マージンの向う

後田 燐寸

第1話

七月半ば、薄いカーテンの閉め切られた部屋に差し込む夕日は薄く伸びた影になっていた。良く効いた空調ととおるの首元を伝う一筋の汗が初夏の訪れを物語っている。


「飲み物、注文するけど」


 透が立ち上がると、修哉はベッドに腰掛けたままそれを見上げて小さく「俺はいいよ」と呟いた。


「そう」


 彼女の返事にはまるで愛想が感じられなかった。かといって丁寧さを欠くほどではなかったが、少なくとも、同じホテルの一室に男女が二人という状況には似つかわしくない。もっとも、二人の間に交際関係があるわけではないため、彼らにとっては自然なことだった。


 入り口横のテレフォンに手をかける透の後ろ姿を見て、修哉はあれこれと考えることをめた。


「やっぱお茶頼む、あー……烏龍茶で」



 ◇



 古びたアパートのドアを左手で引くと、錆びた金具が聞き慣れた声を上げる。表札には101と古川ふるかわの文字。右手に握るコンビニのビニール袋と、肩にかけた学生鞄とを擦れ合わせながら修哉は玄関に上がった。彼が脱いだローファーの他に、靴は一足も並んではいなかったが、もう二、三足も置けばあふれそうな狭さだった。当然、帰宅を報せる言葉もなく修哉は机に袋を、床に学生鞄を落とすように置くと、居間に据えられた机に二つだけ向かい合った椅子のうち、片方を引いて浅く腰掛けた。


 机の上には、母親と修哉の二人の姿が映った写真が飾られている。子供向けキャラクターが描かれたシールの、剥がされた跡が見える椅子の脚や、低い位置に落書きが残る壁紙。玄関の横、大きな窓を見上げるように配置されている台所では、二口限りのガスコンロと、ステンレスの荒く削れた銀色のシンクが陽光ようこうを浴びてにぶく輝いていた。それらは彼の生活を語る足跡そのものだった。


 道路に面しているこの部屋は一階だが太陽の熱が良く感じられた。エアコンも点けず、汗で濡れたワイシャツを背中に貼り付けたまま、修哉は猫背で袋の中身を取り出した。手に持ったのは、小ぶりな苺が乗った、一切れのショートケーキ。陳列棚に並んでいたときと比べたらすっかりぬるく、クリームもだらしなく崩れているように見えたので、彼は冷蔵庫とケーキに交互に二、三回視線を送ったが、今食べてしまおうと決めビニール袋を逆さにし、プラスティックのフォークを机の上に落とした。修哉にとって、これはよくあるお八つ時にてたスイーツや、自身をねぎらうちょっとしたご褒美ではない。今日は彼の十八歳の誕生日だった。そんな日に食べるケーキをコンビニで買ったことや、蝋燭ろうそくの一本すら立てないことは悲観的ひかんてきなことではなかったが、不満がないかというとそうでもなかった。


 ドーム状の蓋を開け10センチ程度のフォークをつまむと、それを倒して端の方からケーキを切り取った。遠くから蝉の鳴く声が聞こえた。小さく口を開け、中へとケーキを運び込む。バースデーソングは無かった。特別に味わうこともなくそれ咀嚼そしゃくすると、温いクリームとスポンジ生地の甘さが腔内こうないで唾液と混ざり合った。不味くはなかった。しかし、あまりに日常的だった。


 ケーキを食べ終えると律儀に蓋を容器に戻し、フォークと共にビニール袋に入れてその口を結んだ。椅子に深く座り直した修哉は、スラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。シンプルな待ち受けと未読通知の溜まっていない画面からも、母親譲りの几帳面さが見て取れる。メッセージアプリを開いたところで当然新着のメッセージは見当たらない。どうして今日に限って誰も空いてないんだよ、誰か一人ぐらい俺のめでたい誕生日を祝ってくれたっていいだろ、と彼の叫びは胸中で霧散していった。


 微妙な苛立ちを覚えながら時刻表示に目をると、まだ十六時らしかった。制服から着替え、財布と携帯だけを持った修哉は外に出て二、三歩のところで立ち止まると、思い出したようにポストに入った鍵を取りに戻り、今度はきちんと戸を閉めた。鍵をかけたドアが、足音の鳴る度にそのわずかな振動でがちゃがちゃとうめいていた。



 ◇



 電車で二十分余り、修哉は狭いアパートから一転、広すぎる交差点に、高い商業ビル群を構える歓楽街に到着していた。普段から友人たちと訪れている街である。人混みが寂しさを忘れさせる、夜になればネオンサインの奥から何か非日常が生まれる気がする、そんな曖昧な引力を感じて目的も無く足を運ぶのはよくあることだが、一人きりの状況はまた少し違った愉快さと優越とがあった。


 修哉はいつも窮屈きゅうくつな心持ちをしていた。裕福ではないが苦しいほどでもない生活の中、母親が、一人残された息子に注ぐ無償の愛は少しいびつだ。親の持つ庇護欲ひごよくは次第に肥大化し、その対象無しではいられなくなる。子は愛されすぎることで、その愛情無しではいられなくなる。ただし、子の感覚だけは成長の過程で常識という無責任の力に揉まれ、本来の形質を少しずつ失う。彼もまた、自分と母親が既に自力ではどうしようもない共依存の泥沼に脚をさらわれていることに薄々気付いていたし、友人との間にある明らかな感覚の相違に密かなコンプレックスを抱いていた。実際に、彼はここに来る度、あの小さな壁に囲まれた部屋と母親のかおを思い出さずにはいられなかった。


 駅ビルを背に正面の坂道を少し行った先ではライブハウスとラブホテル、クラブが混在していて、若人に背伸びをさせてくれた。それらの暗く細い道々は修哉が好んで歩き回る場所の一つでもあった。まだは高く、灯りに血が通い始めるのには早すぎたが、小さなライブハウスで知らないアーティストのステージに興じることもあった彼は、今日はどこでどんなことをやるのか見て回ろうと思っていた。


 路上から人の気配がしないのは夜も変わらないが、夜は実際、壁の向こうのベッドルーム、ワンフロア下った地下にいくつもの体温が宿っていて、今感じている白けた昼下がりの涼しさとは全く異なっている。だからこそ、今ここに人がいれば、物音一つ無くてもすぐにそれを察知することができた。


 路地の中でも特に目立たない建物の間に、似つかわしくない制服姿の女子高生と、それを囲むように歩く二人組の男性。二十歳程度だろうか、どちらも修哉からすればかなり巨大な体躯たいくであったが、それよりも目についたのは女子高生の方だった。修哉の所属する学校の女子制服に、瑞々みずみずしく長い黒髪。後ろ姿で顔は見えなかったが、彼は確かに彼女がクラスメイトのとある少女だとわかった。ただし、何故だか脳裏でその名前を呼び出すことだけができなかった。些細ささいな矛盾に若干の不安を覚えながらも、修哉は自分が目の当たりにしている状況を再認識した。


 修哉は彼女を連れ出さなければいけないと決断したが、その動機は彼女に対する親切心や正義感ではなかった。手足は小刻みに震えていた。これも恐怖というより、好奇に因るものだったのかもしれない。修哉は今見ている、いや、見逃してしまいかねない光景こそ、彼がこの街に求めて止まない本当の非日常だという期待を抱いていた。なにより、依然いぜん名前の思い出せない彼女の姿が、魅力的に映って仕方がなかった。


 二人の男に対して嫉妬すら覚え、その非日常を絶対に奪わせまいと修哉は駆けだした。後ろから勢いよく飛び込んだ修哉のタックルを受け、右側の男が前方に倒れ込む。


「うぉ!」


 180センチ程度はあるだろうサングラスをかけた男が、身長だけでも10センチ、体重はさらに大きく劣るであろう青年の不意打ちを受け、声をらした。修哉は自分の前で両手をついて倒れる男を見て初めて、自分が取り返しのつかないことをしているという実感を得た。目的は彼女を連れて行くことだけ、早く彼女の手を、そう思い左側を振り返ると、視界はもう一人の男の拳に覆われた。顔の左から右に衝撃が拡散する。鈍い音が鳴ったかと思えば、音が消え去ったり、耳鳴りがしたりしているような気もした。


(なんだよ、漫画と全然違うじゃん)


 目で追えても抵抗できない、重い打撃に悔しさを覚えた。目の前が明滅するような感覚に襲われ、先の男に並ぶように身体が地に傾く最中、ようやく彼女の顔が見えた。


(ああそうだ、あいつの名前は……)


 脱力しきった身体は、受け身も取れず重力の引くままアスファルトに打ちつけられる。手足の震えはすっかり治まっていた。起き上がった男が修哉のシャツの胸元を掴み上げ無理矢理立ち上がらせる。


「てめえ、舐めたことしやがって!」


 サングラスの男は言葉の途中で修哉に膝蹴りを二度入れた。修哉は完全に力を失い、男の右手一つで釣り上げられている状態だった。抵抗の気概きがいが無いどころか、日常では感じ得ない刺激に、満足したような表情すら浮かべていた。それを見たサングラスは舌打ちをして、今度は左の拳を掲げたが、もう一人の男がそれを制止した。


「待て、あの女はどこに行った」


 その言葉を受け、サングラスよりも先に修哉が、首を垂らしたまま辺りを見渡した。瞬きをする度に顔のあちこちが痛んだが、ぼんやりした景色が晴れてきたとき、サングラスの肩越しに少女が立っているのが確かに見えた。


「おい嘘だろ!? 女まで!」


 修哉のことを掴んだまま振り返るサングラスは、再び何かを言うよりも前に右手を払い除け、怒号どごうした。再び地面に伏した修哉は、90度の世界の中、黙ってこちらを見つめる少女と、その前を道の奥へ走り去る二人の男を見送った。何が起きているのかわからなかった。きっと素面でも理解には及ばなかっただろうし、とにかく今は全身の痛みと気怠けだるさがのしかかって、すぐにでも眠りについてしまいたい気持ちでいっぱいだった。


「ねえ」


 朦朧もうろうとする意識を呼び覚ましたのは少女だった。


「古川、あたしのことが見えるの?」


 目の前で横たわる人間を心配するわけでもなく、突然質問を投げかける彼女の心理は、今の修哉でも到底普通ではないとわかったが、彼自身も歪んだ気持ちで飛び出してきたことを思い出し、それ以上は余計に考えずこくこくと頷いて答えた。


「ふうん、不思議だな。あたしのが効かないなんて」


 彼女の言う能力が、姿を眩ませあの男たちから自分を守ったというのか、修哉は質問を返してやりたいところだったが、腹部の痛みからか、上手く言葉が発せられなかった。だが聞かずとも、やはり彼女は普通じゃない、非日常もたらしてくれるのだとわかって満足した。惹き付けられてやまない引力が、曖昧な存在から確信へと変わった。鳥肌の立つような興奮に包まれ、修哉はいつの間にか意識を閉じていた。

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