第2話

 修哉が目を覚ましたとき、身体は依然いぜんアスファルトの上だった。全身に食い込んだ路上の小石に不快感を覚えて起き上がろうとした時、顔面や腹部の痛みがぶり返してきた。その痛みでようやく状況を思い出した修哉は意識の覚醒を優先させたが、同時に敏感になる苦痛の感覚に自由を阻まれていた。


 修哉はすぐそばにある背の低い白塗りの塀にもたれかかりながら、やっとの気持ちで半身を起こすと、首をあげた先にいるはずの少女の姿を探した。


「二十分」


 少女は彼のすぐとなりに寄りかかったまま半身でこちらを見下ろしていた。


「は……?」


 修哉はその言葉の意図がみ取れず、愚痴とも質問とも取れぬ間抜けな声を漏らした。


「古川が眠りこけてた時間。二十分。あんまり女の子を待たせると嫌われるよ」


 修哉にとっては嫌味たらしく二度もその時間を告げた彼女は、実際には大して不満でもなく、寧ろからかっている様子だった。しかし心配しているというわけではなかった。現に修哉は起こされたり、運ばれたりもせず、路上に放置されていたのだから。


「そんなこと言うんだったら、助けてくれたっていいだろ。二十分もこんなところに放置しなくたって」


修哉は当然そう問いかけた。


「助けるって、古川が勝手に突っこんできたんでしょ。お客さんどっか行っちゃったし、待ってあげただけ親切だと思うけど」


 修哉は意識が途切れる前のことを自分の心情まで含めて思い返し、羞恥しゅうちを覚えた。返す言葉もないまま目線を足下に逃がしたが、代わりに新たな疑問が生まれていた。


「なあ、お客さんって、さっきのやつらのこと?」


「当然でしょ。で、古川、あなたが代わってくれるわけ?」


 修哉はこのときようやく、本当の意味で状況を理解した。女子高生と成人しているであろう男の組み合わせ、人目につかないラブホテル街、そして彼女が発した「お客さん」という単語。目の前に居る少女はその身を投じて泡銭あぶくぜにを稼いでいたのだ。


 しかし修哉はその事実に失望したりはしなかった。その他の可能性も考えようとしたが、むしろ彼女の心身の汚れきっている方が好都合で、退屈に生きている修哉にとって魅力的に思われたのだ。


 しばらくの間修哉は少女の目を見つめていた。少女もまた修哉を見下ろしていた。この路地は緩やかな傾斜になっていて、その上側にいる少女は、実際の背格好よりもほんの少しだけ大きく見えた。そして綺麗に整えられた前髪には遮られることのない、鈍い琥珀こはく色の瞳がずっと遠くに感じられた。


「わかったよ、俺が代わるよ。……景井かげい


 少女――景井とおるは、修哉の方からそっと顔を背けた。だがその返事は期待通りだったらしく、寄りかかっていた塀を五指で軽く突き飛ばすと、くるりと振り返ってまた修哉の方を見つめた。


「ほら、早く行くよ、お客さん」


 修哉がゆっくり立ち上がろうと右手を地面に着いたところで、透はもう一方の手を勢いよく引いて立ち上がらせた。そうして足取りも不安定なままの修哉を、すぐ斜め向かいにある建物の、入り口の傍までそのまま連れていってしまった。


「ちょ、てて! いきなりなにを……」


「そろそろ人が増えてきた。この格好は目立つから」


 傾斜を下った角の先からは若い――とはいっても修哉たちほどではないが、青年らの声が聞こえていた。どうやら他にも人の往来があるらしかった。


 透は目立つと言っていたが、それが学生服を着けている彼女のせいであることは明らかであった。修哉は片手で衣服の汚れを払いながら、透にそのことを言い返してやろうとしたが、不意に彼女に向けられた微笑に躊躇ちゅうちょした。


 透は修哉のことをからかっているらしく、普段からこの姿で過ごしているであろう彼女が今更そのことを問題にするはずがないのは、冷静であれば考えるまでもないことであった。


「じゃあ、入ろっか」


 修哉が引き込まれた場所はまさにラブホテルの敷地だった。彼はまだ点灯していない看板を見上げた。白いつやのあるタイルで囲まれたその建物は、アスファルトの黒と対照的に昼間は陽の明るさに呑まれそうなほどだが、日暮れを迎えようとしている今この瞬間、その姿を徐々にあらわにしていた。


 修哉はこの先起こるであろうことを覚悟したつもりでいたが、こうも突然差し迫った状態に置かれると、名残とも言える一種の悲しさをおぼえた。しかし彼にわずかに残っていた理性は、まもなく肉よくと目の前まで漂う非日常の甘いかおりによって打ち砕かれた。


 丁度一人が通れる程度の自動ドアをくぐりながら、修哉はふと思い出したように透の方を見た。そして自分の左の掌に、当然のように人間らしい温度の指先が触れているのが不思議に感じられた。むしろ、人間的に彼女を知覚しているのはその熱だけであると錯覚するほど、彼女の気配というものは軽薄で、透明だった。


 建物に目を遣る一寸ちょっとの間も、修哉は彼女のことを忘れていたような気さえした。


 ロビーは狭く、入り口のすぐ傍には受付のカウンターがあった。また、路地の角に位置するこのホテルは向う側にも入り口があるらしく、前後のから流れ込む弱い日差しが部屋の中央に至る前に、シャンデリア風のあやしい照明の下で溶けていた。


 カウンターの横には「INFORMATION」の文字とともに部屋の番号と画像が表示されている電子パネルが埋め込まれていた。


 修哉がそれらを眺めている間、透は既に受付に部屋の鍵を要求しているらしかった。乳白色のガラスで顔までは見えなかったが、革の剥がれたカルトンとにぶい銀色の鍵を渡してきた手は中年男性のそれらしい、太く厚みを感じさせるものだった。


「なあ、この黒い画面はなんなんだ?」


 ふと修哉が問いかけると、透はそれを無視したままぐいと彼の手を引いて、階段の方に向かってしまった。しかし今度はからかっているのではなく本当に都合が悪いようで、上の階に着くまで応じてくれなかった。


「あれは空室の状況。光ってるとこが空いてて、そうじゃないところが使用中。そんなの知らない方がめずらしいんだから、わざわざ言わせないで」


「え、ああ、わり……」


 黄ばんだ明かりで満ちた細い廊下は生ぬるい空気が漂っていた。入り口からここに至るまで店内は古くさい様相ようそうであったが、透はどうやら使い慣れているらしく、まっすぐ部屋に向かっていた。


 修哉は、到着した部屋の番号が案内板で暗転していた「206」であることに気付いた。本来使用中であるはずの部屋だった。しかし、今度は透にそのことを問いかけはしなかった。


 透がドアノブを捻ると、やはり古ぼけた金具の音が壁を伝った。そしてその中には小さい玄関フードと狭い間隔でまた一枚の扉が構えていた。二人が同時にそこに立ち入るのは窮屈に思えたため、修哉は廊下で透の靴を脱ぎ捨てるのを眺めていた。彼女の履いていたローファーはくたくたであった。


 その扉まで開けると、静謐せいひつあでやかなワインレッドを基調にしたベッドルームが広がっていた。修哉は予感していたよりもずっと立派な印象を与えられたらしく、そわそわと辺りを見回しながら、無言で電気を点ける透に続いた。


 透はいくらかくたびれた様子で、入り口の方を振り返りながら勢いよくベッドの上に座り込んだ。無邪気ささえ感じるその姿はこの無機的な部屋に似つかわしくなく、修哉はまた生半なまなかな理性の束縛に苦しめられながらも、結局彼女の隣にゆっくりと腰を下ろした。


「飲み物、注文するけど」


 透は立ち上がってそう問いかけた。



 ◇



 透は電話口での注文を終えると、窓の戸を閉めきってしまった。いよいよ部屋の灯りの甘ったるい光と、少しはやい呼吸音だけが停滞する部屋にふたりが存在していた。


 透は改まった様子で修哉の隣に沈み込むと、天をあおぎながら口を開いた。


「古川、なんで急に飛び込んできたの」


 急な問いかけに修哉は困惑した。それは問いが脈絡なく投じられたからではなく、むしろいつかくるとわかっていながらも、その答えの正当性を自分でも見いだせずにいたからである。


 修哉は膝の上で両手を遊ばせながら、自分の理性の外側にあるだろう、あのとき湧いた衝動が、興奮が勝手に答えを吐き出すのを待った。しかし、その答えは実際に修哉の身体の外から発せられた。


「私が欲しいんでしょ」


 透の回答に修哉は赤面した。そして徐々に脈動が激しく、血液が熱くなるのを感じた。そしてもはやこの関係には、理性も正しい理屈も必要がないと解した。そこにあるのは非日常への渇望かつぼうただひとつだった。


「そうだ……。景井、お前が欲しくてたまらない」


「そう。そうだよね、じゃなきゃ私のことがんだから」


 透は修哉の顔を下からのぞき込むように微笑みかけた。彼女の頬もまた紅く鮮やかな血の色味を見せていたが、その含みのある回答からするに、修哉よりはよっぽど冷静であるらしかった。


 修哉は目を逸らそうとしたが、気絶する以前に透が発した「能力」という言葉を思い出した。もっとも核心たるそのことを問い返そうとしたとき、透が人差し指を口元に当て遮った。


「余計なことは言わないで。まだ、まだ」


 なにかを言いかけたように、それを誤魔化すように、今度は彼女の唇を修哉のそれに密着させた。


 修哉は彼女の体温の生ぬるさに意外感と安らぎとを覚えた。そしてそのままの姿勢で、ただぼんやりと彼女の香りを嗅いでいた。

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マージンの向う 後田 燐寸 @m4tch6

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