第34話 猫の伝言と死者の食卓

 道眞どうまが袂から脱落した左腕を取り出すと、それは魚のように大きく跳ねて、彼の手を逃れた。ばんっと訴えるようにスズキ・ハスラーの扉を叩く。


かやちゃんに何か起きているのか!?」


 道眞が扉を開くと、左手は地面すれすれを神社へ向かった。超常現象に驚く間も惜しみ、全員で後を追う。別天べってんは白い髪縄けなわ結神縁けっしんえんを、百舌鳥もずは愛刀神立かんだち浄宗きよむねをたずさえて。


「茅ちゃん!」


 境内に入ってすぐ、道眞は拝殿前に倒れている少女と、その傍らでうろうろしている黒猫を見つけた。別天が作った眼鏡の効果か、今の道眞は非常に夜目がきく。

 地面にうつ伏せた茅は、左手だけが勝手に動いてノートに何かを書き続けていた。それは異常な速さで、見る間にページを使い切ると、ぱたりと止まる。


「茅ちゃん、しっかり!」


 道眞が駆け寄って少女を抱え起こすと、ひとまず目立った外傷はなかった。


「〝私は有栖川ありすがわみはとです〟……なんや、このノートは」


 その横で、百舌鳥はノートを拾い上げて中身を確認する。


「父親からの虐待記録……書いたヤツはもう死んどる、か。これが知恵者ちえしゃ猫の正体のようやな。……さすが、霊餌たまえになるだけあって、けったくそ悪い話や」


 別天は百舌鳥からノートを受け取り、内容に目を通すとみるみる顔をしかめた。その間に道眞が呼びかけた甲斐あって、茅が眼を覚ます。


「んん……」

「ああ、茅ちゃん、大丈夫かい!?」

「ドードー……ん、あたしは、平気。怪我とか何もしてないよ」


 茅は、近くに転がっていた左手を拾って、こちらに差し出した。

 そういえば、道眞もたいがい他人のことを言えない有り様だ。まあ不死身だから良いのだが。左手は断面を合わせると、難なくくっついた。

 茅はすっくと立ち上がると、繋がりたての手を握って訴える。


「ドードー、お願い、みはとさんを助けて。知恵者猫さまを、霊廻たまえしきして!」


 茅は祖母の別天が手にしたノートを指さした。


「それ、あたしが書いたんでしょ。ぜんぶ見たの、知恵者猫さまの正体は、有栖川みはとっていう女の子。あたしより少し年上で、おばあちゃんみたいな不思議な力を持っていて。そのせいで、実の父親にすっごく酷いことをされて死んじゃったの」


 だから、と茅は言い切る。


「もう楽にしてあげて。あの人はきっと、霊餌たまえになんてなりたくなかった。自分の辛かったことを誰かに知ってもらったなら、もういいんだって、あたしは分かったの」

「その前に、顔を拭こうか」


 道眞は手ぬぐいを差し出した。それで初めて、茅は自分がみっともなく涙を流して、顔中がべしゃべしゃになっていると気づく。

 茅は慌てて手水舎へ走り、顔をばしゃばしゃ洗ってからごしごし拭った。別天がそれを見届けて「じゃあ、始めましょうか」と霊廻式を宣言する。


 柏手かしわでを一つ、コォーォーォ――という鶏鳴が別天の喉を震わせた。


かむろぎかみろみの御言みこともちて、伊邪那岐いざなぎの大神おおかみ筑紫つくし日向ひむか非時ときじくかぐの花、小戸をど阿波岐原あはぎがはらみそぎはらひたまひし時にせる、祓戸はらへどの大神々おほかみがみ。もろもろの曲事まがごと罪穢つみけがれを、祓ひたまへ清めたまへとまをす事のよしを、ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここの、たり、もも、ち、やほよろずの神々とともに、あま斑駒ふちこまの耳ふり立てて、聞こしめせとかしこかしこまおす。悪しきを祓ひて、どうぞ南無なむ速佐須良媛はやさすらひめのみこと


 場を清め、整える祝詞によって、拝殿の前の空気が陽炎のようにゆらゆら揺れた。ゆらり、ゆるれり、幽霊の姿を結ぶ。


 知恵者猫さま――有栖川みはとは、拝殿の前にたたずんでいた。供えられたたくさんのアリス人形に囲まれて、全身に釘を打たれている。

 それは実際に打たれたものではなく、生前、彼女の心に父親が打ちこんだ物だ。


(幽霊って、こんなにはっきり見えても、生きてる人とぜんぜん印象が違うんだ)


 明かりのない境内に、白い姿がくっきり浮かび上がると同時に、闇に溶けそうにかすかな存在感。その矛盾した状態がなぜか同居している、不思議な姿だった。


 次いで、道眞の心身を整える祝詞。


「もろもろの曲事まがごと罪穢つみけがれあらむをば、祓へたまへ清めたまへ、速佐須良はやさすらひめ。ざばりかえばれ、南無なむ速佐須良はやさすらひめのみこと、ざなじがえなけ、南無なむ速佐須良はやさすらひめのみこと


 道眞が肩に手を置くと、差し出すようにみはとは顎を上げて喉をさらした。ぱきんと、歯を突き立てる音が軽く、甲高く夜の境内に響く。

 彼が憐れな少女の魂を喰べきるまで、何分もかからなかった。



「キヨイはほんまのこと言いよる、か……」


 帰りの車中、数少ない収穫を後部座席の百舌鳥もず反芻はんすうした。その声音は不満げではないが、期待もしていなかったらしいのは、道眞の気のせいだろうか。


「強いて俺の兄弟を挙げるんやったら、おんなじ施設の出身とかか」

「でも、兄弟って言うぐらいだから、親友だったとか何か強いつながりがあったんだろう。それを忘れていたら、そりゃ向こうも怒るんじゃないか」


 キヨイはおそらく、百舌鳥が自分を忘れたことに怒っている。その怒りを解くには、百舌鳥が自力で思い出すしかない……だから、キヨイに交霊会か何かで直接聞いても、答えようとはしないだろう。というのが道眞の意見だった。


「そやけど、あいつは人の舌を裂きよる。親父を殺して、俺の舌を切った奴と同じ手口や。そんなもんが兄弟なわけあるかい」

「そういえばヤマトさんは、自分の故郷に行ったことはあるの?」


 と、運転席の別天。


古宮ふるみやむらか。故郷言うても、六歳まで住んでいただけやからな。特に関係あらへん思とったから、行ったことはないのう」


 そもそも現在は、茅の母親が娑輪馗廻に捕らわれた可能性が高いと分かったのだ。あまりのんびりしている訳にもいかない。


「村の近くに霊餌がおったら、そっちをとっちめるついでに行ったらええやろ。キヨイはけったくそ悪いが、化け物相手には使。ほったら、茅を最優先にすべきや」


 だから当面、古宮村まで出向く必要は無い、と百舌鳥は締めくくった。「ありがとう、もずもず」という少女の礼を聞き流しながら、知恵者猫のノートをめくる。


「……なんやこら」けげんな声。


 後部座席で隣り合う道眞は、横合いからノートを覗きこんだ。


『えちさがそうおYかむおYS。彼に見つからないように。』

「……キヨイの名前以外はきちんと読めるけど、ここだけおかしいな」


 それは最後のページのそのまた後ろ、裏表紙の見返しに記された文面だった。「貸して」と言う茅に渡すと、運転中の祖母に聞かせるため読み上げる。


「声に出してみたけど、ぜんぜん意味がわかんないね」

「それは、暗号かもしれないわ。どの程度複雑かは分からないけれど」


 別天の一言に、道眞はすべてを察した。知恵者猫は百舌鳥を通して、「彼」――キヨイに何らかの不都合な情報が渡ることを恐れている。

 それは何らかの罠ではなく、最後まで自分のことを見届けてくれた茅への心遣いなのだろうと思えた。狩り鐘さんと知恵者猫さまは、同じ霊餌でもかなり性質が違う。


「百舌鳥、この文のことは忘れろ」

「ああ……善処するわ」


 刑事という職業柄、その種の記憶力が良いとしたら、かえってそれがあだとなるのかもしれない。知恵者猫さまからの収穫は、ばかにならないだろう。

 それにしても、なぜ彼女は茅を引きこみ、そして自分の人生を見せたのか。「四つ目の質問をした」からか、「娑馗聖者について訊ねた」からか、その両方か。


 本来なら、ルール違反した者は左手を奪われたのかもしれない。

 茅の場合は、その結果を道眞に押しつけることが出来たため、知恵者猫自身にも想定外のことが起きた。言ってみればバグ、裏技のような出来事だ。


 後の調べで、川那辺神社は有栖川家の氏神だということも分かったが、それ以上の真実は闇の中だ。いつか、道眞が有栖川みはとの夢を見たら、何か分かるだろうか。



「おばあちゃん、一人ぶん多いよ?」


 翌朝。食堂に入った茅は、楕円形のダイニングテーブルを見て違和感を覚えた。四人の人間に四食分、そして猫一匹ぶんのキャットフード。

 朝はパンの日とお米の日があり、今日は玄米ご飯に大根と菜っ葉、油揚げのおみそ汁、鮭の塩焼きにだし巻きと純和風のメニューだ。

 だし巻きにはショウガの甘酢漬け、いわゆる寿司屋のガリが刻んで混ぜられており、祖母の手料理で茅が楽しみにしている一品である。


 しかし、神餌である道眞はこうした食事を取る必要がない。実際、彼の席には珈琲の入ったポットとマグガップだけが置かれている。

 和装に割烹着姿の別天が、ニコニコして言った。


「これはね、キヨイのぶんよ」

「はあ!?」


 茅に続いて食堂に入った百舌鳥が、すっとんきょうな声を出す。


「あいつにお供えもんでもしようっちゅうのか、バアさま!」

「僕がたのんだんだ。キヨイに陰膳かげぜんを出そうって」


 食ってかかる勢いの百舌鳥を、着席していた道眞が止めた。


「あいつには僕もさんざんな目にあわされたけれど、考えてみれば、霊餌である限りは娑輪しゃりん馗廻きえの犠牲者だからね。葬儀屋としては放っておけないよ」

「は、同病相憐れむっちゅうやつか?」


 ぎしり、と軋む音を立てんばかりに、百舌鳥は表情を歪める。ひどく気色ばんだ、凄惨な笑み。あるいは何か一つ間違えたら爆発してやるぞ、と脅す殺意の相。

 赤目黒猫のリリンコだけは、我関せずで缶詰を食べていた。


「なんとでも言ってくれ。仮にも、あいつを戦力として数えるなら、食事をともにして親睦を深めるのも悪くないだろうし」

「親睦ぅ?」

「あーのーさー」


 一触即発の空気に、茅は挙手して割りこんだ。


「ドードー、カゲゼンって何?」

「死んだ人が成仏するまで、お腹が空かずに安らかに過ごせるように、という気持ちでお供えするご飯だよ。遠くに居て会えない人のため、無事を祈ったりもするね」

「そうなんだあー、へえー」


 茅はちらっちらっと祖母に助け船を求めて目配せする。その甲斐あって、「ねえヤマトさん」と別天が取りなしに入ってくれた。


「お供え物をしてご機嫌を取っておくと、出てきた時に交渉しやすくなると思うわよ? それに、色々試して反応を探れば、発見も増えるかもしれないでしょう?」

「そいつは一理あるがな……ああ、ちくしょう。好きにせえ」


 不満そうに、百舌鳥はどっかと自分の席に腰を下ろした。茅は「もずもず、行儀わるーい」と口をとがらせたが、のれんに腕押しである。

 単なる馴れ合いではなく、情報収集の一環ともなれば彼も認めざるをえない。

 しかし、お供え物ということは毎回食事が一人分捨てられるか、誰かが二人分食べなくてはならないのだろうか? 茅は大丈夫かなあ、と首をかしげた。


「では、いただきます」

「いただきます」

「いただきまーすっ」

「いただきますっ、と」


 四人が食事に手を着け始めると同時に、キヨイの食器が震えだした。

 最初は誰もが気のせいだと思っていたが、かた……かた……こと……こと……とかすかな震えが、やがてガタガタガタゴトゴトゴトと小刻みに震動し始める。

 震えと同時に、中に入った食べ物が煙を上げながら黒く腐り出し、下水のような臭いが食堂全体に漂い始めた。別天が鼻と口を押さえて窓を開け放つ。


 茅ははたと思いついて、動く食器を押さえつけながら一つ一つにぴっちりラップをかけた。おかげで臭いがマシになる。


「茅ちゃん、ナイス」道眞にほめられた。


 へへんと茅が微笑んでいる間にも、キヨイの〝食事〟は進んだ。

 鮭の切り身は苦しむように身をよじり、どろりとした液体の中に骨を残す。味噌汁はぐつぐつと泡立ってかさを減らし、だし巻きは小さくしぼんで消えていった。

 後には、黒い粘つきが残された食器が並ぶだけ。


「すごい、キヨイ、本当に食べてるんだ」

「食べ物を腐らせるのんがか? ほんまにこいつは、ムカつくやっちゃな」


 百舌鳥が毒づく気持ちは茅にも分かる。短時間で済んだとはいえ、食事のたびにこの腐った臭いをかぐのは、ちょっと気持ち悪いかもしれない。


「腐敗は、微生物やバクテリアの分解作業の結果、起こることだ。だったらこれも、立派な〝食事〟だよ」


 道眞は死者への弔いを一つ行えたからか、なんだか機嫌が良さそうに見えた。あっという間に平らげたから、キヨイはよっぽどお腹が空いていたのだろうと茅は思う。


(ドードーも、キヨイみたいにご飯が食べられたら良かったのに)


 世の中は不公平だなあと思いながら、茅は大好きなガリだし巻きをほおばった。

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