新たなる世界(vs.ユークリッド・【ヴェール】・ビリティス

第三十九話 新たなる世界①

「やれやれ、どこまでもどこまでも……あと一歩のところでおれに立ち塞がるんだな。魔王ノエル」


 かつん。かつん。かつん。


 二階から、頭上から、一人の男が降りて来る。一人の勇者が降りて来る。


 彼は魔法使いにして、最高の魔術師。世界の真実の一端を掴み、存在の根源についてのあらゆる事象の知識を修めた者。人界における最高戦力の一角。


 彼の名は、ユークリッド・【ヴェール】・ビリティス。新たなる世界を生み出す為にマージェリーを狙い、母の報復の為に魔王の首を狙い、手駒の為に英雄の身柄を狙う、三人の敵である。


 ユークリッドの出で立ちを端的に言い表すならば、それは純白であった。


 白いローブ、白銀の髪、白い肌。そして染みの様な、或いは二つ置かれた宝石の様に、燦然と輝く緑の双眸。


 漂白された様な、殺菌された様な、不自然で嘘臭い清潔感に満ち満ちた――何もかもが偽物じみた何かが、そこに立っていた。


「さて――此処へ踏み入ったからには、覚悟は出来たと考えていいんだな」


 ぴたりと、ユークリッドが広間の壁に触れる。一瞬、されど膨大な量の魔力が広間全体へと走り、赤の輝きは緑の輝きへと変化した。


 彼の触れているところには、壁ではなく青い青い空が広がっている。其処には確かに、此処ではない世界の片鱗が垣間見えていた。


「……あれは」


「遺された術式のドミネーション……! シャロンの術式を取り込んで、もう一度広間を神殿として再起動してる!」


 生唾を呑み込むヘンリエッタに、マージェリーが返答する。


 ドミネーション。接触したものに魔力を通じて干渉し、意のままに制圧する技術。マージェリーの専門とする技術ではあるが、それは相手が術者という一個の生物であればの話である。対象が命の無いものであれば、こと殿であったなら、制圧これは彼女の専売特許という訳にはいかなくなる。


 マージェリーよりもずっと速く、マージェリーよりもずっと精緻に、マージェリーよりも桁違いに出鱈目に大規模に――制圧は刹那で屋敷全体を呑み込んだ。


「元々、これはおれの創るべき世界のへりとなるべき神殿だったんだ。シャロンは実によく働いてくれた。おれの小鳥を潰そうとしたことと、この神殿ごと祈りを為そうとしたことは、流石に出過ぎた真似と言わざるを得ないけどね」


 ぱん。


 ユークリッドが手を叩くと、彼の姿は階段から四人の頭上へと移った。


 中空に静止し、足元を睥睨する彼の全身は、彼の優位を何よりも雄弁に語る。


「鍵は最早、全て揃っている」


 ユークリッドの両手に、干からびた腕と陶器の様な球体が出現する。ざっと白色の灰が彼の辺りを舞い、彼を取り巻く様に静止した。


 彼が自分の左腕に触れると、枝の様な白い腕が消えてなくなる。左腕の失せた袖口に聖者の左腕を突っ込み、かちりと音を立てながら捻り、五指をゆっくりと動かす。


 たった今、聖者の左腕セファ・ガズラはユークリッド・【ヴェール】・ビリティスの一部となった。


「世界を切り分け開闢する聖者の左腕セファ・ガズラ。あらゆる魂を通して宿すテッサリーニの心臓とエヴァの遺灰、世界を降ろし形成する神殿、そして――」


 ユークリッドの手から心臓と腕が消え、彼の姿がマージェリーとヘンリエッタの前に顕れる。初めからそこにいた様に、それが自然であったかの様に。


 彼の姿を捉え得る者は、この世界のどこにも居はすまい。


「――創世の情報を持つ、妖精の血」


 ユークリッドの手から、ひと筋の閃光が迸る。


 術式を必要としない、純粋な魔力の束。ノーアクションで放たれるそれに、対応できる者はいない。閃光が奔るのと、ヘンリエッタの腹に孔が空くのは殆ど同時の出来事であった。


「がっ……!」


「姉さまッッッ!」


 喀血し、風通しの良くなった腹から血を噴き出し、ヘンリエッタの身体が大きく仰け反る。びくびくと痙攣した身体から噴き出る血は、しかし床や壁に着くことなく宙に静止した。


 ぱちん。


 ユークリッドが指を鳴らすと、静止していた血液が一度に球体――エヴァ・テッサリーニの心臓へと集められていく。


 そこまで見れば、妹であるマージェリーの取るべき行動は最早自明であった。


「この、よくも……!」


 瞬時に魔力を指先へと集め、マージェリーが光弾を撃ち出す。光弾は狙いあやまたずユークリッドの頭へと迫ったが、弾はユークリッドの頭をすり抜けて明後日の方角へと飛んでいき、壁に激突して消失した。


「ふむ、随分とが確かに妖精の匂いが混じっている。今回限りはこいつでも問題なかろう」


 素早く正確に、ユークリッドがヘンリエッタの腹へと文字を書く。描かれた文字は緑の魔力を帯び、瞬く間に彼女の傷を癒した。血の止まったヘンリエッタの身体が、力なく地面に倒れる。


 神聖文字ヒエロス。古くは妖精の言葉ロゴスをテクスト化するよう試みたものであり、刻印魔術の祖とも呼べる古典魔術である。


 字を書いて魔力を通すだけで瞬時に効果を発揮することから、マージェリーがフリーデとの戦いの際に使用したものである。そして同時に、ユークリッドが研究したものの一つであり、当然使用できる魔術でもある。


 血が止まり、ヘンリエッタの身体が力なく地に伏すのと同時に、ユークリッドの近くにあった心臓は遥か頭上へと移った。出現した心臓が大きく拍動を始め、律動は正しく広間の大気を揺るがす。


「傷は塞いだ。今は血が足りなくて気絶しているだけだよ。いつでも殺せるが、今はそこに労力をかけるべきじゃあない。そうだろう?」


 ユークリッドの手が伸び、マージェリーの頬を撫でる。


「可愛い小鳥、マージェリー・ミケルセン。おれは君が欲しい。おれの願いを叶えるため、おれの世界を産んでくれ」


「アタシは、アンタのものにはならない」


「だろうね。やっぱりそう言うだろうと思っていたよ。だからもう、


「え――」


 つい、とユークリッドの手が頬から離れる。


 彼がもう一度手を叩くと、その姿は再び二階へと移り、階下に立つ三人をユークリッドは今一度睥睨した。


 


 三人の背筋に、厭な冷たさが走った。


「ようやくだよ、諸君。


 心臓が一際大きく拍動し、発光を始めた。干からびた左腕をユークリッドが掲げ、光はますます強くなっていく。


 ユークリッドの待つ世界は、その先にあるは、もうすぐそこまで迫っている。


「――これより上がる幕は、この世界で最後の決闘の幕だ。さあ、口上を」


「妾は魔王、ノエル・【ノワール】・アストライア」


「『魔王』ノエル・【ノワール】・アストライアが刃、クリフ」


「ミケルセン家次代当主、マージェリー・ミケルセンよ」


「『緑の歌うたい』総代、ユークリッド・【ヴェール】・ビリティスだ」


 辺りに殺気と魔力が満ち、一触即発の緊張が走った。


 きりきりと張り詰めたピアノ線の様な大気の中で、魔王がゆるりと唇を動かす。


「ぬしらはこの決闘に何を求める。ぬしらは自身の名の下に何を見る」


「俺が望むは、『太陽の聖女』コーネリア・ザカリアヴナ・ベアトリーチェの消息」


「ミケルセン家次代当主マージェリーが望むは、ユークリッド・【ヴェール】・ビリティスの命」


「僕が望むのは、魔王の首と許嫁いいなずけ。『緑の歌うたい』総代ユークリッド・【ヴェール】・ビリティスが望むは……ノエルの首と


 どくん、と拍動が更に強くなる。


 其は、始まりの胎動。遥か太古、神々の時代よりもさらに彼方に起こった最初の運動。あらゆる物質に刻まれた原始の中の原始の記憶。


「――芽吹け、渡れ、響いて満ちよ。目ある者は遍く観よ、耳ある者は余さず聴け、口ある者は悉くを謳え。其は新たなる戒律。我は新たなる御子。掲げ奉るは全ての母ビリティス。母の教えは全ての歌。母の涙は全ての呪い。母の言葉ロゴスは全ての始まり」


 ユークリッドが、淡々と詠唱を始める。


 その瞬間を、千載一遇の好機を、英雄の目が見逃す筈も無かった。


「――赤の躰術、足運びが七『暗濤埋月あんとうまいげつ』!」


 クリフが僅かに踏み込むと、クリフの姿がその場から消える。マージェリーだけでなく、ノエルやユークリッドであっても彼の姿は全く捉えられなかった。


 ノエル達の脳裏を過ったのは、ハイネの末那識マナシキ。相手の認識の外より振るわれる一撃。存在の魔法を突破する唯一の攻略法。


 ――った!


 刹那ほどの間も置かず、クリフの姿がユークリッドの背後に顕れる。


 背中と首元はがら空き。腰も重心もこちらにはすぐに向けない位置にある。何よりも……使。如何に勇者と言えど、一つの身体で一度に二つも三つも術式を使うことは出来ない。


「シッ――!」


 それはさながら、ひと筋の電光が如し。


 爆発的な加速によって放たれた長剣の一撃は、頚椎の隙間を狙い極めて正確に打ち振るわれた。


 反応することも、対応することも、耐えることさえ適わない。


 刃先が触れれば、ほんの少し斬り込むだけで、勇者と英雄の戦いに幕は下りる。紙を裂くように容易く勇者の首は落ち、


 もはやこの世界で、彼の一撃を今から対応できる者など一人もいまい。……そう、


「な――」


 手ごたえは、無い。全く無い。


 刃は空しく空を切り、鋭く裂けた大気は悲鳴の様に歌う。


 それは、クリフが


 ――存在の魔法……? いいや違う、感じるものが僅かに違う!


「……残念、おれはもう


 聖者の左腕セファ・ガズラに魔力が奔り、指さされたクリフの頬が切れる。クリフが飛び退くと同時に、左腕からユークリッドの身体が透け始めた。


 この世界ではないへと移ってしまったユークリッドが、再び詠唱を再開する。


「祝福と呪詛を。言葉ロゴスは白く、黒く、甘く、苦く、祝い、呪い、赦し、訴え、創り、壊し、世を渡る。

 破滅と芽吹き、偽証と真実、災禍と至福は表裏一体と知れ。

 母を忘れず、言葉を欠かさず、祈りを忘れず、私を恐れず、地に満ち拡がり教えを謳え。永遠の安らぎは、永久とわの救済は、母のたなごころの上のみぞ眠る――!」


 世界は、眩い緑の輝きに満ちる。


「いざ仰げ、新世界ネガ・ジェネシスを――!」


 光はあらゆる全てを呑み込み――クリフ達の意識は一瞬途切れる。


 この日、この瞬間。


 クリフォード・フォン・ノクチルカ、ノエル・【ノワール】・アストライア、マージェリー・ミケルセン、そしてユークリッド・【ヴェール】・ビリティスは――影も残さず世界を去った。


 後には、沈黙が訪れるばかり。




「…………」


 ゆっくりと、クリフが瞼を開く。


 最初に目に飛び込んできたのは、眩いばかりの陽光。次に小麦の香り。涼やかに渡る秋の風は、穏やかにクリフの肌を撫でて彼方へ去っていく。


 誰しも心に抱く様な原風景。幼少の穏やかな日々の名残。万人の郷愁。


 しかしそこに満ちるのは、せ返る様な魔の気配。


 ――心象結界か……? にしても、何だこの魔の気配は……。


 ぎり、とクリフがダーインスレイヴを握り直す。辺りにさっと目を配り、クリフはそこにいる筈の仲間の名を呼んだ。


「ノエル!」


「おうとも」


「マージェリーッ!」


「大丈夫!」


 ――よし、一先ず今は全員無事だな。分断もされていない!


「一か所に集まれ! 散開したままだと各個撃破を喰らう! 体勢を立て直すぞ!」


「分かってる!」


「かかかっ。さてさて、如何程の世界かのう


 マージェリーは小走りに、ノエルはゆっくりと踏み出して、クリフの近くに集まる。互いの死角を補うよう背中合わせに固まり、これから来るであろう攻撃に備えた。


「…………」


 もう一度、クリフがゆっくりと辺りを見渡してみる。


 天に拡がるのは、不自然なほどに青い青い、雲一つない空。地面に拡がるのは、黄金色こがねいろに眩く照る小麦畑。燦燦と陽光は注ぎ、時折渡る涼風は秋の気配を天と地の隅々にまで届けていた。


 ぞっとする程に美しい、背筋が凍るほど完璧に作られた穏やかさの世界。


 攻撃の意図など全く感じられない世界だが、それ故に英雄の全身は嘗てないほど大きく危険信号を発していた。


「――ようこそ、おれの世界へ」


 それは、ごく自然な不自然。


 何の前触れもなく、ユークリッドがクリフの前へと顕れた。ノエルとマージェリーがさっとユークリッドの方を向き、クリフの筋肉に僅かな緊張が走る。


「中々、美しい世界だろう? 此処はおれの心象、新たなる世界の基盤となる……おれの原風景さ」


 ユークリッドが両手を広げ、眩しそうに目を細めて空を仰いだ。


「おれが生まれ育ったのは、南洋に浮かぶ小さな離島でね。おれは其処で母さんと二人で……穏やかに幸せに暮らしていた」


 くるりと踵を返し、ユークリッドが三人に背を向けて、ゆっくりと歩いていく。


「黄金色に輝く麦畑を母さんと歩いた夕暮れ。渡り鳥の囀りに合わせて奏でられる母さんの歌。母さんの吐息と混ざって響く暖かいさざなみの音色……」


「…………」


 ――隙だらけの様で隙が無い。明らかに何か企んでいるが……


 クリフの手元とダーインスレイヴの柄から、黒い魔力が僅かに溢れ出る。


 ――どうする? ……否、これでは時間が掛かり過ぎる。墓穴に直行だな。


「恐らくこの世に天国と呼ばれるものが在ると云うならば、そこは決然きっといちばん天国に近い場所だった。進歩も退却も要らない、何もかもが完成された幸福が其処には確かに在ったんだよ。……そう、んだ」


 不意に、ユークリッドが振り返る。その顔は今までの胡散臭い作り笑いではなく、ぐにゃりと歪んだ怒りの表情を浮かべていた。


 脳の中から怒りと怨みと嘲りと殺意を全て引き出して顔へと塗りたくれば、決然きっとこういった表情となるのであろう。


 純然たる敵意の塊が、そこには立っていた。


「…………お前らが」


 す、とユークリッドが左手でマージェリーの方を指す。その指先を目と肌で認めて、マージェリーの身体はびくんと跳ねた。


「……お前らが、太陽教徒おまえらがやって来たあの日、天国はこの世から消えて無くなったのだ。魔女の巣だとほざいて魔女狩り部隊イノケンティウス共が土足で踏み込んで来たあの日に、天国は地獄へと反転したのだ。お前らの空疎な信仰が、汚矮おわいを隠して取り澄ました傲慢が、この世から一つの天国とおれの母さんを奪ったのだ」


 ユークリッドの右手に、一つの種が顕れる。


 それは親指の腹程の大きさの、金色の種だった。ユークリッドが種を握りしめると、種に緑の魔力が奔る。魔力を込めたを彼が地面に撒くと、種はずぶりと地面に沈んだ。


 涼やかに渡っていた風が、ぴたりと止む。


「芽吹け、三界さんがい御柱みはしら天界てんがい族界ぞくかい冥界めいかいの樹。其は物見の台にして万物の根。陽と月と星、命と死、神の御国みくにと冥府のごくは我がものと知れ――」


 ぱき、と音を立てて、緑の芽が地面を突き破る。


「――【ユグドラシル】」


 彼がそう唱えた刹那、巨大な緑の魔力が爆発した。


 辺りに閃光と爆風が走り、クリフ達は防御の姿勢を取る。きんと耳鳴りがして、眩さに瞼はちりちりと痛む。


「くっ……!」


 ――ユグドラシル……最上大業物の中でも、神格武装クラウ・ソラスに位置する一振りか!


 ユークリッドが自身の武器を解放したのは明らかだった。


 神格武装クラウ・ソラス。最上大業物として目録に数えられる中でも、特に極上とされる四振りの通称。青の王国の至宝である聖剣エクスカリバー、太陽教会奇蹟認定局の所有する神槍グングニル、勇者イシュタリアの愛弓である月光弓アルテミス。そして最後の一振りが、勇者ユークリッドの所有する世界樹ユグドラシルである。


 閃光が止み、クリフ達が瞼を開くと……ユークリッドの左手には、一本の長大な杖が携えられていた。


 樹をそのまま杖の形へと凝縮して捻じったような、異形でありながら厳かな雰囲気を纏った杖。その杖からは静かな、それでいてマージェリーなど足元にも及ばないような膨大で計測し切れない規模の魔力が感じられた。


「おれはお前らを赦さない。魔女の呪いを生んだ魔王も、太陽の聖女を護っていた騎士も、教会の権威に浴する者も」


 ユークリッドがユグドラシルを掲げると、幾つもの巨大な魔法陣が出現する。

 そこに示される術式や理論は、マージェリーもクリフも、ノエルさえも全く知らない。


「この世界も、お前たちを決して赦しはしない」


「――ユークリッドッ!」


 再び、勝機は訪れる。


 クリフとノエルが地面を蹴り、ユークリッドの方へと駆け出す。


 魔術と魔法は、同時には行使できない。それは鉄則であり、ユークリッドが人である以上逃れられないものである。ユークリッドを斃すチャンスはここしか無いということを、英雄と魔王は既に理解していた。


 先の一撃は、ユークリッドが既にこの世界へと移ってしまっていたが為に外れた。


 だが、今は違う。。斬れば当たる、当たれば死ぬ。彼とて世界の中では、肉と命のある只人ただびとに過ぎない筈なのだ。


 ここは恐らく、まだユークリッドの心象結界。まだユークリッドは人の領分を出ていない。二人はそう判断した。


 ダーインスレイヴと千子村正の刃が、ユークリッドの命へ迫る。


「――反転・ワルプルギス」


 ぞっとする程に、冷たい声が響く。


 それはまさに、刹那の出来事だった。


 クリフとノエルの動きが止まり、ダーインスレイヴと千子村正がぐるりと回る。……否、回ったのは


 ばらばらと音を立てて二人の身体が裁断され、ぼたぼたと地面に落ちていく。血は一滴も出ない。一瞬にして起きた出来事に、世界の全ては反応を大きく遅らせていた。


 。ユークリッドは既に人ではなく、勇者ではなく、魔術師ではなく、魔法使いではない。文字通りに新たなる世界の神となったのだということを、英雄と魔王は読み違えていた。


 ……否、それを読めた者など世界のどこにも居はすまい。既存の常識と知識など遠く及ばない存在こそ、人の絶対的な不可知イグナシアスへと至ってこそ、神は初めて神足り得るのだ。


 ごとんと音を挙げて二人の首が地面へと落ちたのを見たところで、マージェリーは漸く、驚愕に大きく目を見開いた。


 ユークリッドが、マージェリーへと手を伸ばす。


「さあ、こっちへおいでマージェリー。君の逃亡劇はもはや終幕だ。小鳥は籠を離れても、空に還ることなどできはしないよ」


「あ、あ……」


 かつ、かつ、かつ。


 一歩一歩、ユークリッドがマージェリーの許へと近付く。


 世界はいつの間にか、深紅に染まっていた。


 あんなにも青かった空は血の様な赤に染まり、赤黒い雲が立ち込め渦巻いている。黄金色の麦畑であった筈の大地は血濡れた墓標が無数に突き立つ墓場へとその姿を変えていた。生ぬるい風が一陣吹き、三つ編みに編まれたユークリッドの髪を巻き上げる。


「君を連れ戻すのはやめたと言ったね。あの言葉に嘘は無い。君の意思でおれの許へと戻すこと、その手を引いておれと共に歩むこと……それらはもう無理だろう。あれだけ徹底的に閉じ込めても抗うんだ、やれやれ君には手を焼かされっぱなしだよ」


 ふ、と姿が一瞬消え、ユークリッドがマージェリーの前に顕れる。あっと思う間も無くユークリッドの手がマージェリーの顔を鷲掴みにし、万力の様な力で締め上げた。


「あっ……! あ、がっ……!」


 ユークリッドの指先から溢れ出した魔力が、マージェリーの頭へと注がれる。


「だから、君を壊す。徹底的に、できるだけ残虐に、けれど世界で最も美しい死を君に送ろう。君の心だけを、君の中身だけを、おれは今から壊して見せよう」


 どくん、とひと際強くマージェリーの心臓が鼓動する。脳髄の奥がびりびりと震え、大小さまざまな記憶がフラッシュバックしては消えていく。


 手足の先が徐々に感覚を喪い、温度を喪い、力を喪っていく。


 ――嗚呼、死ぬって決然きっと、こういう感覚なんだろうな……。


 どこか他人事の様にそう思いながら、マージェリーの意識は深い深い闇の底へと沈んでいった。

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