赤裸々な暴力

君は、舞台上において人を殺すことが許されると思うかい。芸術という名において役者を傷つけ、ときに命を奪い、ときに尊厳すら破壊することを「芸術」と呼べると思うかい。いや、いや、早急な答えは求めない。それどころかこれは人生すべてをかけて考えるべきことだ。


これは、とある外国の話。かつてそのシアターでは芸術という名の暴力が常に行使されていた。舞台上にナイフを持ち込み、役者同士が斬りつけあい、服も着ず、その場でセックスすらした。なぜならそれが、その物語において必要であり、それが芸術とされ、それが技法として確立されていたからだ。名画や石像をみれば明らかだが、多くが素肌を出しありのままの姿でいる。それが美しいとされ、それが神のつくったものとされ、それを再現することが演劇という芸術であるとされたからだ。


「有り得ない」という顔だね。確かに、そう、僕らには理解の及ばぬ範疇のものだ。しかし、僕らに彼らを批判することはできない。なぜなら僕らは正しくないからだよ。


文化の違いや歴史の違いというものが、顕著に現れる最たる例が芸術だ。創作だ。彼らにとってはそれが正しいのだ。なぜなら彼らが血を流して受け取った賞賛は、彼らにとっては確かに賞賛であり、芸術として受け入れられていたからこそ、観客は熱狂したんだ。僕らにはそういうものをつくることはできない。何故ならその価値観がないからだ。


自分のなかに「なにがあり、なにがないのか」を考えることは大切だ。ないことが悪ではない。あることが善でもない。なにを作ってもなにか言われる世の中だ。世の中が不自由だというのに、白紙の世界まで不自由であるなんてことはとてもじゃないが耐えられない。しかし、残念ながらその程度のことも理解できずに、人の聖域にずかずかと土足で入り込む痴れ者はいくらでもいる。


なぜそのようなことができるのか。不思議じゃないか。彼らは正しくないのにだ。厚顔無恥と呼ぶに相応しい。


君は、決して、そのような恥ずべき人間になってはいけない。そして自分の自由を主張するためには、相手の自由を許容しなければならない。自分を優先させたければたったひとつ、狂気で人を魅了するのだ。その狂気はどんなものであってもいい。秀でた才能でも、棘のある物語でも、逸脱した倫理観でも、荘厳な美術でも、そしてなにもせずに君がひとり存在するだけでも良い。他にはないものをみつけなさい。


君がその白紙になにを書くのか。

楽しみにしているよ。


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