第12話 立ち向かうべき現実

「今日も遅いんだね。まだかかるの?」


 オリビアは心配そうな顔をして、手には小さなトレーを抱えている。食堂からの差し入れか、ティーセットが一式準備されている様だ。


「もう少しですよ……ありがとうございます、そこに置いておいて下さい」


 彼女はうなずくと、キャビネットにトレーを置いてソファーに座る。終わるまで待っているから、そんな顔をしていた。


 しばらく私達に会話はなかったが、彼女が同じ部屋に居るだけで私は嬉しかった。これが幸せというものだろうか。


 そもそも私は結婚の経験がない、恋愛の経験もないが、それなら村での暮らしを何と定義すればいいものか。


 もしかすると、あれが恋だったのかもしれない。


 私の腹側被蓋野ふくそくひがいやでドーパミン細胞が発火していたのだ。きっと脳の奥にある尾状核びじょうかくが幸せで溢れていたに違いない。脳神経科学は私の専門ではないが。


 思い返せば、オリビアとの村での暮らしは、とても穏やかで満ち足りたものだった。それを失って初めて気がついてしまった。


 力ある者は騎士に徴集される、その仕事に従事する事も国民の義務。この国はヴィクトリア王国と言うくらいだ、王様がいるだろうが、まったく横暴にも程がある。


 街や地方の管理者など一部の特権階級を除いて、騎士の地位は高い。見習い騎士のオリビアでさえ、給料は一般人の二倍はもらっている。金銭面の待遇は良い。


 しかし、騎士団とは軍隊である以上、組織運営を考えれば規律が必要だ。自由に出かける隙もない、それは理解出来る。


 だが大きな戦いでもあれば、死亡率は十数パーセントに上るという。それに戦う相手は人間以外にもいるらしい、笑えない冗談だ。


 前任者の愚行を見るに、この騎士団は酷い状況だったのだろう。そんな場所に彼女を置いておく事は出来ない。早急に改善が必要だ、まだ道半ばではあるが。


 未だ父が何処にいるのか分からない、探す当てもない。だが身寄りのない私にとって、もはやオリビアは家族も同然だ、夫婦かどうかは別にして。


 このままでは、彼女の側に居るだけでは不十分。だからこそ団長の口車に私は乗った、彼女に降りかかる火の粉を払い除けるために。


 それに彼女も私を家族だと思ってくれるのなら、この生活も悪くはないのだろう。そう考えていると、もう書類の内容がまったく頭に入ってこなかった。


『オリビアサンガ、マッテイマスヨ?』


 私のカタツムリは頭をもたげて、こちらを見ている。私は慌てて立ち上がった。


「すいません、お待たせしました」

「いいよ。難しい顔してたけど、やっぱり大変なの?」


「色々と考える事が……それに、完璧な業務の引継ぎなど存在しませんからね」

「うーん、そうなんだ。あっ、ちょっと待ってて」


 彼女がそう言うと、羽の生えた小さな女性がぱっと現れて宙を舞った。そしてティーポットから湯気が立ち上り、彼女は一杯のお茶をカップに注いでくれる。


 水を温める魔法、もしかして授業で習ったのだろうか。


「凄いですね、そんなことも出来るようになったんですか?」

「うん、昨日習ったんだ。ナットは午後から仕事だったでしょ、見せるのは初めてだね」


「そうですね、驚きました。それにしても良い香りです、頂いてもいいですか?」

「どうぞ、お召し上がり下さい!」


 彼女は笑って、そう言った。やはり、この生活も悪くはない。


「皆が言ってたよ。ナットは若いのに凄いねって。私もナットが褒められると嬉しい!」

「オリビアにそう言ってもらえると、私も嬉しいですよ」


「それなら、私ももっと嬉しいかな。でもね……皆がナットのこと、ちびっ子隊長って、その呼び方は格好良くないよ。だから私がもっと格好いいのを考えるから」


「まぁ、私はオリビアよりも背が低いので。いつかは追い越したいですが。あと団長補佐代理なので、後で皆さんに訂正しておきます」


 肩を触れ合わせながら、私達は久しぶりに話をしていた。

 

 村を出て自覚したが、彼女と一緒でなければ私は深く眠ることが出来なかった。あの頃は息が触れ合う程の距離で、夜遅くまで色々な話をして、そして二人で深い眠りに落ちていたが。


 母を亡くして、父が蒸発し、過去の記憶を思い出して……。そんな私を支えくれたのは幼馴染のオリビアだ、彼女は大切な人に決まっている。


「そう言えばね、前の団長さんはお爺ちゃんだったって。それで、ナットの前に働いてた人達は団長さんを虐めて、悪いこと沢山してたって言ってた」

「そうでしょうね」


「そんな人達の後仕事だから、ナットも大変なんだって……」

「私は大丈夫ですよ、残っている皆さんは良い人達ばかりですから」


「でも、大変そうだよ」

「それは……確かに大変ですが。久しぶりにオリビアとゆっくり話が出来て元気がでましたよ」


 私がそう言うと、彼女も嬉しそうに笑ってくれた。これだけで私は十分幸せだ。いつしか夜は更けていく、けれども二人の話は尽きなかった。


 翌朝、目が覚めると私はソファーで寝ていた。隣でオリビアがすやすやと寝息を立てている。


 二人で毛布に包まって、どうやら昨晩はそのまま寝てしまったらしい。私はいつ眠ってしまったのか。果たして今は何時だろうか、時計が無いのが不便だ。


『サンジュップンデ、アサノカネガ、ナリマス』

「おはよう、デンデン。もうそんな時間か……」


 騎士団の朝は早い、鐘の音と共に起床して点呼が始まる。オリビアを部屋に返さなければいけない。


 彼女の身体を揺すと、目をパチパチとさせながら、何かむにゃむにゃと言っている。口元のよだれを手で拭ってあげると、はっと気が付き私を見た。


 無防備だった彼女の表情は、見る間に凛々しく変わっていく。


「あぁ、私も寝ちゃったんだ」

「そうみたいですね。もう少しで鐘が鳴ります、部屋に戻らないと」


 彼女は慌てた様にソファーから立ち上がって窓辺に向かう、そして窓を開けると足をかけた。


「ごめんなさい。また、また今度ゆっくりね!」


 颯爽と窓から飛び出して、宙を駆ける様に帰って行く幼馴染を、私は窓から見送った。どうやら彼女がどんどん人間離れしていく、身体能力の向上、精霊の成せる技だ。


 取り残された私は、ティーセットを片付けてから部屋を出る。一先ず食堂にこれを返そう、お礼も伝えなければ、そんな事を考えながら騎士団事務所の廊下を歩いて行った。


 食堂は事務所とは別棟に建てられている。中に入ると椅子とテーブルが整然と並べられ、拭き上げられた表面が朝日でピカピカと輝いている。


 厨房の奥からは威勢のいい声が聞こえてくる、料理長の声だった。


「エヴァンスさん、昨日はありがとうございました」


 厨房の中を覗き、コック帽を被った男に私は声をかける。彼はこちらを振り向いてから、ニヤリと笑った。


「おう、ちびっ子隊長のお出ましか。今日は遅かったな、昨晩はお楽しみだったのか?」

「そんな訳ありませんが、差し入れありがとうございました」


「つまらんな。男なら、きめる時は決めるもんだぞ。まぁ、少しは眠れたか?」

「久しぶりにグッスリ眠れました。美味しいハーブティーでしたね」


「煎れたのは俺じゃない」

「そうですけど。それにしても、今日も食堂はピカピカですね」


「整理・整頓・清掃だろ? お前が来た日、いきなり一人で掃除を始めた時は驚いたがな。そんな事も出来ないくらい俺達は腐ってたんだ、まったく情けなかったぜ」


 彼がそう言うと、周りに居た料理人も手伝いのおばちゃん達も、少し悲しそうな顔をした。


 確かに初めて見た食堂は油でベトついて、椅子もテーブルもガタガタ、鍋やフライパンもぐちゃぐちゃに並べられて。それは酷い有様だった。


 私の肩書は団長補佐代理、つまりは雑務担当、食堂の改善も仕事の内だ、と言っても私は料理が出来る訳でもない。


 やれる事と言ったら、掃除くらいしか思い付かなかった。だが整理・整頓・清掃、つまり3Sとは現場の基本、無駄にはならない。

 

 こつこつ毎日続けていたら、最初に謝罪をしてくれたのは料理長だった。今では気軽に話が出来る仲になったものだ。


「皆さんも、ご苦労されていた様ですから」

「お前に言われると立つ瀬がないが。とりあえず、ここは任せとけ。後は食材の調達だけ頼むよ」


「赤字ですからね……策は考えていますが。あっ、それと私は隊長ではありません、団長補佐代理ですから」


 彼は私の言葉を聞いて笑っていた。本当に初めて会った時は、皆んな死んだ魚の目をしていたのだから、人とは変われるものなのだろう。


「ナットさん、ここに居ましたか」


 後ろから急に声をかけて来たのはマリアベルさんだった、私を探していたのだろう。挨拶をすると、彼女は話を始めた。


「今日の午後は商業組合の会長と打ち合わせがありますので、お昼を済ませたら事務所の入り口に来て下さい」

「分かりました」


「それと事務所に泊まるなら仮眠室をお使い下さいね。奥様をあんな所で寝かせるのは、可哀想ですよ」

「……」


「安心して下さい、毛布をかけたのは私ですが。団長には秘密にしておきます。貸し一つとしておきましょう」

「ありがとうございます」


 抜け目のない団長秘書、彼女に貸しを作るのは、とても危険だと言うのに。これは高くつきそうだった。

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