終章 亡郷の血

終章 亡郷の血

 半年後。夏。

 貯金をかなり使い果たしたので、探偵事務所の維持が難しくなった。いよいよ事務所を畳まなくてはいけない。いい就職口が見つかればいいが、これまでまともに社会で働いたことがないので、途方に暮れるばかりだった。

「あー……なんで仕事しなきゃいけないんだろ……めんどくせぇ」

 連日、求人情報サイトを調べるも、贅沢なことにどれも惹かれない。挙げ句には愚痴ばかり出てしまい、最終的には甲斐に泣きつく。

 彼は本業の運送で関東へ行く際は、必ず絵莉を訪ねてきていた。心配してくれるのは有り難いことだが、十歳も年が離れた男と行動するのは少し気が引ける。

 この日も突然呼び出され、昼間から焼肉屋にいた。今日は甲斐の奢りなので酒と肉をどんどん追加注文する。肉を焼けば細かいことはだんだん気にならなくなり、バクバクと貪った。その食欲に若干慄く甲斐は笑顔を引きつらせながら言う。

「そうやねぇ……絵莉ちゃんなら、警察官とかいいっちゃない? 収入も安定するしな。正義感もあるし、勘もいいし」

「……なるほど」

 彼の助言に絵莉はすんなり納得した。

「確かに、もともと目指してたのって警察官だったな……そっか……そうすればいいのか」

「いいやん、そうしよ! やったね、就職決まったも同然だ!」

「いや、まだ何も始まってないし……まぁでも、目指してみよっかな……今更だけど」

「夢を追っかけるのに今更も何もあるかいな。まだ若いんやけん、突っ走ってけ!」

 そう言って豪快に笑い飛ばす甲斐。彼もまた酔いが回ってるような陽気さだが、酒は一滴も飲んでいない。

 絵莉は呆れて笑うと、残っていたビールを飲み干した。ひたすらカルビを焼き、口に運ぶ。時折ビールを飲み、たらふく食べていく。

「おいおい、それ、まだ焼けとらんぞ」

「えー? いいんですよ、別にこれくらいレアでも平気平気」

「腹壊しても知らんけんな」

「すみませーん、ユッケくださーい!」

「まだ食う気!?」

 絵莉の食欲に慄く甲斐はキムチをつまみながら思い出したように言った。

「そういや、生肉で思い出したけど。風見先生、改めてあの島のことを調べに行くってさ」

「生肉で思い出さないでくださいよ。不謹慎すぎる」

 すぐさま絵莉がたしなめると、甲斐は苦笑した。

「そうやな。すまん」

「でももうあの島には何もないでしょ? メギも死んだわけだし、今さら何を調べるっていうんですか?」

 絵莉の疑問に、甲斐は「うーん」と唸った。

「まぁ、やり残したことがいっぱいあるんやろ。結局、今回のことも前回の洋江脱出事件のことも、自分が中途半端に関わったせいだと悔やんどってな……ともかく、引き続き調査報告はするって言いよったよ」

 おそらくそれが自分にできる弔いなのだと風見は思っているのだろうか。

 絵莉は「ふうん」と返し、それからはとくに話題を広げようとはしなかった。

「あ、そういえばさー、ケイコさんが店畳んだよ」

 甲斐は声のトーンをわずかに落とした。彼はあの一件以来、彼女の店には足を運んでいなかった。

「へぇ」

 絵莉は気のない返事をする。

「うん。で、行方不明。どっかでくたばったか、天罰が下ったのかもしれんね」

「ふーん……」

 しかし、そんなことをしても死んだ人間たちは二度と戻ってこない。

「椎羅くん、これで本当に終わったよ」

 そう呟いて、肉を焼く。ほぼ炙っただけの赤身を口に運んだ。口の中で溶ける脂が最高に美味い。

 それからは、いい加減にしろと言われるまで食べ続け、彼の財布をほぼ空にさせて帰路についた。

 家に帰れば、それまで高揚していた気分は一気に冷める。一人の時間は慣れたはずなのに、たまに心の内側がざわざわと落ち着かなくなることがあった。心の疾患はどれだけ長い年月が経っても消えることはない。そのせいだと思っていたが、先ほどの会話を思い出して引っかかりを覚える。

 いつの間に、食の好みが変わったのだろうか。

 絵莉は姿見の前に立った。Tシャツの裾をめくり、腹部の傷跡を見つめる。

 あの時、出血多量で死にかけていたのだが、輸血のおかげでなんとか一命を取り留めたのだ。

 生死の境を彷徨っていた時に、誰の血液を輸血したのかなど気に留めることはなかったが──

「いや、まさかね」

 絵莉は自嘲気味に笑い、シャワーを浴びようと風呂場へ向かった。


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亡郷の血 小谷杏子 @kyoko

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