6-4

栞の生活は堀北と出会う前の、物語を読むだけの生活に戻りつつあった。信じていたものに裏切られた人のような、愛する我が子を失った親のような、生きる目的、希望を失ったようや感覚に陥っていた。栞の目に写る世界は、堀北のいない無彩色のままだ。


周りの目から見ても違いがわかったのだろう。話しかけてくれる牧原や木下には何かあったのかと聞かれた。栞は何も言えなかった。


牧原の気持ちを理解したい。しかしそれは栞にはとても困難なことだった。物語の中でしか人の感情を知ってこなかった、いわば机上の理論だけで実践が伴っていない。


物語は登場人物の心情を事細かに描写してくれるが、現実ではそれを自分で見て、聞いて、感じ取らなければならない。


堀北がなぜ自分のことを自分勝手だと表現したのか。栞は何を言うべきだったのか。栞は答えを探すために、唯一家族でも友人でもない、学校の関係者でもない人に会いに行った。


『喫茶ドロシー』はいつも通り客はまばらで、老夫婦が一組と、20代くらいのカップルがどちらも仲睦まじげにしていた。


「あら、栞ちゃんいらっしゃい」


「こんにちは」


顔見知りの女店主、カレンがいつものように明るい挨拶をくれる。カレンは美しい女性だが、それとは別に不思議な雰囲気を持つ女性で、魔女のいる喫茶店、と噂されている。


栞はカウンターの席に座り、ホットのカフェラテを注文した。程なくして運ばれてきたカップには、泡で綺麗なハートが描かれていた。


「すごく上手くできた」


誰もが見とれるような容姿の彼女が笑うと、愛嬌が合わさりより一層魅力的になる。


「今日はどうしたのかな?」


カレンは何でもお見通し、といった様子で栞の前に立った。


「友人とケンカ、というか、口論になってしまったんですけど、どうしたらよかったのかわからなくて」


「ケンカかぁ……彼氏くんと?」


「彼氏じゃないです……でも、私の大切な人です」


栞が素直に答えたことが少々以外だったのか、カレンは笑顔をスッと消して、人が大事な話を聞く時の顔つきになった。


「実はその友人が入院してるんです。病気で、夏休み明けから学校に来れてないくらい、重い病気なんです」


栞はただの客がこんな話をしてもいいものかと、カレンの様子を伺ったが、カレンは変わらず真剣な表情で話を聞いてくれていた。


「入院する前から病気のことは知ってて、彼は重い病気にも関わらず、前向きで、明るくて、思い遣りに溢れてて、今を楽しく生きることを大事にしていました。病気の詳しいことは聞いてなくて、治らない病気じゃないそうなんですけど、今考えると、自分の命の短さを……察してるんじゃないかって……」


声が震え、目の前が滲み、栞は俯いて涙を堪えた。するとカレンは、カウンターから出てきて栞の隣に座り、背中をさすってくれた。


「私は、彼に助けてもらったのに、それなのに、私は彼の気持ちよりも、自分の気持ちを優先して……彼を否定してしまいました」


ぽろぽろと溢れる涙を抑えることはできず、肩は震え、体は小刻みに痙攣する。


「いちばん、つらいのは……ほ、ほりきた、なのに……」


栞はカレンの腕の中に優しく包み込まれた。カレンに包まれると、不思議な感覚に引き込まれた。


「自慢じゃないんだけど、私のハグって落ち着くらしいの」


カレンの言う通り、荒々しく揺れ動いていた感情の波が抑えられ、体から力が抜けていった。


ようやく涙が引っ込んだ頃には、注文したカフェラテは冷めきっていて、綺麗にできていた泡のハートは窪んでいた。


「お友達は、栞ちゃんがいて救われてると思うよ」


「私は彼に、なにもしてあげられてません」


「気持ちをぶつけてあげたじゃない」


「それは何か、彼のためになるんですか?」


「とっても大事なことよ」


カレンはカウンターの中に戻ると、新しくカフェラテを作り直してくれた。次に描かれていたのは、ハートの柄に少し手を加えた、二匹のアザラシが寄り添う絵だった。


「相手に気持ちをぶつけるって、すごくエネルギーを使うの。だからどうでもいい相手にはしないし、お互いが信頼し合ってないと相手の心には響かないものよ。ちょっと振り返ってみて」


カレンに言われた通り振り返ると、後ろの老夫婦が向かい合って険しい顔をしている。


「ああ見えて、あの二人はとっても仲良しなの」


大きな声ではないが、聞こうと思えば聞こえる声量で言い合いをしている。


「だから悪かったと言っているだろう」


「謝ればいいって問題じゃないでしょう?」


「なんか、揉めてますけど?」


「まあまあ見てて」


老夫婦の妻の方が大きく溜め息をついた。


「一ヶ月も前から立ててた予定なのにどうして忘れるのかしら? 私に一人で旅行に行ってこいって言うの?」


「だから、友達を誰か誘ってくれってお願いしてるだろう?」


「あなたと行くから意味があるんじゃない」


カレンの顔を見ると、くすくすと笑っていた。


「かわいいでしょ? あの二人」


「わかった! 行くよ。悪いのは私だ。だから、機嫌を直しておくれよ」


夫の方が折れたようで、妻はつんとしながらまだ小言を言っている。


「あっちの二人も見て」


店の奥に目をやると、若い男女が座っていて、女性の方が困った顔をしている。


「ホントにただの友達なんだって」


男性はふてくされた様子で、黙ってアイスコーヒーを啜っている。


「これまで二人で色んなことを話して、一緒の時間を過ごしてきて、それでも信じてくれないの?」


「……信じる。もうなんとも思ってない」


男性は手を組んで、視線を机に落としている。


「俺は、自分に怒ってるんだ。君は俺にとって特別だ。君だけは信じなきゃいけないのに、少しでも疑ってしまった自分が、許せないんだ」


女性は柔らかい笑顔を作り、男性の手をそっと包んだ。


「そんなに自分を責めないで。信じてるからこそ、裏切られたり、粗末に扱われたりするのが怖くて、疑ってしまう気持ちはわかる。人は弱い生き物だもん。私も疑われるようなことしてごめん」


仲直りした様子の男女から目を離し、前に向き直る。


「こんなこと言ったら重いとか、面倒だと思われるとか、そんなことを気にする必要はないの。相手が大切だったら、その気持ちは伝わる。相手もそれを言われて不快にはならないものだよ」


「そういうものなのでしょうか」


「そういうものよ。だから栞ちゃんもその友達が大切なら、ここで引いたらダメ。相手もケンカになって、悪いとは思ってるはずだから」


「どうやって仲直りすればいいでしょうか?」


「わからないことはわからない、ってちゃんと言うのも大切ね。どうしてそう思うのか、どうしてその言葉を使うのかってことを、ちゃんと訊いてみるの」


この前の電話では、電話越しの堀北が自分のことを卑下し、悲観的になる理由を訊く前に、栞は感情的になってしまった。


「察するとか、言わなくても伝わるとか、そういうものが関係性の深さを測る指標のように言われることがあるでしょ? もちろんそれは否定しないけど、言葉にするのも大切なことよ。言葉にして相手に伝わるのは、伝えたいことの0以上、100以下なの。全く伝わらないこともあるし、全部伝わるなんて滅多にない。だから、私たちは何度も相手と話をするの」


栞と堀北は、まだ出会ってから半年ほどしか経過していない。お互いを理解するには短すぎる期間だ。


「もう一度、彼と話をしてみます」


「頑張ってね」


カレンに礼を言って店を後にした。栞は堀北伝えたいこと、自分の気持ちを整理しながら、自宅までの道を歩いて帰った。

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