6-6

何をしても集中できないとわかってから、栞は気を紛らわすことを放棄して、ただ堀北からの連絡を待った。


授業も、放課後の図書室で本を呼んでいても、帰宅後に夕飯を作り、それを食べている時も、栞は一日中堀北のことを考えていた。


どんな話をされたとしても、栞はそれを受け入れようと思った。人の価値観や、考え方をを否定することは間違っている。仮にそれが世間に認められないことや、倫理的な観点から明らかに間違っていたとしても、その人がその思考に至った経緯を知り、その上で他の価値観を提供する事だけが許されることだと思う。


価値観を選択することを強制してはならない。人が自分の人生を選択することは、その人が持つ権利と言っても良い。


それらのことを理解した上で、人と関わり、気持ちを伝えて、尊重し合える者同士が、関係性を紡いでいくことができる。


色んな思考が浮かんでは消え、その度に自分が堀北に何を伝えたいのかがわからなくなる。栞は結局のところ、堀北と相容れずにこのまま疎遠になってしまうことを恐れているのだ。


仕方がないと割りきれない、諦めきれない、栞にとって堀北はそういう存在になっていた。


窓から空を眺めると、星がちらほらと瞬いている。都会の夜空は明るい。本来なら地球に届いているはずの光も、人工の灯りに掻き消されて見えなくなっている。


堀北が入院している病院はここよりも自然が多く、もっとたくさんの星が夜空を埋め尽くしているだろう。


それはまるで、栞の目に写る世界と、堀北の目に写る世界のようだと思った。栞を通した世界は、まだ一つ一つが大きくてわかりやすいものしか見えてこない。しかし、栞よりも何倍、何十倍も考えて、様々な経験をしてきた堀北を通した世界は、きっと小さくても大切なものをしっかりと見つけることができるだろう。


時間にしたらさほど待っていなかったかもしれないが、携帯が振動したときは安心と緊張を感じた。


「こんばんわ」


「こんばんわ。急に電話したいなんて言ってごめんね」


久し振りに堀北の声を聞いたが、それだけで心が満たされるような感覚がした。


「俺は全然大丈夫」


「この前のこと、謝りたくて。感情的になって、一方的に気持ちを押し付けてごめんなさい」


「ううん。こっちこそ言葉に棘があったよ。ごめん」


一人の空間で頭を下げ、堀北も頭を下げているのだろうかと姿を想像した。


「前と同じこと言うかもしれないけど、堀北の本当の心の部分が知りたい。それを言うことで、私たちが根っこのところで合わないってわかったとしても、私はそれでも、堀北と関わりたいって思う」


「幻滅するかもしれないよ?」


「それでもいい」


「俺、あんまり人に弱みを見せたことがないというか、自分の弱さに最近気づいたばかりなんだ」


「私は笑わない」


すると堀北は乾いた笑いを洩らし、敵わないなぁと呟いた。


「惚れた弱みってやつかな?」


「え?」


「なんでもない。それじゃあ、話すよ」


栞は姿勢を正して耳に神経を集中させた。堀北の言葉を、声から伝わる感情を聞き逃すまいとした。


「病気が発覚してから、こうして再発するまで、俺は自分がいつ死んでもおかしくないって身を持って思い知ったんだ。だから、今を精一杯生きようと思った。時間を無駄にしたくない、楽しみたい、色んな人たちに……俺という存在を覚えていてほしいって」


いつこの世から消えてしまうかわからない恐怖は、栞には理解したくてもできないのだろう。人が死ぬ時は、生きている人の記憶から消えたときだという話を聞いたことがある。


「でも、全然後ろ向きじゃなかったんだ。この際全力で人生楽しんでやろうって、死ぬことに対して、そこまで取り憑かれてはいなかったと思う。花木さんに会うまでは」


「私?」


栞は自分の名前が出てきたことに驚いた。


「一度話したことがあるけど、人の人生は物語みたいで、出会った人が物語の中で生き続けるって。俺も、誰かの物語に登場して、その人の物語の中で生きられればいいって思ってた。だけど……」


堀北は言葉に詰まり、この先に続く言葉が堀北の心からの叫びなのだと栞は悟った。


「死ぬのが……怖くなったんだ。大切な人たちの物語には俺がいるかもしれない。でも、俺の物語は? 俺が死んだらそこで終わって、その先には何がある? 俺はもう誰とも出会えないし、大切な人たちがいない世界で、俺はどうなる? そう考えて、一番俺が恐れていたのは、花木さん、君のいない世界が、俺にはどうしようもなく怖いんだ」


いつも前向きで、明るく、たまに変なことを言ったと思えば、真剣な横顔を見せる時もある。そんな堀北も、栞や牧原と何も変わらない高校生なのだ。そんな当たり前のことを、栞は意識から遠ざけていた。堀北はすごい、特別で、尊敬できる人なのだと、勝手に神格化して、それを彼に押し付けた。栞は罪悪感と、彼のためにしてあげられることが何もない自分の無力さに涙が込み上げてきた。しかし、自分が泣くのはおかしいと必死にそれをこらえた。


「手術の話、牧原から聞いた?」


「うん」


「ドナーを見つけるのって大変らしくて、俺は今それをひたすら待ってる。ドナーが見つかるのが先か、俺の命が力尽きるのが先か。しばらく花木さんに会ってないけど、きっと別人くらい見た目は変わっちゃってるよ。病棟も変わって、面会もほとんどできないんだ」


「……うん、うん」


栞は泣いていることを隠せなくなっていた。この涙の理由は、堀北がかわいそうだから、堀北の病気が悪化しているから、淡々と自分の状態を語る彼の心が壊れかけているから、言葉にしようと思えば色々出てくるが、どれも正しいようで、どれも違う気がする。


「前にさ、花木さんの物語では俺は脇役じゃないって言ってくれたよね? それは今も変わってない?」


「変わってない。堀北は……堀北は私を救ってくれた人。私の今までの物語で、この先続く物語の中で、一番大切な人……失いたくない人」


電話越しで堀北は小さく笑った。


「自分で聞いたけど、ちょっと照れくさいね。俺もあの時と変わってないよ。花木さんは俺の物語のヒロイン。そのポジションは誰にも譲らせないよ」


少しの間、二人の息づかいだけが聞こえていた。栞は溢れる感情を言葉にするのは今なような気がした。


「私、私はずっと前から……堀北が……」


「花木さん」


栞の言葉を遮った堀北の声は、少し語気が強められていた。栞は言葉を飲み込んで、耳を傾けた。


「俺、絶対治すから。元気になって、退院したら、花木さんに伝えたいことと、見せたいものがあるんだ。だから、それまで待っててくれるって約束してもらえないかな」


「……わかった」


「ありがとう。ちゃんと言うから、それまで待ってて」


その時内容は言われなかったが、お互いがそれを共通認識として理解していた。


「ねぇ、本の話しようよ。この前読んだ物語の話していい?」


「聞かせて」


堀北が話しくれた物語は純愛の物語だった。あるカップルが突然、殺人の疑いをかけられ引き裂かれる物語だ。女性は周囲から懐疑の目で見られ、彼の家族でさえ、彼を見捨てて別れるようにと説得した。


しかし彼女は一度たりとも彼を疑うことはなかった。彼の名誉のため、二人の未来のため、彼女は冤罪を証明しようとする。


ネットで募った協力者たちの面々が個性的で、私生活はだらしないが推理は的確な探偵、いじめによって引きこもりになった中学生ハッカー、この色気の前に落ちない男はいないという三十路の女性バーテンダー。


彼女たちの操作によって明かされていく真実は、単なる殺人事件ではなく、数十年前から続く怨念につながり、大きな組織との対立に発展していく。


「話自体も面白いんだけど、俺が好きだったのは、主人公の女性が組織との対立の前に挫折しそうになった時に、中学生のハッカーがこう言うんだ。『僕がネット上で見つけられないものはない。でも、ネットにないものは見つけられない。それは感情なんだよ。数値が全てのネットでは、あなたの感情を測ることはできない。僕はいじめられて引きこもった。現実では誰も信用できない。でも今は、この仲間と、あなたと捕まってる彼の愛の強さだけは、信じられるんだ』。この中学生も、人の心に動かされた一人なんだなぁって。こういう人の言葉って、すごく素直に相手に響くと思うんだ。人の暗い部分を知ってるからこそ、明るいところに目を向けた言葉は信用できる」


「そうかもしれないね」


「花木さんの言葉も、俺にはすごく響くんだ。俺が感情をあらわにできるのは、花木さんだけかもしれない」


栞は堀北に思っていることを伝えて良かったと思った。相容れず、決別してしまうことを恐れていたが、それを乗り越えれば更に関係性は深まる。人間関係はこうして築いていくのだと、高校生にして学んでいた。


「俺、頑張るよ。俺のこの先の物語をまだまだ綴るために、その世界で、花木さんといられるように」


「うん。応援してる」


「それじゃあ、もう遅いし、おやすみ」


「おやすみ」


電話を切った後、栞はしばらくぼうっとしていた。小一時間ほどの電話だったがとても疲れ、しかし心は満たされていた。


これからも堀北と現実の世界を生きていきたい。栞はそのまま横になり、眠りについた。











季節は巡り、栞は高校生最後の学年を迎えていた。四月、キラキラした新入生たちを、淡いピンクの花と萌木色の若葉をつけた桜が出迎える。


三年生に上がる時にはクラス替えはないが、クラス表が掲示板に張り出される。一組に栞の名前がある。その二つ隣の三組のクラス表を見る。頭から知っている人の名前を探す。


牧原の名前がそこにはあった。その先を読み進めても、もう知っている人の名前はない。は行をもう一度辿る。しかし、いくら通りすぎても、牧原の名前に行き着いてしまう。


そのことが、もう堀北がこの世にいないことを現実として栞に突きつけていた。


堀北は病と闘いながら、ドナーを待ち続け、そしてドナーが見つかる前に、彼の物語は終わりを迎えた。

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