第3話 三つの邂逅

 五分はあっという間に過ぎ、再びチャイムが鳴った。ホームルーム開始のチャイムである。担任の教師が来るまで寝たフリを続けるか。と思った慧だが、そわそわして眠る気にもなれなかったので、渋々顔を上げた。するとその直後、教室前方のスライドドアが開いた。


「ごめーん、みんなお待たせー!」


 そう言って入って来たのは、慧のクラスの担任である内海真尋うつみまひろであった。彼女は研修を終えたばかりの若い女教師で、担当は数学。今回初めてクラスを受け持つことになったらしい。その身に纏う堅苦しい黒いスーツが新人感を助長しているが、慧が見る限り、仕事ぶりは初めてとは思えないほどテキパキとしている。それに何より、とても美人でスタイルが良く、おまけに愛嬌もある。黒いウェーブ髪は程よく肩まで伸びており、それのおかげで彼女の鋭い顔立ちが緩和されているように思えた。


「さてと、それじゃあ早速、ホームルームを始めますね」


 彼女はそう言いながら小脇に抱えていた名簿やらプリントやらを教卓の上に乗せ、教室内を見回した。


「あ、今日はちゃんと来たみたいね……」


 一番後ろの席に座る慧には、内海が何と言ったのか聞き取れなかった。しかし確かに窓際の一番後ろの席を見て微笑みを浮かべたので、きっと自分の左隣の席で寝ている銀髪女子が朝から登校していて嬉しかったのだろうと考えた。

 その後全員が登校していることを確認した内海は、親に渡すように。と言いながら数枚のプリントを配布し、手短にホームルームを終わらせて教室を出て行った。


「今日は終わるの早かったな。なんか問題が起きてたりして」


 クラス担任がいなくなった途端、教室前方からそそくさと蒲地友宏が近寄ってきて、慧の机に両手を乗せながらそう言った。


「はぁ、そうかもね」


 慧はあからさまにため息をついた後、彼に同意した。


「あ、そういや、さっきは災難だったな」


 ニヤニヤと傍観者特有の嫌味な笑みを浮かべている彼を見て、慧は一瞬イラっとした。このままノリに任せて喋り出してしまっては、最高にネガティブで最悪の悪口を言ってしまいそうだったので、慧はなんとか踏ん張って大きな溜め息一つで応えた。


「おいおい、悪かったって! 詫びになんか奢るからよ」

「奢るって言ったって……」

「昼、購買の焼きそばパン買ってやるから」

「いや、確かにおいしいけど、昼飯は買ってきたからいいよ」

「なら、購買のプリンでどうだ」

「ぷ、プリン……!」

「あぁ、今日は水曜日だからプリンが売ってるはずだ。それで手打ちってのはどうだ?」


 まさか購買に甘味が売っているとは……。しかしプリン一つで心を赦してしまって良いものか。悩みどころだ……。


「なぁ、良いだろ。ジュースも付けるからさ」

「コーヒー」

「え?」

「コーヒーなら良いよ」

「オッケー! じゃあ昼休みになったら高速で一階に行くからな」

「分かったよ」


 勢いで同意してしまった……。と思った慧だが、もう引き返すことは出来ない。とりあえずはこれで貸し借り無しという事にしてもらって、これ以上絡まれるのも避けよう。頭を抱えながらそんなことを考えた慧は、深くため息をついた。


「うるさいね。あなた」


 その声にギョッとした慧は、声がした左側を向いた。するとテーブルに突っ伏したままこちらを見ている銀髪女子。また何か起きるのかと身構えたが、彼女は冷ややかな目で慧を睨んだ後、窓の方に顔を逸らしてしまった。


(す、少しドキッとしたな……。これが……、いや、流石に驚いただけだよな)


 なんてことを独り考えていると、一時限目の予鈴が鳴った。


 ……予想通り、一時限目は担当教師の挨拶やら授業方針の説明やらで終了した。終わると同時にまた蒲地友宏が絡んで来るのではないかと危惧した慧は、チャイムが鳴り終わる頃には既に席を立ち、個室トイレに駆け込んだ。


「はぁ、放課後どうしよう……」


 いざ個室トイレに腰かけると、急に放課後の憂鬱な用事を思い出した。板の向こう側からは小便をしながら立ち話をしている声が聞こえてくる。こいつらがいなくなったら出ようと慧が思ったその時、左太腿に微かな振動を感じた。慧はすぐにラヴィの仕業だと分かったので、ポケットに入っているラヴィ本体とイヤホンケースを取り出し、イヤホンを耳に装着して画面を見ると、二個の黒い輪っかが瞬きをするようにパチクリしていた。


【ご主人、なぜトイレに?】

「別にいいだろう」


 なるべく声を潜めてそう返す。


【まぁそうですね。大事なのは色んな人がいることです!】

「え、あ、あぁ。そうだな」

【ご主人、今ドキッとしましたね?】

「い、いやいや……」


 とは言うものの、イヤホンを装着してしまっている今、ラヴィに嘘をつくことは至難の業。いや、インポッシブルであった。


【とりあえずは、放課後が楽しみですね?】

「は? そんなわけ無いだろ。こっちはどうやって逃げるか考えてるってのに」

【なぬ! なぜ逃げるのですか。女子二人に挟まれるなんて、滅多にない経験ですぞ!】

「はぁ、確かに無いけどさ。でもこんな出会い方は御免だよ」

【まぁまぁそう言わず、出会いは出会いですから!】


 どう頑張ってもこいつは引き下がらないな。と慧が思った瞬間、五分前の予鈴が鳴った。


「十分休み終わるから、また後でな」


 不愛想にそう言い放つと、ラヴィの口答えを聞く前にイヤホンを外し、全てポケットに押し戻してトイレを出た。


 二時限目は世界史であった。担当の教師は中年の男性教員で、こちらも簡単な自己紹介と指導方針で終わりそうな雰囲気が漂っていたのだが、何を思ったのか、担当の教師は残りの十数分でクラスの親睦を深めようと言い出し、まず始めに隣の人と仲良くしよう。ということになり、今に至る。


「あー、えーっと。幼稚だよな、こんなこと」


 周りの声にかき消されないように、しかし大声にはならない程度の声で慧は銀髪女子に話しかけた。が、彼女は尚も机に突っ伏している。


(勘弁してくれよ……。今日はとことんツイてないな……)


 自分のところ以外はどこも会話が盛り上がっているように聞こえて来て、慧は物凄く気が滅入った。今まで生きてきた中で、これほどまでに苦しい十数分は無かったなぁ。と慧が考えていると、


「そうね」

「え?」


 完全に気を逸らしていたせいで、慧は銀髪女子の言葉を聞き逃してしまい、加えて咄嗟に聞き返してしまった。


「この時間が幼稚って話でしょ」

「あ、あぁ、うん。クラスの人と仲良くなるのを義務みたいにして欲しくないよね」

「……うん、私もそう思う」


 口数は少ないし、あっちから会話を広げる気は無いみたいだが、今はとりあえず返答があって良かったと慧がホッと一息ついていると、もぞもぞと銀髪女子が頭を上げ、首を振って雑に髪の毛を直して慧の方を見た。


江波戸伊武えばといぶ

「え、えばと……?」

「そう、私の名前」

「あ、あぁ、なるほど。俺は風見慧」

「放課後、行くの?」


 俺の名前に対しての反応は無いのかよ。と思いつつも、慧は会話に集中し直す。


「まぁ、一応。これ以上面倒になっても嫌だし」

「……確かにそうね。なら私も行こうかな」

「え、もしかして行くつもりなかった?」

「うん。だって面倒じゃない」

「そ、そりゃそうだけど」

「でも、今回はあなたの考えが正しいと思ったから、私もそうする」


 伊武は気丈にそう言うと、再び机に突っ伏した。


(ひとまずは嫌われずに乗り切れたってところか……。はぁ、江波戸伊武。なかなか心の読め無さそうな子だな)


 肩の荷が下りるとともに、授業終了のチャイムが鳴った。何とか地獄の十分をやり過ごした慧は、心の中だけではなく、現実でも溜め息をつき、背もたれに体を預けて天井を仰いだ。


(ラヴィに報告がてら、またトイレに行くか)


 眠ったまま動かない伊武のことを一瞥した後、慧は左ポケットにそのまま戻していたイヤホンを取り出して、それを耳に装着しながら個室トイレに入った。


【お疲れ様です、ご主人】

「うん。その、放課後行くことにしたよ」

【おぉ! そうですか。出会いに前向きになってくれたのですね!】

「そう言うわけじゃ無いけど……」

【何はともあれ、前に進むことは良い事です!】

「まぁ、確かにそうか」

【はい、そうですとも! いつでもサポート致しますので、好きな時に呼んでください!】

「分かった。じゃあ早速、今日の放課後にでも手伝ってもらおうかな。ラヴィの力試しも兼ねて」

【良いですとも良いですとも! 受けて立ちますよ!】

「よし、じゃあまた放課後な。昼は多分、手が空かないと思うから」

【わっかりました! イメトレして待っていますよ!】


 意気込むラヴィの声を聞き届け、慧はイヤホンを外した。


(全く調子の良い奴だな。ま、折角父さんが送って来てくれたわけだし、今日使ってみてダメそうなら箱に封印してやろう)


 そんな小さな覚悟を決めた慧は、トイレを出て教室に戻った。


 ……それから三時限目が終わり、四時限目の授業が終わった。この後は昼休みに入る。つまり、


「おーい、購買行くぞ!」


 蒲地友宏の懺悔の時間である。彼は終了のチャイムとほぼ同時に慧の席へ駆け寄って来て、急かすようにそう言った。


「分かってるよ」


 子どもを相手にするような呆れた調子でそう返すと、慧はたらたらと立ち上がり、蒲地友宏の後に続いて一階へ向かった。


「お、予想通りやってるぞ!」


 購買の前には既に人だかりが出来始めていた。


「俺一人で行って来るから、これでコーヒーでも買って待っててくれ!」


 そう言って無理矢理百二十円を慧の掌に掴ませると、蒲地友宏は群衆の中へ飛び込んで行った。


(それじゃ、お言葉に甘えて俺はコーヒーでも買って来るか)


 自販機に向かおうと踵を返したその時。トンッ。と、左腕に僅かな衝撃が感じられた。誰かにぶつかった! 瞬時にそう悟った慧はコンマの世界で思い切り腰を捻って無理矢理振り向いた。するとそこには慧の肩に押され、数秒後には廊下に倒れ込もうとしている黒髪女子の姿があった。その子は確かに、昨日リムジンで送迎されていたお嬢様であった。

 ――これはマズい! そう思うと同時に慧の身体は動き出していた。倒れ行く彼女の右手首を、自らの左手でがっちりと掴み、グイっと自分の方へ引き寄せた。


(良かった、なんとか助けられた……)


 と、安堵するのも束の間、超越していた意識が戻って来た慧の耳には、口笛やら妙な歓声が聞こえて来た。


「ヒューヒュー! 熱いね!」

「まさか付き合ってるの、この二人!」

「そりゃそうよ。廊下のど真ん中で抱き合ってるのよ!」


 野次の声で状況を全て察した慧は、ようやく五感で彼女を感じ取った。自分の頬を時折撫でる黒髪の触感、鼻腔を抜ける甘い香り、しなやかな腕を握る左手と小さな肩を抱く右手、そして何より、胴体に触れる柔らかい何かが慧の顔を真っ赤に染めた。


「あ、ごめ――」


 バチンッ!

 自らの過ちに気付いた慧が謝りながら身体を離した次の瞬間、左頬に痛烈な一撃が走った。


「そこ! 何をしている!」


 廊下の向こうから、熱血学年主任が声を上げながら駆け寄って来る。


「どうした、何かあったか?」

「……いえ、何も」

「そうか。手続きがあるから、一度職員室に戻るぞ」

「……はい」


 逞しい体つきをしている学年主任はそう言うと、職員室がある実習棟の方へ歩いて行った。慧は叩かれて彼方を向いていた首をゆっくりと戻しながらその背中を見送るが、実はその視線の焦点は、黒髪女子の紅潮した端麗な顔に集中していた。対して黒髪女子は慧の方へ一瞥もくれず、丁寧でかつ颯爽とした歩調でその場を去って行った。


「おい、大丈夫か……?」


 彼女が居なくなっても尚、そこを見つめていた慧を現実に引き戻したのは蒲地友宏の声であった。


「え、あぁ、うん」

「お前が賑わしてる間にプリンは確保しといたぞ」

「そう、なら良かった」


 慧はほとんど反射的にそう返すと、真っすぐ自動販売機に向かい、機械的な動作でブラックコーヒーを購入し、何も無かったかのように階段を上り始めたのだが、どう誤魔化しても、彼の左頬に刻まれた赤い跡が全てを物語っていた。


「あ、あのさ。これ、俺のプリンもやるよ」


 教室に戻り、慧は自分の席に、蒲地友宏はそのひとつ前の席に座った後、彼がそう切り出した。


「いや、いいよ。君が食べなよ」

「いいや、お前が食え! あと、友宏でいいから。今更君なんて気持ち悪いだろ」

「分かったよ、えっと、友宏が食べなよ」

「うんうん、やっぱり名前を呼ばれるのは気持ちがいい。よってこれをお前にやる」


 友宏は腕を組んで頭を縦に振りながらそう言うと、結局はプリンを机に置き、慧に押し付けた。


(まぁ、これ以上押し問答してもしょうがないし、友宏なりの優しさってことにしておくか)


 そうして区切りをつけた慧は、サンドイッチを開封した後にプリンを受け取り、ありがとう、貰っておくよ。と、礼を送った。

 プリンを受け取ってもらい、かつ名前も読んでもらえたことが嬉しかったのか、食事を始めてから友宏の自分語りはとどまる所を知らず、一方的なお喋りで昼休みの半分が終わった。このままでは最後まで流されてしまう。と感じた慧は相手の温情を逆手に取り、「友宏から貰ったプリンとコーヒーを味わいたいから、少し席を外すよ」という謎の理論で何とか席を脱し、実習棟へと続く渡り廊下に辿り着いた。


(確か、実習棟の四階にテラスがあったよな。行ってみるか)


 何となくここまで来てしまった慧だが、タイミングよくテラスの存在を思い出したので、そのまま真っすぐ進んで実習棟へ向かうことにした。

 正門から入って右側に位置する教室棟の反対、左側に位置する実習棟。下駄箱も設置されてはいるが、主に教職員の為であり、生徒が直接実習棟から入ることは無い。実習棟に行くためには、四階と二階に設置されている渡り廊下を行くのが普通である。そんな実習棟には職員室を始め、図書室や生物室、音楽室や視聴覚室、理科室や多目的室などの特別教室のみが備わっている。今はそれらが目的ではない慧は、中庭を見下ろせるというテラスへ行くために、初めての廊下を右折して真っすぐ進んだ。


「ここか」


 かなり広い。というわけでは無いが、手作り感満載の木で出来た机と椅子がオシャレなカフェの屋外席を思わせるように、適度な距離を保って三組ほど設置され、左の壁際や手すりの近くには五、六組のベンチが置けるくらいには広い噂のテラスに辿り着いた。新学期早々こんな場所まで足を運ぶ生徒はいないようで、テラスは独占状態であった。


(ようやく一息つける。プリンとコーヒーを楽しみながら、一応ラヴィと話してやるか)


 良い感じに肩の力が抜けて来た慧は、独りで丸テーブルに座るのは気が引けたので、左の窓沿いに設置されている手前のベンチに腰かけた。そして缶コーヒーを開けて一口飲み、ホッと一息ついてプリンのシートを剥がそうとしたのだが、何故か誰かに見られているような不穏な何かを感じたので、慧は動きを止めた。すると、


「……ひ。……おい。……まい。……い」


 微かに人の声のようなものが聞こえて来た。


「も、戻るか――」


 気味悪く感じた慧が立ち去ろうとすると、突然両足首をガッチリと掴まれた!


「だああああああ!!」

「ぎゃああああああ!!」


 驚くのは慧だけであるはずなのに、何故か、二つの悲鳴が中庭にこだまするのであった……。

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