第4話

 『もみの木』に帰ると、

「太郎、少し遅いですよ」

 シスターが玄関に出て来て言った。

「はい、すみません。学校にドリルを忘れてしまって、取りに行っていたんです。宿題で必要だったから」

「いけませんね。今度からは忘れないように気をつけなさい」

「はい」


 学校でのことを、一部始終話すわけではない。話さない方がいいこともある。今日の仕事を済ませ、宿題に取り掛かった。学校で出されたプリントは問題が簡単すぎて、すぐに終わってしまう。シスターは僕のために、もう少し難しい問題集や、参考書を与えてくれた。宿題のあとにそれらをやることにしている。

「僕は本当にここにいるべきなのだろうか? 僕の居場所はあるのだろうか?」

 つい、声に出してしまったが、よくそんなことを考える。僕は誰かに必要とされてはいない。誰かのために生きているわけでもない。そもそも生きている必要なんてあるのだろうか?


「五月二十六日 僕は放課後、担任に呼び止められ、教室に一人残された。財布の件で、シスターが校長に抗議したようだ。それを受け、担任は校長から厳重に注意されたらしい。それを僕のせいだとして怒り、突き飛ばしてきた。物音に気付いた隣のクラスの担任が駆け付けたが、状況を知り、見て見ぬふりを決めた。彼らに正義はないのだろうか?」


 今日のことを日記につけた。

「こんなもの、誰にも見られちゃいけないね」

 日記をいつもの場所へ隠すようにしまった。

「もうこんな時間」

 危うく、夕食の時間に遅れてしまうところだった。食堂へ行くと、シスターが入り口で立ってこちら向いていた。


「太郎、あなたが最後です。もうみんな席に着いていますよ」

「すみません、シスター」

 いつもの儀式の後、静かにつつましく食べる。料理の味はまあまあだが、この雰囲気は最悪だ。

 自室に戻りかけたとき、早百合が藁科に連れられ、庭へと出ていくところが目に入った。他の誰も見てはいない。

「あいつ……」

 僕は見つからないようにあとをつけた。暗い庭の中で、人目につかないところまで行くと、藁科は早百合の肩に手を置き、もう片方の手を彼女のスカートの中に入れた。早百合はすすり泣く。

「声を出すな、痛い思いをしたいのか?」

 藁科は早百合の首をつかんだ。細くてか弱い彼女の首は、大人の男の手で簡単に絞められそうだ。


「こんなところで何をしているんです?」

 僕は覚悟を決めて、彼らの前に出た。

「お前、あとをつけてきたのか?」

「何のことでしょう? 僕はただ、星の観察をしていたんですよ。勉強のために。早百合、君も勉強があるのでしょう? 早く戻った方がいい」

「でも……」

 彼女は僕のことを気にしているようだ。

「いいから早く」

 早百合は心配顔で僕を見てから走って行った。

「じゃ、僕も戻ろうかな?」

 藁科は僕を睨みつけたままそこを動かない。今はこちらから背を向けるわけにはいかないだろう。

「見ていたんだな? このことを誰かにしゃべったら、ただじゃすまんぞ」

「あなたが早百合にしたこと、僕は赦しませんよ。覚悟をするのはあなたのほうです。このことを誰かに話すつもりはありません。僕は三年前のことを覚えています。由香は死んでしまいました。あなたのせいですよ。なぜあなたがあの時に裁かれなかったのか? 神は存在しないからですよ。裁きを下すのは神じゃない。もっと邪悪なものですよ。いつか地獄の亡者があなたを迎えに来るでしょう」

 藁科はずんずんと近づき、顔ではなく、腹を殴った。何度も何度も。立っていられなくなり、僕はその場に膝をついた。

「クソガキが! 今度はその口をきけなくしてやる」

 口の中で血の味がした。歯を食いしばりすぎたのだろう。藁科が僕の顔を殴らなかったのは、シスターにばれないようにするためだ。三年前、嫌がる由香に藁科が乱暴にのしかかるのを見た。僕はまだ幼かった。何をしているのかさえ分からなかった。しかし、次の日に、彼女は自殺したのだ。シスターは何が原因か分からないと言っていた。僕には分かっていた。由香を死に追いやったのはこの男だと。

「何、睨んでやがる。ちぇっ」

 藁科は舌打ちをすると、僕に背を向けて去って行った。彼はここへ住み込みで働いている。寝起きするのは離れの小屋だ。あんな奴、この世から消えてしまえばいいのに。


 僕は痛む腹を抱え自室に戻った。洗面台で口をゆすぐと、ドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

 入ってきたのは早百合だった。僕を見て彼女は震えながら近づき、

「ごめんなさい……。大丈夫?」

 と目に涙をためて言った。

「気にすることはないさ。たいしたことじゃない。君は早く寝るといい。もう忘れなよ」

「ありがとう」

 無理をして笑顔を作ろうとしているが、その目からはとめどなく涙があふれて零れ落ちていた。

「ここにいてはだめだ。早く部屋へ戻って、シスターに見つかるよ」

「うん」

 彼女はそう言って、部屋を出た。ここでは、たとえ子供でも、男女が同じ部屋で過ごすことは禁じられている。年齢にもよるのだが、早百合はもう中学生で、身体は大人になりつつある。僕もそれを意識しないわけじゃない。僕もまた、大人に近づいているのだから。


「早百合は大丈夫だろうか? 由香のように死なせるわけにはいかない」

 僕はそうつぶやいて、自分に言い聞かせた。今度こそ、守ってやらなければならない。どんなことがあっても。


 昨日はシャワーを浴びずに寝てしまった。今日は眠気に襲われる前に身体を洗ってしまおう。バスルームはとても狭く、浴槽はしゃがんで座らなければ湯船につかれない。今の季節なら、シャワーだけで十分だが、真冬は体を温めるのに苦労する。

 ここでの消灯時間は九時。早すぎると思うが、これも決めごと、従わなければならない。部屋にはテレビは置かれていない。共同で使う部屋があって、そこに一台のテレビがある。消灯時間までは見ることができるが、僕はテレビなんて見ている時間さえももったいないと思う。他にやるべきことがあるのだから。


 シャワーを浴びてすっきりした。腹は少し痛むが、今日の嫌なことなんて忘れてしまおう。早百合のこと以外は。ふと、時計にめをやると、もうすでに九時を少し回っていた。あわてて、部屋の明かりを消す。シスターが夜回りに来るのだ。毎日よくやるよ。十二人すべての子供たちを監視するなんて、並大抵のことじゃない。ベッドに横になり、ぽかぽかとしたまどろみに意識を失う。

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