にさしかかった時、ぱんと乾いた音がした。頬でも張ったのだろうかと考えて、かやは体中の細胞がきゅっと縮こまる気がする。

 誰かが怒られて、叩かれている、そんな状況に茅は慣れていない。

 全身にもの凄い静電気がみなぎって、金属のドアノブにでも触ろうものなら、ばちん! とはじけ飛ばされてしまうのではないかと思う。


『お前もあの女と同じだ、母子そろって頭がおかしい! まともじゃない!』


 廊下の先には、不自然に扉を取り外された部屋があった。

 どうりで、離れた廊下からもよく声が聞こえるはずだ。このまま部屋の前へ行けば、難なく様子をうかがえるだろう。茅はそっと首を伸ばして覗きこんだ。


 まず目に入るのは、背が高い男の背中。足元には破り捨てられた紙くずと、文字がびっしり書きつけられた紙束。何となく、祖母の別天が書くものと似ている。

 それを別にすれば、生活感がなく殺風景な寝室だった。


『恥知らずめ! そんなに普通じゃないとアピールして、注目されたかったのか? それがすっかりやめられないなんて、お笑いぐさだな』


 男は足元から紙を拾っては、びりびりと破って放り捨てる。かんしゃくを起こした子供のような、なんとも大人げないヒステリックさに茅は呆れた。

 男の体に隠れてよく見えないが、ベッドには長い黒髪の少女が座っている。


『とにかく、言うとおりにしろ。私はお前の父親で、精神科医だぞ? まともにならなければこの先、生きてけない。いいな? ……分かったと言え!』


 ぱん、とまた男が少女の頬を張った。長い髪がぐらりと横へ流れ、力なく首を起こす。ただじっと耐える、無抵抗の姿が痛ましい。


(父親? おとうちゃんが、自分の娘を頭がおかしいって怒って、叩くの?)


 茅が知る父親像は、もちろん生出おいずるが基準になっていいる。子供に怒鳴ったり叩いたりする親が実在することは、テレビや本を通して知っているが、実際に目の当たりにすると「そういう父親もいる」という事実がショックだった。


 気が済んだのか、男が唐突にきびすを返し、茅は硬直する。明らかに目が合った。男は割れ硝子のように神経質そうな、線の鋭い顔つきに眼鏡をかけている。


(どうしよう、見つかっちゃった!)


 茅が体を引っこめるのとほとんど同時に、男が寝室から出てきた。

 自分の子供にあんな真似をする人間に見つかったら、何をされるか分からない。そもそも、こちらは不法侵入なのだ――好きで入ったわけではないが。

 茅の心臓が肋骨の奥で、トランポリンに乗ったように跳ね続けている。このまま心臓が跳ねそこねて、ピタリと停止してしまうのではないだろうか。


 男は茅には目もくれず、スッとその体をとおり抜けていった。


「へあっ!?」


 オバケ、と言いかけて気づく。

 知恵者ちえしゃねこ霊餌たまえならば、生前は人間だったことになる。これは、そのころの記憶を再現した世界ではなかろうか。茅は直感的にそう理解した。

 そういえば、隠れることに必死で見落としていたが、男は部屋を出る時、何もない空間で扉を開ける仕草をしていた。

 


(やっぱり知恵者猫さまは、あたしに何か見せたいんだ)


『お父さん、やめて』


 寝室から少女の悲痛な声がした。今部屋を出て行ったはずの男が、また室内にいる。茅はどうせ向こうから見えないならばと寝室に飛びこんだ。


『お願い、やめて……』

『お前が悪いんだ! いくら縛っても縛ってもほどくなら、こうするしかないだろう! そのおかしな指を、ぜんぶ折ってやる!』


 男は、娘の親指をペンチで挟んでいた。少女の華奢な手と、無骨な工具が頭の中で結びつかず、茅はしばらく何が起きているのか分からなかった。

 男はペンチで挟んだ指を逆方向へひん曲げる。長い黒髪の少女は、白い喉を大きくさらしながら背を反らし、高い悲鳴を発した。


『叫ぶな、うるさい! イライラする!』


 自分で悲鳴を上げさせておいて、何を言っているのだ? こいつは。

 茅は自分の内臓に灯油がぶちまけられたような不快感と、それに火が付いたがごとき爆発的怒りを覚えて、男に躍りかかった。


「やめろーっ、馬鹿!」


 ところが、確かに男の体がある場所をすり抜けて、床に着地してしまう。その間にぽきん、ともごきん、とも聞こえる音がして、少女がけたたましく叫んだ。


(ああ……知恵者猫さまの過去の記憶だから、あたしが今どうこうしても、変わったりしないんだ。じゃあどれだけ、これを見ていればいいの?)


 茅にとっては、そこからが地獄だった。

 男は娘の指五本を全てペンチで折って、痛み止めや鎮静剤などの薬を与える。だが少女は寝ている間にも、折れた指と血を使って何事か記そうとするのだ。

 それは明日の天気だったり、来客だったり、テレビのニュースだったりする。そういうことを、彼女の左手はなんでも当てる。


 彼女――名前は〝有栖川ありすがわみはと〟、とそのうち知れた――は、両親が離婚してからずっとこんな生活を続けている。母にもみはとと同じ能力があり、それを精神分裂の一種と考え、治療しようとした夫と離婚した。しかし、間もなく肺病で死亡。


 仕方なく、みはとの親権は男――父親の有栖川けんへ。

 彼は娘の奇妙な力を、やはり病気であると診断し、生活にさまざまな制限を課した。学校に行かせない、外出させないから始まり、高校生になった今ではほぼ軟禁状態。そして心理テストをやらせたり、薬を飲ませたり、注射したりする。


 人生経験の少ない茅から見ても、有栖川研の娘に対する処遇は異常だった。

 家の中を自由に動き回ることも許さず、左手が勝手にあれこれと予言を書くのを最も嫌い、それを縛める。だが左手の力は、彼女自身には制御できない。

 世が世なら、巫女として祭り上げられたことだろう。だが父娘の関係は、異端審問官と、狩られる魔女のそれだ。


『お父さん、やめて! お願い、やめて!』

『お前が自分の左手を抑えられないからこうなるんだ! お前のせいだ!』


 有栖川研は傲慢で、狂気に染まったがごとき精神科医だった。

 ただの医者というだけなら医師と患者、その関係には一定の距離がある。しかし、同じ家に暮らす父親からは、逃げ場がない。


『夢の子追いかけ、びっくり愉快。できたばかりの不思議の話、見るもの聞くもの奇々怪々……鳥や獣とおしゃべりはずむ、きっとあるよね、そんな世界』


 一人で過ごしている時のみはとは、『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』をくり返し読んでいた。彼女の記憶の世界だからか、みはとが口を動かさなくても、心の声が茅にも聞こえてくる。最初に茅が聞いた声も、本の一節だったのだ。


『お前には、やはり痛みで分からせないといけないようだ』

『いっぃぃやあ! やだああ!』


 有栖川研は、娘の爪と指の間に裁縫針を打った。

 手首をローテーブルに縛りつけ、左手五本の指に一つ一つ。ぷつりと血の玉が天板に盛り上がり、見ていられなくて、茅は部屋を飛び出した。

 かと思えば、出た先もまたみはとの部屋だ。彼女は左手に包帯を巻いて、アリスの本を読んでいる。


『〝「じゃあ、どうぞって勧めるのは失礼だわ。」アリスはぷんぷんして言いました。「招かれもしないのにすわるほうが失礼だ。」三月ウサギが言いました。〟』


(あたし、この部屋から出られなくなってる!?)


 有栖川研は徹底して、みはとが何か書くたびに娘を責めさいなんだ。筋肉が麻痺する注射を打ったり、血液を過剰に抜いたり。

 医療処置と言い張れなくもない行動もあったが、爪を剥ぐ、針を刺す、火箸を押しつけるに至っては、茅は「虐待」という言葉をはっきりと思い浮かべていた。


 部屋を出るたびに、みはとが責められる場面と、彼女がアリスを読んでいる場面に変わる。いったいいくつ、これを見ればいいのだろう?

 茅は今まで生きてきて一番の疲れを覚えた。心も体もずっしりと、黒くドロドロした水を含んだように重たくて、力が入らなくて、寒々しい。


『今度こそ字は書けないだろう! こうやってはりつけにしてやればな!』


 がん、がん! がん、がん、がん! と。


『いいぃぃっやああっ!! いぃいやぁ! いぃぃぃやぁぁ!!』


 有栖川研は、娘の左手をベッドのヘッドボードに釘で打ちつけた。

 アザだらけの痛々しい痩せた手の甲、そのど真ん中を細長い鉄棒が刺し、血を流させる。男はなおも許さず、ハンマーを振るって深々と釘を打ちこんだ。


 太さ五ミリほどのそれが、プラスチックの小箱に何十本も入っている。まさか、これをぜんぶ使おうと言うのだろうか?

 茅が想像した最悪は、そのまま実演で示された。がんがん! がんがん! がんがん! と、指の付け根に、手首に、指先に、指の第二関節に、ところ構わず。


 みはとの悲鳴は、茅がそれまで聞いた中でもっとも悲痛で、耳にするだけで自分自身まで引き裂かれそうだった。虚しいことだと理解していても、サロペットの少女は有栖川研につかみかかったり、殴りかかったり、必死に奮闘する。


(人間って、あんまり叫びすぎると吐いちゃうんだ)


 嘔吐する少女を前に、茅はそんな発見にへえと驚く己を嫌悪してしまう。こんな酷いことが行われているのに、何かを発見した小さな喜びを見出すなんて。

 みはとの手は、もう針山のようになっていた。

 やがて父親が部屋を出て、何時間もの間みはとはただ苦痛に耐える。それは音がしない真っ暗闇で、寒さに凍える心地に似た時間だった。


『〝最後に……、お姉さんは、この小さな妹は……どんな大人に、なるのだろうかと、想像しました〟……』


 みはとの心は、すがるように『不思議の国のアリス』の内容を思い浮かべる。それが、とうとう物語の終わりにさしかかっていた。


『〝きっと、思い出す……ことでしょう。自分自身の、子ども時代を〟……、〝そして、あの、しあ、わ、せ、な、夏の、日々、を〟……』


 幸せな日々。それは今の彼女からはなんて遠く、そして残酷な言葉だろう。

 どうしてこんなものを見せられなければいけないのかと嘆きながら、茅は、みはとに対して何もできないことに涙を流した。


 そう、自分は見ていることしかできない。

 だったらせめて、この目の欠片をあげよう。それは自分の心の薄皮を、一枚一枚剥がして眼から放つような、精神の血を絞り出す、精いっぱいの涙だった。



ぶしゅっと間の抜けた音を立てて、空気とともに血が吹き出す。に握りしめた万年筆が、有栖川研自身の喉をくり返し刺し貫いていた。


「っ……ごぉぉ…ぉほぉ…ぉ……っっ……」


 狩り鐘にバラバラにされた時の道眞とよく似た、息も絶え絶えという声音。自ら作った血だまりに横たわりながら、左手のペンが文字をしたためる。


『〝きっと死刑にされちまう! ウサギをバラして憂さ晴らしか! いったいどこで、落としちまったんだろう?〟』


 彼女がいる、と茅は直感した。とたんに、今まで見えていなかったものにピントが合って、父親の傍らにずっと立っていた少女の姿を認識する。

 有栖川みはと――知恵者猫さま。

 みはとの後ろには、黒い巫女装束に錫杖を持った影があった。大蝕天たいしょくてん娑馗しゃき聖者しょうじゃが、たっぷりの慈愛で、心底愉快そうに告げる。


『さあさあおべ、うるわしの姫や。其の方のにっくき父親は、これにておしまい。其の方から自由を、命を、ありとあらゆるものを奪ったそやつから、すべて取り返しておやり。その魂は、さぞかし極上の甘露となろう』


 こくん、とみはとがうなずいて、長い黒髪が揺れる。がぱりと開いた口は耳元まで……いや、ぐるりと目まで裂けた。目玉が割れて赤々とした口と化す。

 禍々しい口腔こうこうが、よだれを垂らしながらつぶやいた。


――いただす――


 みはとの顔が自動車ほどのあぎととなって、父親の五体を呑みこんだ。


――御霊ごちそうさまでした――

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