第四十話 新たなる世界②

 ゆっくりと、マージェリーが瞼を開く。


 それは見慣れた、けれど今ではない、いつか見た或る日の光景。


 それはまだ彼女が七つの時。父であるザイドリッツ・ミケルセンに連れられて、マージェリーは或る女へと会いに庭へ出ていた。


 陽の光を避ける様にして木陰に立つ一人の女。彼女と目が合ってマージェリーが最初に感じたものは恐怖だった。


 伝わるは、血の匂いと獣の空気。この女が只者ではないという事は自明であった。


「……血の匂いがするわ、お父様」


 ぎゅ、とマージェリーがザイドリッツの足にしがみつく。ザイドリッツはその様子を見て少し困ったように微笑んだ後、くしゃりとマージェリーの小さな頭を撫ぜた。


「前に出なさい、マリー。前に出て、しっかりと相手を見つめなさい。そこにいるのは誰なのか、自分にとってどういう存在となるのかは……マリーの目で判断しなければいけないよ」


「……はい、お父様」


 ザイドリッツに背中を押され、マージェリーが前へと踏み出る。恐る恐るではあるが、マージェリーは女の顔を覗き込んだ。


 乱雑に短く切られたぼさぼさの金髪。切れ長の目に入った紺色の冷たい瞳。荒れた白い肌に打たれた泣き黒子。曇りガラスの様な瞳は、よくよく見つめれば僅かな暖かい光が見て取れた。


「…………」


 ドレープを上げて、マージェリーが優雅に一礼する。


 その様子を見て、フリーデが僅かに息を呑む。


 自らを理解しようとする人間、それも童女の出現など、女にとっては青天の霹靂に等しい驚愕の事実であった。


「……アタシはマージェリー・ミケルセン。貴女のお名前は?」


「――は」


 素早くきびきびとした動きで、女がマージェリーの前へと跪く。


 幾度となく繰り返されたであろう所作は美しく、けれどマージェリーにはそれが物悲しい動作に見えてならなかった。


魔女狩り部隊イノケンティウス三番隊隊長、フリーデ・カレンベルク、御前おんまえまかして御座ございます。

 ミケルセン家当主、ザイドリッツ・ミケルセン様の命により、これより御身御守護おんみごしゅごを務めます。以後、お見知りおきを」


「どういうことなの? お父様」


 戸惑ったマージェリーが振り返り、ザイドリッツの方を見る。それを認めたザイドリッツの表情が、少し険しいものとなった。


 血を分けた兄弟達がその命を狙っているからだ、という事は、今はまだ伝える事も憚られたからだろう。


「……マリー。折角の機会だ、フリーデに魔術を見せてあげなさい」


「うん! ?」


見せてあげなさい。きっと驚くよ」


「分かったわ! それじゃあ、見てて!」


 もう一度マージェリーがフリーデの方を見て、嬉々としながら両手を差し出す。


 その掌には大小様々、色とりどりの光の球が現れては消えていく。


 パテルの緑色、陽光ヘリオスの橙色、異邦人ペルセスの青色、獅子レオの紫色、兵士ミリスの赤色、花嫁ニュンフスの黄色、大鳥コラクスの黒色。この世を構成する七色の光が、少女の掌にともる。


 ぱち、ぱち、ぱち。


 淡々と、フリーデがマージェリーへと拍手を送る。


「……素晴らしい才能です。色々な魔術師を見てきましたが、これほどの素質は見た事がありません。とても素晴らしい――」


 ぐい、とフリーデの左腕が、マージェリーの襟を掴む。


 じわりと、何か黒いものが襟から首元へと染み出し始めた。


「とても素晴らしい、、お嬢様」


「え――」


 ぼたぼたと、フリーデの口元から赤黒い血が垂れる。逃れる様に下へ落としたマージェリーの目に、ぽっかりと孔を空けてはらわたを零すフリーデの腹が映った。


「嗚呼……痛い。痛い、痛い、とても痛いですお嬢様。

 貴女の穿った孔が、貴女の傷つけた身体が、痛んで痛んで仕方が無いのです。

 痛くて、寒くて、寂しいところに私を追いやった



「ぁ……あ……」


 ――腕。左腕。かさかさに乾いた腕。腕腕腕! 暗い目が薄い唇が荒れた肌が孔の空いたお腹が血生臭い服がアタシを責める様に責め責め責めるなじってるフリーデがアタシを詰ってる責めてる糾弾してる怒ってる怒ってる怒ってる……!


 ぽん。


 不意に肩へと手が置かれ、弾かれた様にマージェリーが上を見上げる。


 頭の半分無くなったマージェリーの父親……ザイドリッツが、怨みがましい目でマージェリーを睨んでいた。


「お前には失望したよマリー。お前が、私は死んでしまったのだよマリー。お前さえいなければ、傷つく人など誰もいなかったというのに」


「なぜ殺したのです」


「何故逃げ出したのだ」


「あ、あ…………」


 ぐじゅぐじゅと、二人の身体が泥の様に腐り落ちていく。


「どうしてお嬢様だけが」


「お前だけ死ねば良かったんだ」


「人殺し」


「裏切者」


「恥知らず」


「――――――――――――ッッッッ!!!!!」


 腹の底から、心の底から、溜まったものをぶち撒ける様にして、マージェリーが絶叫する。


 脳の中を搔きまわされる様な感触が彼女の中で暴れ、ぐるぐると視線は泳いで回る。思考は絶えずフラッシュバックを続け、もはや何も考えることは出来なかった。


 ばたばたと手足を振り回して、マージェリーがその場から逃げ出す。


 手足が短くなっているせいか、混乱しているせいか……幾ら手足をばたつかせても、庭から脱出することはできなかった。


 声は猶も、ぴったりと彼女を捉えて離さない。


「どこへ行くんだ、人殺し」


「自分が可愛いか、恥知らず」


「今更どの面下げて悲しむつもりだ」


「見なよ、人殺しにも流せる涙はあるんだねぇ」


「そんなに哀しいならいっそのこと――」


 無数の手が背後から伸び、マージェリーを捕まえる。


 ずぶずぶと拡がる黒い何かは、既に彼女の身体の殆どを蝕んでいた。


 辺りを闇が覆い、意識の混濁はより激しく進行していく。


「ここで死んでしまえばいいでしょう?」


「…………ここ、で……?」


「ええ、ここで死ぬのよ。死んで償うの」


 かつん。


 滲む視界の中に、何者かが踏み込んでくる。


 それはもう一人の……そう表現する以外に方法が見つからないほどマージェリーに瓜二つの容姿をした誰かが、マージェリーの前に現れた。


 禍々しい笑みを浮かべて、何者かがマージェリーにナイフを握らせる。


「ほら、後はこれを自分の喉に刺すだけよ。簡単でしょう?」


「…………」


「死ねば皆、アンタアタシを赦してくれるわよ」


「……そ、っかぁ…………」


 マージェリーの手が、ナイフを自分の喉へと向ける。


 きらりと輝く刃の先が、やけに痛々しく目に映った。


 あと一息で、この苦痛を終わらせられる。


 フリーデを殺めてしまった罪を雪ぐことができる。


 ……これ以上、フリーデに責められずに済む。


 そう考えると、不思議とこれから行う行為に恐れや不安は感じられなかった。


 ――……クリフ、ノエル、姉さま。ごめんなさい、そして……さよなら。


 ぐ、と力を籠め、マージェリーがナイフを突き立てようとする。


 しかしその切っ先は、どれだけ力を籠めても肌を貫くことは無かった。


 何かがマージェリーの手首を握り、ナイフを止めている。


「え……?」


「……困りますよ。勿忘草を渡したところまで、思い出して頂かないと」


 


 鋭い切断音が響き、辺りを覆っていた闇がまるごと断ち切れる。


 喉を裂くよう囁いていた何者かも、そこにいた筈のフリーデやザイドリッツや他の者たちも、その闇と共に姿を消した。


 マージェリーの意識が、混濁を脱して明瞭になってくる。


 闇が晴れ、元の庭園へと戻ったマージェリーの手を、フリーデが握っていた。


 陽光の様に輝く長い金髪、夜空の様に輝く紺色の瞳、艶のある瑞々しい肌にぼつりと打たれた泣き黒子ぼくろ


 初めて会った時の彼女ではなく、今のマージェリーがよく知るフリーデ・カレンベルクが、穏やかな笑みを浮かべてそこに立っていた。


「フリーデ……?」


「はい。フリーデ・カレンベルクはこちらに」


 フリーデが微笑みかけ、その手がマージェリーの喉に触れる。


 彼女の指が触れた瞬間、マージェリーの喉が僅かに発光した。


 そこは確かに、フリーデが。そしてユークリッドによって明確に


「思い出してください、お嬢様。?」


 ――嗚呼、そうだった。フリーデが最期に話していた、勿忘草の事……。


 再び、マージェリーが回想を始める。記憶の底は景色となり、再び世界に描かれていく。



「……素晴らしい才能です。色々な魔術師を見てきましたが、これほどの素質は見た事がありません。いずれ偉大な魔術師となるでしょう」


 魔術を見せたマージェリーに、フリーデが拍手を送る。表情を崩さず、淡々と、機械的に賛辞を贈る。……そう贈っているように、その時マージェリーの芽には映った。


 少し戸惑っているマージェリーに、フリーデが言葉を続ける。


「貴女に魔術の才がある様に、私には戦闘の才があります。貴女が魔術を磨けるよう、貴女の護衛として、安全を保証いたします。

 私と、私の左腕と、私の命に誓って……任務を果たしましょう」


「つまり、これからアタシと一緒にいるってこと?」


「…………端的に申し上げれば、そのようになりましょうか」


 突如として投げられた、余りにも真っすぐで簡潔な言葉。


 フリーデにとって、そのような言葉を投げられることは全くの想定外であった。


 きょとんとした顔で、些か間抜けな拍子で、捻りの無い返答をしてしまう。


 彼女は一個の断頭台。


 血染めのブラッディフリーデ。 魔女狩りフリーデ。 聖者の左腕セファ・ガズラフリーデ。


 畏怖と憐憫を籠めて呼ばれ見つめられるべき彼女の姿を、マージェリーは一人の人間として真っすぐに見つめていた。


 呆気に取られるフリーデの頬に、マージェリーが触れる。


「肌が荒れてるわね。オシャレもしてないし、アタシの傍に置いておくには全然可愛くないわ!」


「……お言葉ですが、私はお嬢様の護衛です。求められるのは貴女の命を護れる腕で、見た目では――」


「駄目っ! アタシの傍にいる人が、そんな格好でいい訳ないでしょ! 待ってて!」


「あっ、お嬢様!」


 フリーデの制止を振り切って、マージェリーが庭へと駆け出していく。


 程なくして彼女はフリーデの元へと戻って来て、その両手をフリーデの元へと突き出した。


「はい、これ!」


 マージェリーが差し出したのは、一握りの花束だった。


 白く小さい、可憐な花。勿忘草と呼ばれる花を幾つか摘んで束ねたそれを、マージェリーはフリーデへと差し出していた。


「あ、えっと……」


 今度は露骨に、フリーデが戸惑ってみせる。


 人から贈られた経験のあるものなど、生涯の中で高が知れている。


 一つは十字、一つは法衣、そして最後に左腕。


 フリーデへの贈り物は、それまでの生涯の中でだった。


 即ち、魔女狩り部隊イノケンティウスとして人を殺す為に必要な最小限のものだけである。


「はい、受け取って」


「あの、はい、ええ……」


 言われるがままに、フリーデが花束を受け取る。


 受け取ったのを確認して、マージェリーは満足そうに一度鼻を鳴らす。


「ほら、可愛い! やっぱり良く似合うわ!」


 にっと、マージェリーが歯を見せて笑った。




「――勿忘草を、貰ったあの日」


 回想の終了と共に、世界は再びマージェリーとフリーデだけのものに戻る。


 フリーデがマージェリーの頭を撫で、穏やかに言葉を紡ぎ始めた。


「私は刃ではなく、人として生きられるようになったのです。一切の誇張なく、私はお嬢様によって救われたのですよ」


「フリーデ……」


「あの暖かい日々に、お嬢様と共にいられたこと。お嬢様の幸せを護ることができた事……。それこそが私の知る唯一つの幸福で、私の生きる意味でした」


 フリーデの両腕がマージェリーを包み込み、優しく抱きしめた。


 その身体は確かに温かく、ただの人斬り包丁ではない人の身体であった。


「どうか、ご自分を責めないで下さい。

 私の全ては貴女のもの。私の命はとうの昔に、お嬢様へと捧げているのですから」


 ――嗚呼、これは間違いなく、フリーデのものだ。


 伝わる体温、聞こえる言葉、感じる全てがマージェリーの知るフリーデそのものとして伝わる。


 これは幻覚ではなく、


「私の全てはお嬢様のもの。私の知る全ては――ユークリッドを殺してお嬢様を解き放つための全てを、


 真っすぐ、フリーデがマージェリーを見つめる。あの日マージェリーにそうされた様に、あの日自分が救われた様に。


「気付いているでしょう? 己の中にある、妖精の血に」


「……ええ、勿論」


「その血こそが、ユークリッドの求めた情報の全て。創世にまつわる、神の情報を刻んだ触媒。

 エヴァはビリティスの器、シャロンの神殿は世界の器、そして私は世界を拓く装置として、彼に集められました。

 つまるところ、


「世界は――降りて来る?」


「……はい。


 フリーデが微笑み、マージェリーの額に軽くキスする。


 その口づけを切っ掛けとして、マージェリーの身体が輝き始めた。


 どくん、とマージェリーの体内で、何かが芽吹いて急速に広がっていく。


「あの戦いの中で、私と聖者の左腕セファ・ガズラの魔力をエヴァの遺灰に混ぜて、お嬢様の体内に忍ばせました。

 妖精の血を色濃く受け継いだお嬢様の身体を神殿と解釈すれば、そこは一つの世界となりましょう」


 マージェリーの中で何かが拡がっていくにつれ、彼女の身体は光を放ち始めた。


 燦然と美しく、マージェリー・ミケルセンの身体は黄金色に輝き始める。それを見たフリーデは、満足そうににっと微笑んで見せた。


 彼女の身体が、大きな変容を始めたことは明白。フリーデの狙いはマージェリーの変化そのものにあった。


「これで、手筈は全て整えました。


「……ええ、分かっているわフリーデ」


 フリーデの身体が透け、マージェリーの身体を通り抜ける。彼女と背中合わせになる形で、マージェリーはその場に真っすぐ立った。


「――踏み出しなさい、お嬢様。新たなる世界へ、此処ではない何処かへ。貴女の巣立つ門出の日に、貴女を見送ることができる事を……私は幸せに思います」


「……ありがとう、フリーデ。私の傍にいてくれて、私のことを護ってくれて、私に力をくれて」


 一歩。マージェリーがその足で踏み出して歩き出す。


 二歩、三歩と歩くにつれ、彼方に赤い世界が見え始めた。


 そこは魔女の夜ワルプルギス。ユークリッドの待つ、新たに生まれつつある魔女の世界。


 その世界を壊さねば、ユークリッドを斃さねば、還ることなどできはしない。


 しかしその目に恐れはなく、固い決意が漲っている。


「行って来るわ、フリーデ」


「はい。行ってらっしゃいませ、お嬢様」


 マージェリーの言葉に、晴れ晴れとした声色でフリーデは返答した。


 やがて夢は醒め、少女は元いた偽りの世界へと戻る。




「――【彼の者は審判の場にて】。対象の罪悪を最大限引き出し発狂させる術式を掛けた。既にフリーデを手に懸けた彼女に、これを逃れる術は無いだろうさ」


 マージェリーの精神なかみが悪夢へと吞まれている時。


 虚ろな目となったマージェリーの身体を無作法に投げ捨てて、ユークリッドはノエルの方へと歩み始めた。


「それにしても、随分と面白い姿になってくれたじゃないか。可愛い可愛い魔王様」


「……心底、鬱陶しい奴じゃのう。道理で想い人にも嫌われる訳じゃ」


 ぎろりと、ノエルがユークリッドの方を睨みつける。


 しかしその身体はばらばらに分解され、今や生首だけの姿となっている。


 細かく裁断され罰せられた身体は、如何に不死者ノスフェラトゥと言えども直ちに修復することは不可能である。


 何より、。旧世界の規則や戒律は全く通用しない。王と神たるユークリッドの望まぬ要素は悉く排除されてしまう。


「そう連れないことを言うなよ、折角新しい世界へと招待したんだ。もっと愉しい顔をして貰いたいねぇ」


 ぐり、とユークリッドがノエルの頭を踏みつける。


 天を仰ぐその表情は、これまでに誰も見せたことの無い程に晴れ晴れとしたものとなっていた。


 彼の双眸には、赤く染まった空だけが映っている訳ではない。


 エメラルドの様な二つの瞳には、確かに求めた母の魂がありありと映し出されていた。


「じきこの世界は拡大を始め、古い世界のあらゆる全てを呑み込むだろう。


 魔女狩り部隊イノケンティウスも奇蹟認定局も、青き円卓ナイトラウンズも赤き七刀も、剣聖も法皇も青の王も聖女も魔王も――全て呑み込み消し去る」


「…………」


 クリフの方へと、ノエルが視線を向ける。


 彼女と同様に、クリフもまた生首としてその場に分解され転がっていた。死んではいないが生きてもいない。このままでは全く戦うこと等できないであろう。


 ――チッ、世話の焼ける……。


 歯噛みするノエルの様子などまるで意に介さず、ユークリッドが言葉を紡ぎ続ける。


「野放図な弱肉強食は廃れるべき過ちだ。粗野な輩が幅を効かせ、欲のままに楽園を貪り奪う様なことがあってはならない。

 ……全ての魔女は赦され、解き放たれなければならないんだ」


 ぱちん。


 ユークリッドが指を鳴らすと、あちこちで悲鳴が上がる。


 痛みと恐怖を全て絞り出したような絶叫は、しかし一つや二つではない。数十人単位での悲鳴が、ノエルの耳に届いていた。


「消えろ、消えろ、短き灯。人生は歩き回る影法師、君らは哀れな役者に過ぎぬ」


「……受肉か」


「罪深い者共と言っても、肉は肉だ。大切な母さんの魂を留めておく器として、大切に丁重に扱わせて貰うとも」


 広間に踏み入った時点で、ノエルはあの空間にいた人間の気配を全て把握している。


 広間に転がっていた聖歌隊の人間を、ユークリッドが呑み込んだことに気付くまでにそう時間は掛からなかった。


 聖歌隊の修道士の身体が捻じれ、肉とはらわたと血が絞り出されていく。


 あらゆる肉を絞り切った後の骨も含めて、あらゆる全ては宙に浮いて一つに集められ始めた。


 受肉。魂を閉じ込め固定する、肉の牢獄を形作る儀式。


 万物は意味を持つことで初めて世界に在ることができる。


 魂とは無定形で曖昧で、それ単体では無意味なもの。


 故に骨で支え、肉を貼りつけ、血で満たしてやらねばならない。


 そこまでして漸く、魂は一つの生命としてこの世界に存在できる様になるのだ。


「魔王ノエル。魔女を生んだ者、呪いを振り撒く者、この世のあらゆる怒りと悲しみの根源。おれの祖であり、おれの敵。

 あの時お前を殺し損ねたのは、お前が母さんの親であることに対する迷いがあったのかもしれない」


 黒髪を乱暴に掴み、ユークリッドがノエルの首を自分の顔の辺りまで持ちあげる。


 互いに接吻しそうな程の距離で、勇者と魔王は今一度改めて相まみえる。


 その目には、深く黒い殺意が爛々と滾っている。


「お前を殺す。

 次は間違えない、今度は迷わない。お前を殺し、母さんを取り戻す。

 きっときっとお前を殺し尽くすぞ、そこに転がっている痩せた小娘の如くに」


「――く、くくく……かかかかかかかっ! かかかかかかかかかかかかかっっ!」


 げらげらと、心底愉快そうに、心底嘲るように、魔王が嗤う。


 その嗤いがどこから来るものなのか、どういった心持ちで生まれた嗤いなのか……その時ユークリッドには分からなかった。


「……何がおかしい、魔王」


、じゃと?

 妾を殺し尽くすというだけでも嗤える壮語じゃと云うのに、よりにもよってそこな小娘を引き合いに出すか!

 愉快愉快、ぬしの目玉の節穴ぶり、嗤わずにはおれんわい!」


 牙を剥いて、ノエルが口元をいっぱいに歪めて笑みを浮かべて見せる。その視線はユークリッドから、ユークリッドの後ろへと確かに移されていた。


「いざいざ、とくと観よ魔法使い。死んだ筈の、殺した筈の者が蘇るぞ!」


 変化は、次の瞬間に起こった。


 轟、と何かが爆発する様な大きな音を立てて、ユークリッドの背後で何かが弾ける。


 次いで伝わるのは魔力。そしてユークリッドが今までに感じたことのない、息が詰まる程に濃密で神聖な気配。


 勇者ユークリッドの顔に、その時明確に焦りの色が浮かべられた。


「な――」


――まさか、まさか……! いいや、 


 ユークリッドがノエルの首を投げ捨て、ユグドラシルを振りかざす。緑色の魔力でユグドラシルと左腕が輝き、その目が背後にある何かを捉えた。


「戒律の対象を変更!あいつを誅罰しろ、ワルプルギス!」


 ユークリッドの言葉が響くと同時に、無数の斬撃が雨の様に降り注ぐ。


 それは神の言葉。この世界における絶対の戒律。聖者の左腕セファ・ガズラの権能の一部を流用した神罰の具現化。魔女に非ざる全てを、魔女に仇なす全てを等しく切り刻む斬撃の驟雨しゅうう


 しかし、その斬撃がユークリッドの見つめる何者かを切り刻むことは無かった。


 ぷつ、と音を立てて、降り注いでいた斬撃は一つ残らずこの世界からぱったりと消えて失せた。


 迎撃した訳でもなく、防いだ訳でもない。ただその場から、、何の前触れもなく消失した。


 ――莫迦な、誅罰できないだと? 防がれた……いいや違う! これは


「……よりによって、に目覚めるか!」


 ユークリッドの額を、冷や汗がひと筋伝う。


 そこにいたのは、一人の少女だった。


 身体から黄金色こがねいろの光を放ち、覇気に満ち満ちた目でユークリッドの方を見つめて立っている、一人の少女。


 その少女の姿に、ユークリッドとノエルは確かに見覚えがあった。


 目を細めて少女の姿を見遣り、ノエルが言葉を掛ける。


「それ、名乗りをあげい。新たに生まれし、


「――ええ。アタシはマージェリー、


 そこに立っていたのは、マージェリー・ミケルセンとかつて呼ばれていた少女だった。


 だが今や、マージェリーはそれまでのマージェリーとは異なる。


 魔力や気配だけでなく、存在そのものがユークリッドの知っているマージェリー・ミケルセンのそれとは大きく違っていた。


 彼の記憶を過ったのは、夜に起こった牢での一件。


 マージェリーの首を絞めた際に、ユークリッドの手が弾かれた時のことを彼は思い出していた。あれはどう考えてもマージェリー自身の力で為した様に思えなかった。


 確証はどこにも無かったが、予感がない訳では無かった。だからこそ彼はいち早くマージェリーの精神なかみを壊そうとしたのだが、よもやそれが逆に彼女の覚醒を促すことになろうとは予想だにしなかったであろう。


 す、とユークリッドの方を指さして、マージェリーが強い戦意を込めて彼を睨む。


「アンタを殺すわ、ユークリッド。アタシがアタシであるために、アタシの世界へ踏み出すために!」


 高らかに、歌う様に、彼女はそう宣言した。


 偽りの世界の中に、突如としてもう一つの世界は降って顕れた。

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