第3話

 僕はその先がどうしても知りたかったが、夢はここで終わってしまった。

「また、朝が来てしまった」

 いつものようにベッドの布団をたたみ、顔を洗った。今日は時間に余裕がある。

「おはようございます。シスター」

「おはよう。髪をとかしてこなかったようですね」

 僕はあわてて髪を撫でつけた。

「あとで直しなさい」

「すみません、シスター」

 彼女はいつも何か言わなければ気が済まないのだろう。朝食を済ませてから、部屋へ行き、鏡を見ると昨日よりも少し髪が伸びているように見えた。たった一日で見て分かるほど髪は伸びるだろうか? 急いで寝癖を直した。シスターに急かされてはたまらない。すぐにランドセルを背負い玄関で下級生を待つ。


「いってらっしゃい」

 未就学児とシスターは僕らを見送る。今日もまた憂鬱な一日が始まるのかと思うと気が重たかった。


「おはよう」

 僕は誰もあいさつを返してくれないことを分かっていても、毎朝クラスメイトにあいさつをする。これもまた儀式だ。席に着き、昨日の読みかけの小説を手に取り読み始めた。周りの音も遠のいていく。僕は本の中に入り込む。

「……くん。太郎君」

 僕の意識が自分の中に戻り、誰かの声ではっとした。ここは教室で、これから朝の会が始まるところだったことを思い出した。


 気がつくと、担任教師が教室に入ったところだった。難を逃れた。僕に声をかけてくれたのは誰だったろう? 僕はさっき声のした方向に目をやると、斎藤さんがほほえんだ。考えてみれば、このクラスで僕に親切なのは、彼女しかいなかった。

「さて、昨日の財布紛失についてだが、無事見つかった。この件に関してはもうおしまいだ」

「はい、先生」

 斎藤さんが手を挙げた。何か発言したいようだ。

「なんだ」

 担任はめんどうくさそうにそう言った。

「どういう結果になったか、私たちには知る権利があると思います。クラス全員が一度は疑われたのですから」

「それは……。しかし、もう済んだことで、蒸し返したくはないんだが……」

 口ごもるように、言葉につかえながら担任は言った。

「はっきりさせてください。このクラスには犯人なんていなかったのでしょう?」

 斎藤さんの強い態度にたじたじで、申し訳なさそうに、

「実は榊原さんの自宅にあったんだ。みんなを疑ってすまん」

 深々と頭を下げた。僕はそれを安っぽいと思った。いくらでも下げられる頭。教師の威厳もなく、誇りもない。夢の中のセシルとは雲泥の差だ。


「横峯君。あなたも太郎君に謝るべきじゃないかしら?」

 そう言われて、横峯がしぶしぶ立ち上がり、

「疑って悪かったよ」

 彼は僕を見ずに、ぶっちょう面でぼそりと言った。斎藤さんはちょっとやりすぎではないかと思う。正義感が、いつかあだとならなければいいのだが……。


「太郎君。よかったね、疑いが晴れて。私はあなたがクラスでも成績が優秀で、賢いことを知っているわ。誰だって知っていることだけれど。きっと、あなたに敵わないから悔しくて意地悪するんじゃないかしら?」

 斎藤さんが昼休みに話しかけてきた。クラスメイトはほとんど外に出ている。僕は教室で本を読んでいた。

「君は何も分かっていない。僕をかばうことは君にとってデメリットだよ」

「あら、どうして?」

 本当にこの状況が分からないらしい。僕はクラスで無視されている。親なしだから。彼女は裕福な家庭で、不自由なく暮らしている。両親もたぶん彼女のように真正直で、健全に違いない。

「ねえ、その本おもしろいの?」

「ああ」

「どんなストーリーなの?」

「アドベンチャー・ファンタジー」

「そう」

 急に興味がなくなったようだ。女の子向けのメルヘンを、僕が読むと思ったのだろうか? 始業時間の五分前のチャイムが鳴った。

「昼休み、終わっちゃったね。読書のじゃましちゃってごめんなさい」

「いや、かまわないよ。財布の件、ありがとう」

 彼女は、ぱっと笑顔になった。

「私は正しいことをしたのよ」

「もちろんさ」


 教室にクラスメイトが戻ってきた。また、つまらない授業を受けるのだ、斎藤さんはすでに自分の席に着いていた。

 財布紛失事件なんてまるでなかったかのように、いつもと変わらない一日が過ぎた。僕は無実なのに疑われた。榊原さんはそんな僕に対して、謝罪の言葉をかけるでもなく、ただ僕の存在だけを無視し続けた。彼女の良心は痛まないのだろうか? それとも、僕は本当にここには存在しないのではないか?

 下校時刻になると、児童はぞろぞろと校舎から吐き出されるように下校を始める。世の中物騒で、今は集団下校といって、みんな一斉に帰るのだ。居残りはよほどのことがない限り、させられることはない。けれど、例外はある。


「川原、ちょっと」

「なんでしょう?」

 僕は担任に呼ばれて、教室に一人残された。まさか、ここで体罰なんてないだろう。僕のことをあまりよく思っていないことは、日ごろの態度から想像できた。日が傾き西の空が茜色に染まっている。教室の中も同じ色に染まっていて、ここが幻想の世界かもしれないと、ふと思った。

「今日、校長に呼ばれた。なぜだか分かるか?」

「分かりません」

「お前んとこのシスターさんが、校長に電話してきたらしい。何のことだか分かるだろ?」

 財布の件だろう。僕は答えず黙っていた。

「告げ口したのか?」

 告げ口とは子供っぽい、いい大人が。

「おい、なんとか言え!」

「はい。学校での出来事を話すことが『もみの木』では義務になっています」

 担任は顔を真っ赤にして、そうとう頭に来ているようだ。このままでは殴られるのではないか?

「お前のせいで、俺は校長から注意を受けたんだ!」

 僕のせいというのは間違いだ。よく確かめもしないで、自分の教え子を疑ったことに問題がある。まず、それを恥じるべきだろう。

「そうやって、黙っているつもりか?」

 いよいよ、怒り心頭に発したようだ。机をバンッと強く両手で叩き、こめかみに青筋が経ち、すごい形相だ。責められるいわれはない。僕には非がないのだから。こんな理不尽なことはあってはならないと思う。担任は僕の胸ぐらををつかみ、突き飛ばした。身体が机やイスに当たり、派手な音が鳴った。それに気づいた隣のクラスの担任が飛び込んできた。状況は誰が見ても分かる。

「何をしているんです? 下校の時間はとっくに過ぎているんですよ。早く帰りなさい」

 この人もやはりだめだ。僕の身に起こった事実を見なかったことにする気だろう。


「はい。帰ります」

 しかし、ここは素直に帰る方がいい。何を言っても無駄なのだから。反論すればもっとひどいことをされるに違いない。

 外に出ると、児童はほとんどいなかった。

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