File:1-8_可笑しな日=My New Life Has Started/
蹴りを入れるモーション。何コンマ秒後に、どんな軌道を描き、どれだけの力でどこに衝突するか。その時点で解っていた私は"右"へ避けた。
ビュオッ! と強い風が真横から聞こえる。髪が揺れ、ヘッドフォンが左耳ごと裂かれそうなほどの鋭利な蹴りに、容赦のなさを痛感させる。
髪がふわりと舞う。右に避けた私の目の前にまで向かってきた男の蹴りは、いつのまにか顔面の"左側"にあった。まるで男の位置を左へ
男は明るい笑みで、
「流石、調べた通りだ」
と、脚を降ろす。
「正直もしかしたらと思って保険はかけてたけど、まぁ避けてくれて安心した」
「……ブラック職員なだけあって、容赦なしかよ」
冷や汗が流れる。心の中で「あぶねー! めっちゃあぶねー!」と連呼して叫んでいる私がいた。青年は謝ることなく、なだめるように話した。
「まぁまぁ適性検査ということで試してみただけよ。俺の蹴りを避けられた一般人はアンタで最初だ。同じ部門のスタッフでも中々いないぜ?」
「あたりまえのように人に蹴り入れてんのかい」
「つまり」とスルーした青年は結論付ける。
「あんたは非常に優れた五感と異常ともいえる脳機能を兼ね備えた正真正銘の先天的天才。極論で言ってしまえば、『何でも解ってしまう』体質ってことだ」
「解ってしまう……」
なんでも解ってしまう体質。彼の言葉をなんども繰り返した。自分でもわかっていたことなのに、そうはっきりと言われてしまうといまいち受け入れにくい私がいた。
「そ。今は不安定だし不完全だけど、その生まれ持った
「……それが何だっていうのよ」
その
揺らぎかけたが冷たく突き放した、そのはずだ。だが、彼は動じず、少し黙った後に口を開いた。その目を中央の噴水へと向ける。
「まぁ、境遇を思えば大変で済まされるもんじゃない。なんでも解るはずなのにろくな答えも見つからない人生の中、わけのわかんないものに遭遇して、知らない男に嫌なこと思い出させられて、果てに怪しい勧誘までされる。たまったもんじゃないだろうよ」
空間に表示されたホロパネルが彼の前に出現しては、私の前にスライドしてくる。
「特殊な機関だからHPみたいなもんはないけど、概況や事業内容、待遇とか、うちで働くにあたっての情報をまとめといたやつだ。存在自体が極秘だからまだ入ってもない人間に見せたくないけど、これで少しは疑いが晴れるだろ」
数ページある資料を一通り読み通す。この体質だから読むのは一瞬かつすぐに理解できるから時間はかからない。
国連機関なだけあって人数や予算、拠点など規模は世界的な企業並みに大きい。事業は扱っているものが胡乱な存在である以上はどうともいえないが、この文面を信じる限りまともともいえる。待遇に関しても申し分ないどころか、あの"EDISON"に引けを取らない高給。状況によるが週休3日。秘密結社でなければ入職したいところだ。読み終えたのを察したのかインコードは、独り言のように話し始める。
「本来、イルトリックに善悪は存在しない。その分、理不尽なほどに平等で容赦がないし、きっかけひとつで簡単に染まることもあれば手を尽くしてもどうにもならないときもある。確率論とはいえ、あいつらは認識されないだけで人に危害を加わえていることだって少なくない。いつの間にか親友や家族、恋人が消えて、それに気づかないままなかったものとしていつもの日常を過ごしていることがざらだ」
「それって――」
「存在が忘れ去られるってことだ。言ったろ、都合のいいように過去の記録や記憶も、形跡も履歴もすべて書き換えたり消したりするって」
背筋が凍る。そんなタイムマシン論のような出来事が日常茶飯事で起きているとでもいうのか。
「やつらのテリトリーに連れていかれたら、基本は助からない。まったく景色が変わらないものとか別の世界に飛ばされるものとかタイプは様々だけど、それほど報告件数が多くはないのはその迷い人の存在を世界から消されるからだと言われている」
「……その人たちはどうなるの?」私の口が勝手に問う。
「ただ死ぬだけなら埋葬はできないが幸せな方だ。数年後に
奇天烈で到底信じることのできない馬鹿げたフィクション。だが、先ほどの怪異の脅威を思い知らされた記憶はなぜこの頭の中から消えていない。連れていかれる側になろうとしていたからなのかと思うと、彼の話も鵜呑みにしてしまいそうだ。
「残された人もただ忘れるだけじゃない。運命や時空を弄られてるからには何かしらの欠如が生まれて、心身のバランスが突然崩れて死ぬ人もいる。自然界の生態系や気候変動の異常も、人の責任が大きいのは否定しないがイルトリックが一端を担って問題を肥大化させているのは既にわかっている。でもその解決法は真夜中の砂漠で金の粒をひとつ見つけるようなものだ。そんな常識を打破する可能性を、あんたはもっている」
「……可能、性」
「ああ。月並みの言葉だけど、役に立つってのはニュアンスの割に馬鹿にできねぇくらい、自分の救いにもなる。もちろん、俺たちの助けにもなる。ひどいこと言って申し訳ないけど、最初はその力の利用価値しか見てなかった。SFにあるような実験体として問答無用で拉致して、洗脳した後に機械みたいに使う案もなかったといえば嘘になる。けど、あんたの生い立ちと生き様を知っていくうちに、限られた選択肢の中でどうにか助けられないかと情が芽生えてしまったみたいでな。だからこうして話しかけたし、目が覚めるまでここで待った。幸せにさせるとかそういう安っぽい言葉を言うわけじゃないけど、せめて苦しい中で何か一つでも変われるきっかけを与えることはできるんじゃないかって、そう思ったよ。それがお互いのためになるのならなおさらだ」
聞き流すことも、余計なお世話だと突っぱねることもできた。だけどどうしてか、私の頭は抵抗なく受け入れることができていた。それはきっと、目の前の男が建前を使わないクソ野郎で、だけどどの人間よりも私そのものを見ていたからかもしれない。
誰よりも、何よりもリアルそのものだったから。
「だからあんたが必要なんだ。俺にとっても、組織にとっても……この世界にとっても」
強い意志が込められていた。真摯な目が私の心に刺したような痛みをもたらす。風がやけに涼しく感じた。
「もう一度訊く」
青年は改めて口を開いた。
「UNDER-LINEに入ってくれねぇか」
関わってはならないという常識の反面、同時に何かの感情が溢れそうになっていた。
学校で身に覚えのない問題を起こし、警察に延々と同じことを事情聴取され、プレッシャーを与えるために罵倒され、挙句の果てには脳や身体に負荷を与える拷問器具を取り付けられたり、根性論よろしく怒鳴られながら
持ち物も、部屋の物も、証拠や情報として
……いや、例外はいた。だけど、たった一本のか細い蜘蛛の糸とも言えた救いすらも、私は振り払ってしまった。全部が嫌になって、怖くなって、解るはずなのに自分さえも信じられなくなって。あのときの後悔と罪悪感は今すぐにでも消し去りたい一心だった。
理不尽で、しかし当然の退学処分・有期懲役となり、私の見慣れた居心地のいい部屋は刑務所の固い檻の中へと変わった。そこで過ごした日々など、一日でも早く忘れたい。
釈放後だってそうだ。家族や親戚、実家、そして被害者のご家族や関係者にどれだけ謝罪したか。数少ない友達にも連絡できず、いや、できなかった。既に解り、恐怖を植え付けられたから。妹も例外じゃない。とどめに
価値のない、つまらない日々。
そんな腐った毎日を送る腐った人間なんて、誰も必要としない、不要品。
必要されていないとあのときからずっと思っていた。だけど。
「必要だから」と、見知らぬ彼はそういってくれた。
こんな自分でも必要としてくれる人間がいる。それは嘘かもしれない。本当だとしても、いつか幻滅されるかもしれない。そもそも悪徳商法よろしく利用されるに過ぎないだけかもしれない。でも、この冷たくなった胸の奥に感じたものを無視することはできなかった。失いかけた自分の存在価値を、このとき問いかけられたような気がしたのだ。
嬉しかった。たった一言のちっぽけな言葉。それが私に希望を与えてくれた。
苦しかった。声なき言葉がとてもつらかった。それは解のない絶望に等しかった。
罪人としての重さは感覚と記憶が麻痺するほどの苦痛。そんな痛みと、ぽっかり胸に穴が空いたような感覚と共に生きてきた毎刻。目を閉じるたび、思い出し、胸や頭に激痛が走って吐き散らかす夜。両腕もお風呂場も汚した日は数えきれない。この世から手頃に自分を消せる具体的な手法も考えた。誰も見ていないとき、死にかけたこともあった。そんな半端な自分に嫌気がさした。
罪を背負い、どこにも所属していない、孤独の日々。
そんな不用品を目の前の彼は拾ってくれるかもしれない。大嫌いな自分の体質を、彼は活かしてくれるかもしれない。とにかくなんでもいい、こんな
私は命を懸けてでもそのチャンスを掴み取る。
「……った」
風の音が聞こえるなか、ぽつりと聞こえたとても小さな声。「え」と青年は思わず聞き返す。
ヘッドフォンを耳から外し、青年の前に立つ。笑顔で彼の目を見、もう一度同じ言葉を強く放った。
「――わかった!」
「それってつまり……」
「あんたのしつこくてストーカーじみた勧誘に免じて、アンダーライン、入ってやろうじゃないの!」
青年はそれを聞き、虫を捕まえた子供のように明るい笑顔を見せた。
「っ! マジで! ホントに!?」
「だから入るって言ってるじゃない。それとも何? この話は元々なかったこと?」
「いやいやとんでもない! 是非とも、よろしくお願いするよ!」
青年は手を差し出した。それを察し、私は青年と握手を交わした。これだけ嬉しい反応するってことは半ば諦めていたのだろうか。
「じゃ、よろしくね、おにーさん」
今日初めて、明るい声で言えた気がする。気分が高揚している私に対し、青年も笑顔で応じてくれた。
「インコードでいいよ。あ、でもどうせおにいさんと呼ぶくらいなら『おにーちゃん』って――」
「誰が言うか!」
不覚だった。まさかの
「えっ、じゃあおとうさんでいいの?」
「なんでそうなる!?」
ダメだ、イケメンだけど頭ぶっ飛んでる。割と本気でこいつがわからない。
「意外とおもしろい反応するんだな」
「……やめてようるさい」と冷静になった私の顔が熱くなる。ふいと顔を逸らした。
「あ、そうそう、配属の手続きだけど」
「契約書とか面接とかでしょ。筆記もあるの?」
「全部パスさせた」
……今なんと?
軽くとんでもないこと言ったぞこいつ。
「はぁっ?」
「いやもうなんか、俺からあらかじめお偉いさんに言っといたんで、あとはCEOとあんたで話しつけてくれば、もう立派なアンダーラインの一員だぜ。まぁこれは特例だけどな」
「じゃ、じゃあもう最初っから私はそこに入ってたってこと!?」
「Oh, YESッ☆」
如何にもうざいという言葉が似合う笑みで返答した。白い歯を見せてはピースとウィンクをし、語尾に星マークがついているのが目に見える。
断ろうが引き受けようがどっちにしろ大きく変わりなかったということか。
「はぁ……」
「ん? どうした」
「いや、その……なんでもない」
何か釈然としない。
パーカーのポケットに手を突っ込むと、何か温かくて、固いものが手に当たる。そういえばよく無事だったなと感心しつつ、
「そうだ。はいこれ」
私はインコードという変なコードネームの青年に『BLACK 珈琲』と表記されている赤い缶をぽいっと投げた。
「?」
「さっき自販機でアタリ出たやつ。こんな前科付きのヒキニートを勧誘してくれたお礼よ」
「おお、ありがとな」
インコードはカシュッと缶を開ける。中から暖かそうな湯気が香りと共に漂い出てくる。今どきの缶は熱を逃がさないため、どんなときでも熱い状態で飲めるから便利になったものだと思いつつ、私も最初に買った『エルギニン』を飲もうとしたが、自販機前でこいつに話しかけられて落としたままだったことを思い出す。急にどっと疲れが実感として現れてきた。
「へへ、なんだよおまえ。意外と気前いいじゃぶぼぁっ! なんっじゃこりゃあ!」
インコードは口の中に含んだ珈琲を豪快に噴き出した。
「うわきったな。そんな熱かった?」
「……あ!? これよく見たら炭酸入りじゃねぇか! なんだよこれ、なんの罰ゲームだよ!」
「なにおぅ! せっかく私のお気に入りをあげたのに文句つけるわけ?」
「うっそだろ、おまえ炭酸入りの珈琲がお気に入りって! ぶははっ、どんな味覚してんだよ」
「う、うっさい! いいからさっさと全部飲み干せっての! そうすりゃあんたもその珈琲の素晴らしさに気付くはずよ!」
「だーれが気付くかこんな化学兵器。こんなん全世界でおまえぐらいしか飲んでねーよ!」
「なっ!? あーもう許さん! この素晴らしさを知るまであんたの家に炭酸珈琲箱詰めで送ってやる!」
今日ほど
恐怖や不安はある。だけど、私は心の中でこれから来るであろう新しい人生に微かな希望を抱いていた。
そして、彼についていけば"あのとき"のこともわかるかもしれないと期待をしていた。
二年前の事件。私は証明が欲しかった。間違った模範解答は誰だって納得がいかないだろう。過ぎたことや失ったものを取り戻せないのなら、いつかどこかで寂しく死ぬのなら、せめてそれだけは知りたかった。いや、ぜいたくを言うなら、一人くらい誰かを笑顔にしてから、この世から消えたい。
珍しいことだが、その日は予報に反し雨が降らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます