第30話

 僕は『愛』について、僕なりに整理してみた。辰輝の言うように、負の感情が生まれるのは愛を持っているから。愛とは誰かを愛しむ心。愛しみとは大切に想う、守りたいと思う気持ち。それはとても清く、尊いものだが、その想いが穢されたり、叶わなければ、そこに怒りや悲しみが生まれる。すべての人の心を救うことが出来なくても、太郎の身近な者たちの心は救うことが出来るはずだ。太郎の母であるシスターの心の闇、それは自戒の念。自らの過ちを後悔し、自身を責め続けている。太郎は母であることを告げずに育ててきたシスターを許すと言ったが、彼女はそれでは救われなかった。太郎の気持ちにもまだ迷いがあった。知りたいことを聞かずに自制している。それも太郎の母への愛だ。何が正しくて、何が間違いなのかは分からない。真実があるのに知らなくてもいいことがあるというのは、僕には納得がいかない。真実を知る事で人はまた傷つく。けれど、その真実が隠されていることで、人の心は穏やかではいられない。どちらにしても、人の心は傷つくものなのだ。それなら真実を知り、傷付きながらも、受け入れる方がいい。誰も傷つかない、傷付けない愛などない。

 僕は寝付けぬ夜を過ごし、朝を迎えた。いつものように学校へ行き、何事もなく一日を過ごした。

「太郎君、具合はどう?」

「良好です」

「あなた、ヤマト君ね。太郎君はどうしたのかしら? あなたの中で眠っているの?」

「そう思ってもらって構いません。詳しいことは話せませんが、太郎は無事です」

「それならよかったわ。ヤマト君さようなら。また明日ね」

 斎藤さんはそう言って笑顔で手を振った。

「よう! 仲良しだな」

 辰輝が後ろから声をかけてきた。

「そうなのですか?」

「質問で返すなよ」

 辰輝の言っている意味は分からなかった。


「それで、これからどうするんだ?」

「僕なりに精査してみました。シスターと太郎はまだお互いに話し合い、分かり合う必要があります。太郎は父が誰なのか知りたがっていましたが、シスターが答えなかったために、聞くことを諦めたのです。シスターは太郎を傷つけたくない思いで、言わなかったのでしょう。太郎は傷ついてでも、知るべきなのでしょうか? 辰輝はどう思いますか?」

「俺なら、真実を話してほしい。知りたいことは知りたい。太郎はシスターが辛そうだったのを見て、それ以上聞くのをやめたのだろう。それじゃ何も変わらない。傷ついても、太郎は真実を知るべきだ」

「僕もそう思います。幸い、こちらにいるのが僕なので、シスターと話しをして、真実を話してもらいます。僕は何を知っても傷つきませんから」

「シスターが真実を語るだろうか?」

「僕は語らせてみせますよ。彼女には残酷なことですが、これは試練なのです」


 僕はその夜、シスターの部屋を訪れた。

「入りなさい」

「失礼します」

「太郎、このところ顔色が良いようで安心しました。それで、私に話したい事とは何です?」

「先日のお話しの続きをしたいのですか、よろしいですか?」

「何の話しかしら?」

「僕の父親が誰なのかを、今日は話していただきます」

「あなたが知る必要はありません。あなたの父はもうこの世にはいないのですから」

「では言いましょう。僕の父が誰なのかを。僕は知っています。藁科ですね」

 僕がそう言った瞬間、シスターは顔を歪め、両手でおおった。僕の視線から逃れるかのように顔を背け、荒く肩で息をした。辛いのだろう、太郎が傷つくことが。

「シスター、僕は貴女が思うほど、弱くも儚くもありません。貴女が父と交わした情を否定する必要はありません。父と貴女が愛で結ばれた事は穢れではありません。貴女が交わした情を否定し、愛で結ばれたことを穢れとする事は、僕を否定し、僕を穢れとしているのです。どうか、貴方の過去を過ちなどと思わないで下さい。僕は貴女の子として生まれた事、貴女に愛されている事を、心から喜びとしています」

 シスターは泣き崩れ、僕をまともに見ることもできずにいる。僕はそれでいいと思った。常に冷静で、冷酷な表情をしている彼女は、自身の感情を内に押し込めて生きてきたのだ。今ここで、それを開放した。


「どうしたんです?」

 シスターの慟哭を聞きつけ、吉川さんがノックもせずに部屋に入って来た。

「母であるシスターに、僕の父が藁科だと知っていると告げたのです」

「そうかい」

 吉川さんは優しい顔で僕を見て、

「もう遅いから、部屋で休みなさい。シスターの事はあたしに任せて。大丈夫だから」

「はい。おやすみなさい」

 彼女は全て知っていたのだろう。いずれ太郎が真実を知る事も。自室に戻り、次にやるべき事を考えた。世界が闇に呑まれる前に、こちらの闇を止めなくてはならない。一番大きな闇であったシスターの心は、今大きく変化している。早百合と担任教師の心の闇は脅威ではない。まだ大きな闇がある。それは太郎の心の闇だ。僕には見えてきた。世界を包もうとしている闇は太郎、君の心の闇なんだ。周りの人の心にも影響を与えているのも君だ。そう、僕なんだ。僕は太郎を他人事のように見ていたが、僕はヤマトであり、太郎なんだ。もう逃げたりはしないよ。

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