#2 シュウトという男

 気がつくと、シュウトはうす暗い路地裏に立っていた。


 地面や建物の外壁は見慣れたコンクリート製ではない。きれいに舗装された石畳の道路。二、三階ほどの高さの建物は整然と積まれた石材でできている。表通りから聞こえてくるのは人の声ともうひとつ、聞きなれない音──馬の蹄と馬車の音だろうか。


 謎の光にさらわれて見知らぬ地に飛ばされる。このようなありえない事態にあっては、さすがのシュウトも冷静さを欠いていることだろう。


「……こういうときはとりあえず、ゴミを拾うとしよう」


 いたって冷静ないつも通りの様子でつぶやいた。


 シュウトはゴミを探してあたりを見まわす。石畳の道に転がっているうす汚れたボロ布の塊が、シュウトの視界に入ってきた。


「よし、あのボロ切れにしよう」


 シュウトはそれに近づき、火バサミでつかんで引っ張ってみた。しかし布にしてはずいぶん重く、まったく持ちあがらない。


「なかなか手ごわいな──」


 今度は両手で持ち上げようと試みるが、見かけによらずズッシリしていて一筋縄ではいきそうになかった。やはり布の重さではない。ただの丸まった布ではなく、なにかが包まれているようだった。


「負けるものかぁ……」


 あきらめずに力を振り絞ると、ボロ布の塊はほんのわずかに持ち上がった。そのとき突然、それはモゾモゾと動き出す。シュウトがあわてて手をはなすと、布がはらりとめくれ落ちて包まれていたものが姿をあらわした。


 少女だ。シュウトが拾ったものはボロ切れなどではなく、少女だった。


 なんだ、ただの少女か。ゴミでないものを拾ってしまうとは、おれもまだまだ未熟だな。シュウトは自分の過ちを反省した。もっとゴミを見極める目を養わなければ、美化委員の名折れだ。


 シュウトの通う高校では、シュウトはその名を知らぬ者はいないほどの有名人であった。ゴミを捨てることへの異様な執着心。ポイ捨てを絶対に許さず、分別やリサイクルにも余念がない。ひとたびポイ捨てなどしようものなら、鬼の形相で駆けつける。


 ポイ捨てを許さないだけでなく、美化委員としての責任感も人一倍どころか百倍は強い男であった。泥だらけのまま校内に入ってきたずぼらなラグビー部員とバトルになり、自分よりも体格の大きい上級生相手に互角の取っ組み合いをしたことは、もはや伝説として語り継がれている。


 そして、いつしかこう呼ばれるようになった。


 ゴミ拾いの鬼、恐怖の美化委員──と。


 校内の美化だけでなく町内会のゴミ拾いにも積極的に参加していたことから、その勇名──あるいは悪名──は高校の敷地を飛び出し、町じゅうに響き渡ることとなった。その熱心な仕事ぶりから近所の人たちの評判はよく、愛想がないのも寡黙でまじめな青年だという評価につながっていた。


 シュウトはあらためて少女を観察する。目を閉じて動かない。ということは──寝ているのだろう。そう結論づけ、ほうっておくことにした。


「うーん……」少女が小さなうめき声をもらし、手を伸ばしてきた。「み、水を……ください……」


 寝ていたわけではなかったようだ。シュウトは、ここに飛ばされるまえに拾った飲みかけのペットボトル────ではなく、自分の水筒をリュックから取りだして少女に飲ませてやった。野外での活動時には熱中症対策に必ず持ち歩いているものだった。


「──ふぅ、おかげ様で助かりました」


 水を飲み終えて少しは元気を取りもどした少女は、きちんと座り直し、三つ指をついて礼をした。シュウトもつられて正座をし、頭を下げる。


「わたしはアイレン・ミグメイアと申します。へんなお方に追われて逃げまわるうちに、行き倒れてしまったようです。あなたに見つけていただかなければ、どうなっていたことか……心から感謝いたします」


 アイレンと名乗った少女の丁寧な言葉づかいや所作からは上品さが漂ってきたが、一方で、その身なりはずいぶんとみすぼらしかった。衣服はくたくたで、うえに羽織ったマントは、おそらくもともと白かったのだろうが、長年使いこまれたようにすっかり薄汚れてしまっていた。しかし結果として、薄汚れたマントは彼女の肌の白さをいっそう際立たせている。


「はぁ、そうですか。じゃあ、おれはこれで」


 シュウトはアイレンになんの興味も抱かなかった。薄汚れた服装で何者かに追われていると語る少女。ふつうの男ならば、なぜそんな身なりなのか、だれに追われているのかと気になり、そして守ってあげたくなるものだが、この男には好奇心や庇護欲というものがないのだろうか。


 庇護欲。それは自分より弱いものを守ってあげたくなる欲求のことだ。理屈ではなく、育児をする動物──主に哺乳類──に共通するであろう本能である。なぜかといえば、赤ちゃんという存在が弱くかわいらしい生き物だからだ。赤ちゃんがかわいいのは守ってあげたいと親に思わせるためであり、そのことは子育てをする動物に庇護欲という本能がプログラムされている証拠といえる。


 ここで、赤ちゃんがかわいくなかったらどうなってしまうかを考えてみよう。もしも生まれてきた赤ちゃんが無精ひげを生やしたおっさん顔だったら、という光景を想像してみてもらいたい。


『まあ、なんてかわいらしいのかしら! このジョリジョリの無精ヒゲ、あなたにそっくりでステキね!』

『いやいや、目じりのシワなんてキミに似て最高にキュートじゃないか!』

『この子の目つきの悪さは、機嫌の悪いときのあなたみたいで庇護欲をそそられるわ!』

『こんなに野太い声で泣かれると、ついつい守ってあげたくなっちゃうな!』


 果たしてこんなやりとりが交わされるだろうか? いいや、タマゴを割ればたちまち目玉焼きが焼けるほどアツアツなバカップルでさえ、こんな会話にはならないはずだ。庇護欲ではなく嫌悪感しか覚えないことだろう。


 ヒトには庇護欲が備わっていて、赤ちゃんが弱くかわいらしいのは親の庇護欲をかきたてるためだ、という説に納得していただけただろうか。もちろん育児放棄の例もあるが、あくまで少数派の例外的なケースであり、ヒトには基本的に庇護欲が備わっているはずなのである。


 ちょっとばかり話がそれてしまったが、シュウトのことにもどすとしよう。


 いま、シュウトの目のまえには自分よりも弱い存在がいる。ひいき目に見なくてもかわいらしい少女がいる。にもかかわらず、この男は立ち去ろうとしている。庇護欲はないのか。ゴミ拾いにしか興味がないのか。機械のように冷酷な清掃員、メカニカルダストマン。それがシュウトという男の本質なのだろうか。


「ちょ──ちょっと待ってください!」


 アイレンは立ち去ろうとするシュウトの足にしがみついて動きを止めようとしたが、そのままズルズルと引きずられてしまう。


「まだなにか?」


 シュウトは足をとめ、アイレンを見おろしながら言った。


「まだお礼ができていません」


 アイレンは真剣なまなざしでシュウトを見あげている。


「礼ならさっき──」


「いいえ、あのような言葉だけではとても足りません。なにせ命を救っていただいたのですから!」


「水くらいで大げさな……それに、ほんとはゴミだと勘違いして拾おうとしただけなんで、感謝されるようなことでは──」


「そのようなさ細なことは、どうでもよいのです!」


 アイレンはすっくと立ち上がり、シュウトにずいっと近づいた。


 その透き通るような青い瞳に見つめられ、シュウトはたじろいだ。さっきはおとなしくて育ちのよいお嬢さんという印象を受けたのだが、いまの彼女の瞳は力強い意志に満ち溢れていた。


「あなたがいなければ、わたしは命を落としていたかもわかりません。その命の恩人にちょっとした言葉だけでお礼を済まそうなど、恩を仇で返すようなものです! バチが当たってしまいます!」


「あの……だからそんなに難しく考えなくても──」


 熱く語るアイレンはシュウトに口をはさむ隙を与えない。


「でも、どうすればよいのでしょう……わたしにはお金も高価な品もありません。いいえ、そもそもお金や物で返せるなどと考えるのはおこがましいことです。わたしの今後の人生数十年分を救っていただいたのに。だとしたら、もう残りの人生すべてをかけて恩返しするしかないのでは……!」


「ちょっとまった! そこまでされるとこっちも困るから!」


 シュウトは声を大きくしてアイレンの暴走を止めようとした。ちょっと水を分け与えただけなのに、人生をかけるほどの大ごとになってしまっている。


「あっ……わたしったら、つい熱くなってしまって。お相手の気持ちを考えなければ、もうお礼とは言えませんよね……」


 アイレンはシュウトの声ではっと我に返り、申し訳なさそうにしゅんとした。


「無理を言ってごめんなさい」アイレンは深く頭を下げる。「もうお礼をするのはあきらめます。これ以上ご迷惑をかけるわけにはいきませんから……」


「わかってもらえてよかった。それじゃ」


 面倒事はごめんだと言わんばかりに、シュウトは足早に立ち去ろうとする。

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