第28話 回想 約束の日

 約束をしたのは、高2の夏。


 ちょうど、こんな風に蒸し暑い日だった。


 学校を休んで、三日間に渡る『仕事』を終えた俺は、当時の自宅にぐったりとして帰ってきた。


 2階建て。築五十四年の木造アパート。鎌倉駅から徒歩20分、家賃が安いこと意外は何の取り柄もない所だった。


「……どうやって、この住所を知った?」


 錆びた階段に腰かける制服姿の茜に、俺はそう声をかける。


「ほら、純が彼女を放っておいて学校を休むから、プリントを持ってきてあげたんだよ」


 茜はそう言って、白いビニール袋を誇らしげに掲げた。


「学校には俺が休んでも、一々プリントは持ってくるなって話はつけてあるはずだが……。大体、今は教師も個人情報保護でそう簡単に住所をバラさないだろ」


 俺は仕事でたまにどうしても学校を休まなければいけないことがあり、その度にあれこれ詮索されるのは面倒なので、あらかじめ学校に相談はしてあった。


 もちろん、公の口実は、『仕事』ではなく、『病気がち』とかもっともらしい理由にしてあるが。


「自主的に私が純に届けたいから先生にお願いしたんだよ。もちろん、ちゃんと保護者さんにも許可は取った」


「譲二が許可を出したのか? 何考えてんだあいつ」


 俺は驚いて目を見開く。


 末端とはいえ、一応、闇の仕事に手を染めている俺にとって、他人に住所を知られて良い事などは一つもない。譲二もそのことはよくわかっているはずなのだが。


「そこは……私のコミュ力?」


「なんで疑問形。まあいいや。プリントありがとな。駅までは送ってく」


 俺は茜からプリントを受取ろうとビニール袋に手を伸ばす。


「……」


 茜が身体を硬くして、受け渡しを拒んだ。


 唇を尖らせ、まぶたを頻繁に瞬かせながら、俺にすねたような上目遣いを送ってくる。


「なんだよ」


「おかしくない? 私、彼女だよね? 彼女が彼氏の住所も知らないって、変だよ」


「別に今までそれでなにも支障なかっただろうが」


 部活も一緒だし、平日は登下校時に鎌倉周辺を散策するだけで十分だ。


 休日だって、幸い神奈川県はデートスポットには困らない地域である。


 二人の時間を過ごす場所の選択肢は、いくらでもあった。


「でも、心配したんだよ?」


「心配って何がだ?」


「……浮気してるかなって」


「思ってないよな?」


 茜のタマイシが紫色に輝いている。


 その感情が示すのは『心配』で合っているが、具体的な内容は違う。


 それくらいは、もう茜のことを知っている。


「思ってない。でも、私に何か隠してるとは思っている」


「恋人だからって、100%全てを開示しなきゃだめか? お互い知られたくないことの一つや二つ、あるだろ? 例えば――そうだな。腋毛の処理頻度とかさ」


 俺はそうおどけてみせたが、茜は険しい表情をしたままだった。


「そんなこと、純が知りたいなら教えてあげるよ。だから、代わりに教えてよ。純がたまにそういう怪我をして帰ってくる訳をさ」


「ああ、これ? バイトでちょっとな」


 俺はそう言われて初めて、包帯の巻かれた左腕のことを思い出した。


 『魂狩屋』の回収対象の中には、精神的に不安定な者も多い。公の施設にはドナー提供を断られるようなタイプも稀ではなく、そういうのを相手にした際に『ハズレ』を引くと、この程度の傷を負うことはままあった。


 だが、そうか。


 彼女という生き物は、この程度の傷でも心配になるものなのか。


 別に、運動部に入ってる奴ならありがちな程度の怪我なのに。


「バイトって、どんなバイト? 傷を負っている位置が毎回違うんだけど、多分普通のバイトじゃないよね。そんなに危ないことしてるの?」


「どうでもいいだろ。めったなことじゃ死にはしないさ」


 俺は肩をすくめた。


「どうでもよくないよ! どうして、純自身のことなのに、そんな投げやりに言うの!?」


 茜の怒声が安普請の木造アパートに響く。


「ああ、もう! とりあえず、近所迷惑だから部屋の中に入れ」


 俺はそう言って、茜の手を引っ張って立ち上がらせる。


「えっ? 入っていいの? あっ、でも、だめ、今日はとことん話をするからね」


 茜は頬を緩めたり、戒めるように表情筋を引き締めたり、めまぐるしく顔を七変化しながらついてくる。


「わかったから。早くしろ」


 きしんだ音をたてて開く、錆び気味の鉄の扉。


「うん! ……へえー。これが純の部屋かあ」


 1Kの室内は、しげしげと眺めるまでもなく全貌が丸見えなシンプルな造りだ。


 俺はごちゃごちゃした所が嫌いなので、家電も最低限しかない。


 窓を開け放ち、扇風機をつけてこもった熱気を追い出す。


「麦茶しかねえけど、飲めよ」


 俺は冷蔵庫から麦茶を取り出す。


 それを、二つの100均のグラスに注いで、ちゃぶ台風のテーブルの上に置いた。


「ありがと……で、話の続き」


 茜は執拗だった。


 ちょびっとだけグラスに口をつけ、すぐに追撃してきた。


「悪いがそれはマジで言えない。茜にも迷惑がかかる可能性があるから」


 俺も真摯に答える。


 この点に関しては俺も頑なにならざるを得ない。


「……わかった。じゃあもう、具体的な内容は訊かないけど、なんで純はそんな危ないバイトをしてるの? 例えば、駅前のマックとか、ケンタとか、普通のやつじゃダメなの?」


「そりゃ、儲かる額が違うからだよ。俺は金が欲しい」


「何でお金が必要なの? 電話で話しただけだけど、保護者の――譲二さん? 悪い人じゃなさそうだったよ。学費とか出してくれそうだったけど」


「早く自立したいんだ。将来、どんな進路に進むにしろ、金はあるに越したことはないだろ?」


 茜の言う通り、譲二に頼めば、出世払いということで進学の費用くらいは貸してくれるだろう。しかし、俺としてはなるべく甘えたくなかった。


 裏の仕事をする人間にとって、『借り』を作るというのはある種の御法度である。


 『借り』を作ったならば、必ず返す時がくる。そして、往々にしてその代償は高くつく。


「じゃあ、私も協力するよ! 私がバイトするから、その分、純は仕事を減らして」


「俺はヒモかよ。大体、悪いがファーストフードでバイトしたくらいじゃ、俺の月収の10分の一も稼げないと思う」


「じゃあ、パンツでも売るよ。こう見えて、見てくれだけはいいから、写真つきなら高く売れるかな? それとも、いっそのこと、身体でも売れば純くらい稼げる?」


「冗談でもそういうことは言うな!」


 今度は俺がキレる番だった。


「……同じだよ」


「あ?」


「今、純が感じた苦しさと、私が今抱いてる苦しさは」


「その論法はいくらなんでも卑怯だろ。愛情を人質にとるなよ」


「でも、いやなんだもん。苦しいだもん。純が休んでいる時の私の気持ちわかる? 大丈夫かな。無事に帰ってくるかなって、いつも考えちゃって、何にも集中できなくて、頭がぼーっとしてさ。大体、そういう時って、純はスマホにも出ないし」


 茜が子どもみたいにダダをこね、恨みがましい目で俺を見る。


「それは……俺が悪かった」


「じゃあやめてくれる?」


「やめるデメリットに見合うほどのメリットが、俺にあるか?」


「あるよ! 私が喜ぶよ。すっごい喜ぶ」


「私が喜んだら純も嬉しいでしょ。純が喜んだら私も嬉しいんだから」


 参った。


 理屈じゃなく、感情の問題にされると、俺には勝ち目がない。


「……わかったよ。やめてやる」


 実のところ、もう残りの高校生活と、大学に進学するくらいの最低限の学費は稼いでいる。


 ちょっと心もとないが、それこそ、『普通のバイト』でもすれば、私立大学でも通えるくらいの金額だ。


 それでも、『仕事』を続けていたのは、結局惰性でしかない。


 金稼ぎに際限はないのだ。


 あればあるほど、もっと欲しくなる。


 でも、なければなかったで、なんとかやっていけるものなのかもしれない。

 心のどこかではそれを理解していた。


 体力的にも精神的にも、若い内にしか務まらない仕事だ。

 いつかは辞めなくてはいけなくて、でも、自分では踏ん切りがつけられなかった。


 茜は本質的に、その辺の俺の心情を見抜いていたのかもしれない。


「本当? 約束だよ? 絶対だからね?」


 茜が何度もそう念押ししてくる。


「ああ。だけどもう二度と奢ってやらないからな」


 俺は頷きながら、水分の結露した麦茶を一気に飲み干した。


「元々、私は割り勘がいいって言ってたじゃん。それに、今度からはお家デートもできるし、色々と安く済むよ」


「俺の家だぞ。勝手に決めるなよ」


「だめ? じゃあ、私の家に来てもいいよ。お母さんが色々と純を質問攻めにすると思うけど」


「それはアレだが、まあ、でも、一回くらいは挨拶をしておかないとな」


「えへへー」


 そう言うと、茜はなぜか満面の笑みになった。


 昼間のオーロラが、最大級の輝きを放つ。


「なんだよ」


「純!」


 怪訝そうな顔する俺は、茜に押し倒される。


 その拍子にシャツの裾がはだけ、俺の腹部が剥き出しになった。


「おい、普通、逆じゃないか?」


 俺は茜を見上げながら呟く。


 彼女の項から垂れた汗が、俺の頬伝った。


 胸のオパールが、ピンク色に染まる。


 その淡さは、由比ヶ浜で拾った桜貝に酷似している。


「……好きだよ」


 茜が俺の腹の傷跡を撫でる。


 慈しむような、健闘を称えるような、神聖で、温もりに満ちた手つきで。


 その突然の表彰式は一度では終わらなかった。


 胸や、頬や、背中にまで、俺の傷全てに余すところなく彼女の祝福が降り注ぐ。


「ああ。俺も好きだ」


 俺とは対照的に傷一つない、その滑らかな頬を撫でる。


 その日、俺は初めて茜と結ばれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る