第29話 思いやりの絶対値

一日目


「あの、今更なんですが、チャレンジするにあたって、私をこのように拘束する必要性があったんでしょうか」


 暇そうなひろしさんが話しかけてきた。


 テレビをつけようかと提案するが、彼は大震災以降、節電を心掛けているために我慢すると言う。


「俺も二十四時間完璧にあなたを見張れる訳ではないので、必要です。たとえば、俺がトイレに行ってる瞬間に、あなたが台所で水を飲むかもしれない」


 それは半分本当で、半分嘘だった。


 ひろしさんを拘束することが必要な時間帯はあるが、四六時中そうするのは、彼の心身の消耗を激しくして、少しでも早く依頼を達成するためである。


「そんなことはしません」


 ひろしさんは不満そうな表情で呟く。


「ええ。ですが、可能性をゼロにするのが俺の役目です」


「はあ……あの、トイレとかは?」


「六時間に一度、トイレに行く時間と、エコノミー症候群を防ぐための軽い屈伸運動をする時間を設けますから、安心してください」




二日目


「すみません」


「はい」


 俺は瞑目から覚めて、ひろしさんの方を見る。


「いえ、呼んでみただけです。生きているか不安になってしまって。あの、まさかですけど、私を見殺しにはしませんよね。ドナーとして私が必要だから、能面さんはこちらにいらした訳ですし」


 ひろしさんはすがるような瞳を俺に向けてくる。


「確かに、俺はあなたに死なれると、貴重なドナー候補がいなくなるので困ります」


「で、ですよね」


 ひろしさんがほっと胸を撫で下ろす。


「ですが、あなたに死なれるよりも困ることがあるんです」


 すかさず補足する。


「え?」


「この商売をやっていて一番困ることは、『なめられる』ことです。一回、なめられるとそれ以降の仕事全てに響きます。ですから、中途半端に依頼を失敗するくらいなら、あなたが死ぬことを選びます」


 俺はにっこりと笑って言った。


 もちろん、本当は見殺しにするつもりは毛頭ないが、『本気で殺れる』ように見せられなければこの仕事は務まらない。


「そ、そうですか……」


 ひろしさんが顔を曇らせて押し黙る。


「安心してください。幸い、あなたは他に身寄りはいらっしゃらいようですね? 近所関係も希薄らしい。いざという時の処理も簡単ですよ」



三日目


 うめき声のような不規則な発言以外に特に反応はない。




四日目


「うおおおおおおお! はなせえええええええ!」


 トイレの水を飲もうとしたひろしさんを羽交い絞めで拘束した。


「約束です。我慢してください。チャレンジ失敗で良いなら宣言を」


「ああああああああああああ!」


 ひろしさんが錯乱状態で壁に何度も頭をぶつける。


 茜が不思議そうな顔で俺たちのやりとりを見ていた。



五日目

 

 その時は突然やってきた。


 朝起きた時は快晴だったのに、昼過ぎにスコールのような激しい雨が振り始める。


「こ、降参します」


 窓の外を滴る水分を夢想するように、無意味に舌を出し入れしていたひろしさん。


 その呟きは、蚊の鳴くように小さかった。


「いいんですね? チャレンジ失敗となりますが」


「いいから! 水を! 水を寄越せ!」


 俺は拘束を解き、ひろしさんに、空きの二リットルペットボトルに詰めた水――塩と砂糖を適切な配分で混ぜた経口補水液を手渡す。


 ひろしさんは貪るようにそれを一気に飲み干した。


 しばらく休ませてから、胃をびっくりさせないようにおかゆを喰らわせる。


 それを食べ終えたひろしさんは、泥の様に昏睡する。


 十一時間ほどそのまま眠りこけてから目覚めた彼は、ようやく人心地ついたようだった。


「そうか。私の同情は、自己犠牲を気取っても、結局、余裕からくる傲慢に過ぎなかったんだ」


 納得した様に何度も頷きながら、独り言のように言う。


「報酬は払えましたでしょうか?」


 俺は問う。


「はい。ありがとうございました。ドナーをお引き受けします」


 どこかふっきれたような笑顔で、ひろしさんは頷いた。


「ありがとうございます。勝手に家の物を使ってしまったので、その分の代金は置いておきます。もし足りなければ、仲介者の方に請求書を送ってください」


 俺はテーブルに五千円札を置いて告げる。


「い、いえ、そんな。大丈夫ですよ」


「これも、けじめですから」


「は、はい」


「茜、行くよ」


「もう終わり?」


 パンダのぬいぐるみを宙に放り投げてキャッチする遊びをしていた茜が、何も理解してなさそうなぼんやりとした顔で首を傾げる。


「ああ」


「あの……」


「何か?」


「いえ。頑張ってください。そちらのお嬢さんのために。これは同情ではありません」


 ひろしさんが痩せこけた――でも、凛々しい顔で言う。


 そのアメジストは出会った時とは少し違う、澄んだ紫色をしていた。


「ありがとうございます」


 彼の心からの善意に、俺も心からの一礼を返す。


 タクシーを呼んでひろしさんの家を後にした。


 車窓から見える断崖と大海は、相変わらず美しかった。


 だけど、茜はついに海に対してすらも、「きれい」という言葉を失った。

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