第13話

 ヤマトが眠る代わりに、僕が目覚めた。あたりは真っ暗で、月明かりが部屋の中をうっすらと照らしている。今日は何日だろう? 僕はどこにいるのだろう? 目が覚めるたびに考えてしまう。

「ああ、そうか。ここは僕の部屋だ。病気で寝ていたんだ」

 そうつぶやいて身体を起こすと、鈍いだるさが広がった。寝ていただけなのに疲れ切っている感じがする。


「ヤマトは僕の夢を見ていたのだろうか? それともまったく違う少年のことを言っているのかもしれない。でも、もし僕のことを夢で見ていたのなら、彼はきっと、僕にとって特別な存在。この世界から連れ出してくれるかもしれない」

 誰もいない部屋で、僕は一人でしゃべっている。これはもう病気かもしれない。誰かが僕の声を聞いているような気がする。こうしている間もヤマトは僕を見ているのだろうか? 何となしに時計を見ると、真夜中の二時を回ったところだった。

「どうして、こんな時間に目が覚めてしまったんだろう? そうか、昼間は寝すぎてしまったからだ」


 僕はベッドを下りて、机の電気をつけた。消灯時間はとっくに過ぎているから、部屋の明かりが漏れないようにカーテンを閉めなければならない。そう思って、窓に近づくと、人影が動くのを見た気がした。まさかと思ったが、机の電気を消し、じっと目を凝らした。見間違いではなかった。月明かりが浮かび上がらせて、それが誰だかはっきりした。藁科だ。こんな夜更けに何の用でうろついているのだろう? 不審に思い、僕は窓から外へ出て、あとをつけた。木々の生える庭では姿を隠すことは容易だが、落ち葉や小枝を踏む音が意外に大きく聞こえる。藁科の足音に紛れるように、同じ歩調で歩いた。藁科は女子部屋のある方へと向かい、早百合の部屋の窓へと近寄った。窓には鍵がかかっているらしく、あかないと分かると、激しくガラスを叩いた。それに気がついた早百合が窓のそばに来て困った顔で何か言っている。藁科が早百合に何か話しかけているようだが、ここからではよく聞こえない。早百合が窓を開け、外へと出てきた。


「だめだよ。言うことを聞いたら」

 僕はつい、そうつぶやいてしまった。幸いその声は藁科の耳には届いていないようだ。早百合は奴に脅されているのだろうか? 藁科に連れられ、彼女は暗い木々の生える場所へと入っていった。僕はまた、彼らの歩調に合わせついて歩く。まだ気づかれていないようだ。


「やめてください」

 早百合の声が聞こえた。その声は震えている。

「俺の言うことを聞かなければ、お前が恥ずかしい思いをするんだ」

 そう言って、藁科は彼女の身体に触れた。汚らわしいその手から逃れようと、彼女は身をよじらせる。その行動が奴の興奮を煽り立てたようで、さらに乱暴になり、彼女の服を引きちぎった。その瞬間、きらりと光るものが早百合の手の中に見えた。それは弧を描き、藁科の右の首に触れ、切り裂いた。

「あっ」

 奴は何が起こったのかが分かったらしく、首を押さえよろめいた。そこからは激しく血が噴出し、あっという間に奴は真っ赤に染まった。そして、声も出ないようで、目を見開きその場に倒れ込んだ。


「早百合!」

 僕は灌木の茂みから飛び出し、早百合を抱え込んだ。彼女は呆然と立ち尽くしている。その目からは大粒の涙が零れ落ちた。身体の震えはなく、感情すら失ってしまったかのようだ。

「君は何もしていない」

 僕は彼女が手に握りしめているカッターナイフを取り、服の袖で柄の部分を拭った。そしてそれを右手で握った。藁科はもうピクリとも動かない。死んだのだろう。

「シスターを呼んでこなくちゃ」

 僕が早百合の手を引いて、灯りの消えた黒く浮かび上がっている寓居へと歩いた。シスターはどんな顔をするだろう。


 建物の方から、懐中電灯を持って、誰かが近づいてきた。パキパキと小枝を踏む音が響く。

「そこにいるのは誰です?」

 シスターの声だ。僕は懐中電灯の灯りを顔に向けられ、眩しくて手でそれを遮った。

「太郎です」

「こんな時間に何をしているのです。早百合も一緒ですね」

 そう言ったあとシスターの声が詰まった。返り血を浴びた早百合、カッターナイフを持った僕の手。そして、僕らの後ろで倒れている、血に染まった男、それらを同時に見てしまったのだ。


「あ、あなたたち、なんてことを……」

 シスターは震え、思わず懐中電灯を落とした。その光はまっすぐに藁科の顔を照らした。目を向いて死んでいるその顔を見たシスターは、ひっと声にならない声を漏らして、その場に崩れるように倒れてしまった。僕はどうしたらいいか分からず、しばらく立ち尽くしていた。早百合はマネキンのように微動だにせず、じっとしている。彼女はすべての機能が停止しているのかもしれない。そこへ、また誰かが近づいてきた。歩くたびに懐中電灯が僕らをちらちらと照らした。

「まあ、あんたたち、何しているのさっ」

 そう言ったのは給仕のおばさんだった。彼女は僕らしか見ていなかったようで、足元に倒れているシスターにつまづいた。


「ひゃっ! シスター、どうしたんです?」

 彼女はシスターを抱き起した。そして、見てしまった。血に染まった男を。

「わっ! どういうことなの? その男、藁科さんだね。あんたたち、まさか……」

 そう言って、僕の手に握られているカッターナイフを見つめた。

「そう、僕がやってしまったんだ」

 給仕のおばさんは早百合の方を見て、

「あんたが……」

 と言ったきり、それ以上は言わなかった。

「警察を呼ぶよ。いいね」

 僕は無言でうなずいた。おばさんは電話をかけに戻った。僕は何をしているんだろう。ここは現実なのだろうか? 風が木々の葉を揺さぶる音だけが聞こえる。しばらくして、おばさんが戻ってきた。


「シスター、しっかりしてください」

 おばさんに強く揺さぶられ、シスターはハッとしたように立ち上がった。

「ああ、なんて恐ろしいこと」

 シスターは言葉に詰まった。

「今、警察を呼びました。太郎たちは事情を聴かれるでしょう。あたしがこの子について行ってあげましょうか?」

「いえ、わたくしが行きます。吉川さんはここに残ってください」

 僕はそんな会話が、まるで他人事のように思えた。テレビドラマか何かの一場面にありそうな。

「早百合……」

 気がつくと早百合は僕らの前から姿を消していた。

「早百合はどこです?」

 僕が声を上げると、二人もやっと気がついたように、辺りを見回した。

「まさか!」


 彼女の精神状態は普通じゃなかった。自殺する可能性もある。急いで建物の方へ向かい、早百合の部屋の窓から入ると、シャワーのザーザーという音が聞こえる。返り血を洗い流しているのだろうか? 声をかけるのを一瞬ためらった。けれど、ムッとする何かの匂いに気がついた。血の匂いだ。僕はあわてて浴室のドアを開けた。早百合はずぶぬれで、浴槽には赤いお湯が湯気を立てていた。シスターもそこへ駆けつけ、

「早百合! どうしてあなた……」

 と声を震わせた。

 表で赤いパトライトが回っている。男の人の声がして外は騒がしくなった。

「失礼しますよ」

 と言って、部屋に入ってきたのは救急隊員だ。僕はもう何が起こっているのか分からなくった。早百合は担架に乗せられ運ばれていく。シスターは心配顔でついて行った。僕は部屋に一人残された。外にはまだ何人かいるようだ。話し声が聞こえる。身体の力が抜けていくようで、ふらふらしてきた。窓際にある早百合のベッドまで行き、そこに僕は倒れ込んだ。布団からは、ふわっといい香りがする。

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