6-5

誰もいない家に帰り着き、栞は自分の部屋に荷物を置いてから台所に立つ。自分と両親の三人分の夕飯を作ることは、夏休みが明けてから続けている。


今日のメニューは、鶏モモ肉の香草焼きとオニオンスープ、トマトやキュウリ、ゆで卵をトッピングしたサラダを作る。


このメニューは以前読んだ物語に出てきたものだ。父親と高校生の娘の物語で、母親は娘が中学生に上がる前に病気で亡くなっていた。


娘の父親は仕事と家庭を傍から見ても両立していた。極力早く帰り、夕飯は二人で食べる時間を作り、部活動の父母会にも積極的で、娘は父親を尊敬し、仲の良い親子だった。


しかしある時父親は過労で倒れ、問題ないと言い張り、無理をする父親と娘は衝突してしまう。


仲直りの方法として、娘は父親と一緒に料理をすることにした。部活動が休みの日、台所に立つ父親にお願いして、初めて一緒に作った料理が、今日栞が作るメニューだ。


料理をすることで、話す時間も増え、父親の苦労を知り、同じ作業をすることで心を通わせていく。


この香草焼きは、数種類のスパイスやハーブを使うが、分量は決まっておらず、その日の気分で変えることで毎回違う仕上がりになる。


丁寧に本の最後にレシピが記載されており、その香草の部分は『お好み』と書かれている。


物語の最後、娘が部活動の引退を迎え、その日の夕飯は初めて一緒に作ったメニューを、二人で作ることになる。


食卓を囲みながら、娘が父親に今日までのお礼を言う場面がある。その時に父親は娘に『こちらこそ』という言葉を贈る。栞はこのシーンがとても印象的だった。


娘は父親が自分のために働き、家事をし、部活動を応援し、育ててくれたことへの感謝を伝える。父親はそれに対して、一番近くで成長を見守り、応援し、その姿を見せてくれたことに、こちらこそありがとうという感謝の言葉を使うのだ。


栞の家族は、この親子のように心を通わせ、お互い感謝し合うような関係にはなれなかった。しかし、向き合うことに遅いということはないと堀北は教えてくれた。


今日、この物語のメニューを作っているのは、両親と向き合いたいという気持ちを、心のどこかで思っているからかもしれない。


いくつかの玉ねぎをみじん切りにして鍋で炒める。綺麗なあめ色になり、甘い香りがしてきたところで水を加えてコンソメで味付けをし、更に煮込んでいく。


その間にレタスをちぎり、作っておいたゆで卵とトマト、キュウリをカットする。


鶏モモ肉に塩と砂糖で下味をつけて、少しずつ揃えた数種類のスパイスとハーブを目分量で両側にまぶす。


フライパンにバターを溶かし、肉を焼いていく。料理を初めた数ヵ月前はよく焦がしたり、塩を入れすぎて食べられなくなったりしていたが、最近は大分慣れてきた。


三人分の皿を取りだし、サラダを盛り付け、焼けた肉を食べやすい大きさに切り分けて盛り付ける。お盆に出来上がった料理の皿と、茶碗、スープ用の器、箸とスプーンをのせてから、二人分だけラップをする。


自分の分のオニオンスープよそり、ちょうど炊き上がったご飯も合わせて、一人きりの食卓で手を合わせる。


自分で作った料理は味がわかっているから美味しいに決まっているが、予想された美味しさに特別感情は揺さぶられない。


両親と話をしてから、結局ほとんど会話らしい会話はしていないし、未だに両親は栞の料理に手をつけたことはない。


無駄に思えることだが、自分から動かなければ変わることはない。そう思わせてくれて、栞を変えてくれたのは堀北だった。


今の栞は、堀北と出会う前からすれば、かなり人間らしくなったと自分でも思う。自分以外の人について考え、悩み、人前で涙を流すような人間ではなかった。


現実の世界に連れ出された栞は、今ようやく人付き合いというものを学んでいる最中なのだ。


堀北に次に連絡するときは、どのように話を切り出すかを考えながら食事をしていると、気づいたら食器の中は空になっていた。


使った食器を洗い、部屋に戻ると、牧原からメッセージが届いていた。内容は時間があったら少し話さないかというものだった。


栞が了承の旨を伝えると、すぐに牧原から着信が入った。


「もしもし? 今大丈夫?」


「うん。牧原は部活終わったの?」


「そう。今最寄り駅から歩いて家に帰ってるところ」


牧原の歩く速度に合わせて息づかいが聞こえる。


「どうしたの?」


少し間ぎ空いたため、一瞬電波が悪いかと思ってしまったが、牧原は口を開いた。


「その……余計なお世話というか、堀北から聞いたんだ。花木さんを泣かせちゃったって。悪いことしたって」


「そのことは……私が悪かったから、堀北は何も悪くないよ」


「詳しいことは聞かなかったけど、相当落ち込んでたから。花木さんは大丈夫?」


「私はもう大丈夫。堀北に謝って、もう一度ちゃんと話そうと思ってる」


「そっか。実はさ、今日電話したのは、花木さんに言わなきゃいけないと思ったことがあるからなんだ」


「言わなきゃいけないこと?」


栞はその内容を考えたが、これといって何も思い浮かばなかった。しかし、牧原の続く言葉を聞いて栞は言葉を失った。


「堀北、手術が必要らしいんだ」


手術はいつなのか、手術とはどういうものなのか、手術をしないと堀北はどうなってしまうのか、訊きたいことがたくさんありすぎて何から訊けば良いのかわからなくなっていた。


「骨髄移植って聞いたことある? それが必要、というかした方が良いらしくて、今ドナーを探してるらしいんだ」


「骨髄移植……」


骨髄移植は栞も聞いたことがある。他の人から骨髄と呼ばれるものを分けてもらう手術だが、誰からでももらえるわけではなく、自分の体に合ったものを持っている人を探さなくてはならないというものだったと記憶している。


「このこと、花木さんには黙っててって言われてたんだ」


「そうなの?」


「それは、堀北に聞かないとわからない。俺も言ってもいいんじゃないかとは言ったんだけど、言うとしたら自分から言うって口止めされてたんだ。でも、二人がすれ違ってるのが見てられなくて」


堀北は牧原には手術のことは伝えて、栞には黙っていた。その理由をいくら考えても、牧原の言うように本人にしかわからないことだ。


「俺も手術が必要なほど悪化してるとは知らなくて、聞いたときは驚いたよ。手術が成功するのかとか、それで病気が治るのかとか、堀北が……死ぬ可能性はあるのかとか色々考えた。でも、どの場合でもこのことは花木さんに伝えるべきだと思った。時間は有限だから、今を大切にしないと」


牧原も最悪の事態を考えているのか、言葉が尻すぼみになっていた。


「教えてくれてありがとう。牧原も言いにくかったのに」


「俺は二人を気にしてるようで、自分のためにやったんだよ。二人がお互いを大事に思ってるのは、見ててわかるから」


牧原の電話を終え、栞は堀北に『今度話がしたいので、時間がある日を教えてください』とメッセージを送った。


メッセージの受信が来ないかと、ただ待ち続けているうちに寝てしまったようで、気がつくと朝になっていた。


堀北から連絡はなく、栞は朝ごはんを食べるために台所へ向かうと、違和感を感じた。その正体は洗ってある皿が綺麗に片付けられ、机の上にいつも置かれている二人分の食事がなくなっていた。コンロに置かれていた鍋も綺麗に洗われ、ゴミ箱を確認しても食べ残しは捨てられていなかった。


机の上に一枚の紙が置かれていることに気づき、手に取ってみると、『ごちそうさま』と紙の中央と右下の隅に二人分の文字が書かれていた。


栞は胸がぎゅっと締め付けられるような感覚を味わい、少し苦しかったが嫌ではなかった。


一瞬悩んでから、栞はそれぞれの近くに『お粗末様でした』と書いて紙をもとの場所に戻した。


久しぶりの両親との会話は、紙を通じた筆談だったとはいえ、初めて二人と心を通わすことができた気がした。


初めての感覚に浸っていると、携帯が振動し、堀北から今日の夜に電話をするという内容のメッセージが届いた。

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