第24話 つかの間の安息 1

 環が目を覚ますと、まず石造りの天井が視界に映った。


(……どこだっけ?)


 閉鎖された空間特有のこもった空気の匂いが鼻に届く。それで、環は自分がどこにいたのかを思い出した。


(……そっか、神殿の隠し部屋だったわ……)


 窓のない真っ暗な部屋の長椅子に寝ていた環は、緩慢な動作で身を起こした。


「ふあ……。なんかよく寝たわ……」


 毛布代わりにしていた黒いマントから腕を伸ばして欠伸をする。


 早朝に神殿の屋上に到着したあと、タントルーヴェは馬を厩舎きゅうしゃに入れてくると言って、一旦、環を屋上に置き去りにした。

 少しして彫刻だと思っていた壁の一部が動いて、通路から姿を現したタントルーヴェによって環はこの隠し部屋に案内され、休むように言われた。さすがにくたくたになっていた環は、そのままぐっすりと眠って今に至るというわけだ。


 今の環は、光源がないにもかかわらず、室内の様子を見分けることが出来ている。時計の文字盤や手帳の文字が読めるほどではないが、物の輪郭や色の濃淡ははっきりと見えていた。


(……だんだん人間離れしてきたわね)


 これも呪いの影響だろうと思う。しかし体力が失われていっていたのに、なぜだか最近の不調が嘘のように気分がすっきりとしていた。


(てっきり体力が尽きて死ぬのかと思っていたのに、どうなってるのかしら……)


 少し考えながら、環はマントを畳んで長椅子に置いた。バッグの中に上着が見えたが、特に寒くはないので着ないことにする。足側に置いていたショルダーバッグから小型のマグライトを取り出してスイッチを入れると、部屋がLEDライトで煌々こうこうと照らされた。


「……うっ……」

 

 あまりのライトの眩しさに点灯した本人の目がやられた。環は視線を逸らし、まばたきをくり返して目を慣らした。


 照らされた隠し部屋は長方形の八畳くらいの広さで、環が寝ていた長椅子と一枚板の執務机、壁際には本棚と小さなチェストだけの質素な内装となっている。カーペットも何もない石床がむき出しになっているが、埃っぽさは感じない。

 マグライトの明かりが、机の上に置かれたランタンと一冊の本を照らし出した。環は机に近寄る。


 よく見るハードカバーより大きい。A4くらいありそうだ。装丁は厚めで革のような布を張り、角の部分は金属で補強してある。

 表紙をめくると、手書きの文字が書き込まれている。文字の流れから横書きであることは分かるが、残念ながら読むことは出来なかった。翻訳の指輪は読み書きには対応していないようだ。


 紙は厚めだが、思っていたよりも滑らかな感触をしている。インクもにじんでいない。

 ページをめくっていくと、たまにイラストと説明書きらしきページがある。コウモリのような翼を持つトカゲ、いわゆる西洋のドラゴンのようなイラストや、上半身が裸の女性で、下半身が蛇っぽい姿の生き物、他にも凶悪な顔をしたオオカミのような動物のイラストなど、数種類が描かれている。


「……さすが異世界。ゲームで見るような生き物がいるってことね……。会わないで良かったわ……」


 ギムレストが魔獣退治もすると言っていた気がするが、まさかこんな危なそうなのを退治したりするのだろうか。


(……勇気あるなぁ)


 素直にそう感心する。環としては、いくらお金を積まれたところで倒そうだなんて思わない。


 結局、最後までめくって理解できる単語が一つもなかったので、本はそのまま閉じた。本棚に残っている本も理解できないだろうし、他人様ひとさまの机やチェストの引き出しを開ける趣味はないので、環はショルダーバッグを持って、なにも置いていない壁の前まで移動した。

 扉はどこにもないが、壁に備え付けられた燭台を手前に引くと、カコンと軽い音がして燭台のすぐ脇の壁が内側に開いた。隠し扉になっているのだ。

 個人的には部屋の内側まで壁に見せる必要はないのではないかと思う。外側は壁に見せて、室内からは普通に扉が分かるようにしていいのではないかと思った。


 部屋の外は狭い階段の途中になっており、環が寝ていた部屋は二階で、上に登ると屋上に出る。下は一階の壁の中と、地下の儀式の間へ続いているそうだ。

 環が召喚されたときにヴィラードたちから逃げ出した一味は、おそらくこの隠し部屋に潜んでいたのだろう。屋上から空飛ぶ馬で逃げれば追跡は難しい。


 階段に出た環は、扉の横で前傾している燭台を押し戻した。するとまたカコンと軽い音がして壁が閉じる。

 マグライトの明かりを上に向けて階段を上がっていく。上りきると短い廊下に続き、突き当たりの壁の横の燭台を倒すと、またもや軽い音がして壁が外に向かって開いた。


 屋上には明るい日差しが降り注いでいた。マグライトを消して目を眇めながら腕時計を見ると時刻は六時だったが、足元の影はほぼ真下にあり、どうみても今は昼間だ。時計はもはや時刻を知る道具ではなく、両親の形見という位置付けでしかない。


 環はマグライトをしまって、代わりにハンドミラーを取り出す。


「うわ……うわぁ……」


 久しぶりに自分の顔を見て、思わず声が出た。

 ホラー映画に出てくる幽霊のような顔色になっている。血の気が全くなく、真っ白で我ながら気味が悪い。皮膚の薄い目のまわりは黒ずんでいる。


 ヴィラードたち冒険者ギルドの面々もタントルーヴェやフクロウも、よく怖がらずに接せられたものだ。そういえば、夜通し起きていた晩の緑頭の警備は怯えた声だったような気がする。

 こんな顔色の女が、じっと動かずにベッドに腰かけていたら怖いだろう。あれが普通の反応だ。環だって自分が怖い。


(……こんなホラー映画のタイトルになれそうな女に向かって、俺の胸に飛び込んで来い、慰めてやる。って言えるヴィラードさんて…………強い)


 か弱い女好きで済ませていいレベルだろうか。今の環が飛び込んだら、どう控えめに見ても生者を襲うゾンビの絵面にしかならない。


(……懐が深いというか、メンタルがタフすぎる……。変なことは得意分野だって言ってたし、あれくらいでないと冒険者ギルドの責任者にはなれないのね、きっと)


 環はヴィラードに対する尊敬の念を妙な方向で深めた。続いて髪の毛を掻き上げると、ピアスの色は相変わらず毒々しい血の色をしていた。


「……変化なし、か……」


 体調が妙にいいものだから、もしかしたら呪いがいい方に変化したのでは? と少し期待したが違ったらしい。

 確かに夜目は今までにないほどよく見えてるし、お腹は少しも減らないし喉も渇いていない。体が軽くなったような気がするだけで、他の部分は全く変化がなかった。


「駄目かぁ……」


 大きく息を吐くと、背後で足音がした。


「なにが駄目なのだ?」


 渋い声と共に通路から姿を現したのは、五十代くらいの威厳のある男だった。背中まである長い黒髪を後ろに撫でつけ、黒いローブに身を包み、肩に小型のフクロウを停まらせている。一番目を引く瞳の色は茶色が入ったような赤色で、ギムレストと同じく瞳孔が金色をしていた。


「エーベリュックさん。おはようございます」


 ついついフクロウに向かって言いそうになるのをこらえて、人間の方へ挨拶をする。


「もう昼を過ぎたぞ、異界の女よ」

「環です。そんなに時間が経ってたんですね」

「それで、なにが駄目だと言っていたのだ?」


 顔を上げて陽の光に目を細めながらエーベリュックがもう一度聞いてくる。環は髪の毛を耳にかけた。


「このピアスです。目覚めたら体の調子が良くなっていたので、呪いが薄まってないかなと思ったんですが、色は変わってませんでしたね」

「そこだったか……」


 エーベリュックが苦い顔になった。環は首をひねる。


「なにがです?」

「呪いの媒体だ。最初のときは髪で隠れていて見落とした」

「ああ、そういえば……」


 環は召喚されたときのことを思い出した。

 あのときは、下ろしていた髪の毛をギムレストが掬い上げて確認していた。そのあとも、裏庭で襲われたとき以外は、自分がピアスを見たくなかったこともあり、フクロウが訪ねて来たときも髪を下ろしていた。パッと見では気づかなかったかもしれない。


「まあいい。それでは体の調子は良くなっているのだな?」


 エーベリュックの問いかけに環はうなずく。


「はい。昨日までは、だるくて仕方なかったんですけど、回復してるみたいです」

「回復ではない。変容したのだろう」

「……変容?」


 エーベリュックを見上げると、エーベリュックとフクロウの両方が環を見下ろしていた。


「呪いにより魔物化する過程で、人間であろうとあらがっている間は疲労が激しい。しかし、体が人間から魔物へ変容してしまえば、その身は闇の月の魔力で満ちる。おぬしの身の内では、すでに人間よりも魔物としての部分が強くなっているのだ」

「魔物……私が?」

「さよう。身に覚えがあろう? 闇の月から力を得れば、空腹にならず、水を欲することすらなくなる」


 身に覚えのありすぎる言葉に環は驚く。そんな環を見て、エーベリュックとフクロウは揃って首をかしげた。


「そんなことも知らされていないのか?」

「……知りません。ていうか、あの……」

「なんだ?」

「……魔物化ってなんですか?」

「……まさか、そこからか?」

「はい……」


 エーベリュックが首を振って息を吐いた。フクロウは眠そうな顔になっている。


「魔物とは、闇の月の魔力に支配される者たちのことだ。元は獣や人間であることが多いが、闇の月の沼から生まれる純粋な魔物もいる。

 総じて凶暴で、元が人間であっても、常人では考えられないような攻撃力を得て人を襲う。特に闇の月が満月になる晩には力を増すと言われている」

「闇の月……」

「おぬしが昨夜満月だと言っていたあれだ」

「え? でもすごく白々しらじらとして明るかったですよ。闇の月ってイメージでは……」

「魔物にとっては闇の月は明るく感じるのだな」

「はい?」


 エーベリュックは空を見上げた。


わしには昨夜は闇が深い夜だった。ただ星界から降り注ぐ闇の月の魔力は強く感じ取れる。その力の強弱を記録して、我ら魔術師は闇の月が満ちる周期を判断しているのだ」

「そんな……」


 環は言葉を失った。影が落ちるほど明るい月夜だったのに、あれが他人には暗い夜だったなんて、にわかには信じたくない。


「今も月の姿は見えているか?」


 エーベリュックに言われて環は空を見る。青空の中に大きな白い満月が出ていた。


「……白い満月が見えます……」

「見事なものだ」

「え?」


 エーベリュックは感情の読めない赤い目で環を見ていた。


「闇の月の支配下にあるにも関わらず、自我を失わず理性を保っている。魔物に変容した者と落ち着いて話をする日が来るとは思ってもみなかった」

「……」


 環は困惑していた。突然、お前は魔物だと言われても理解が追い付かない。


「異界の女よ」

「……環です」

「タマキよ。おぬしの世界では魔物化に対抗する魔術でもあるのか?」


 環は首を振った。


「ありません。私の世界では、そもそも魔術なんて存在していませんし、闇の月なんてものもありません」

「魔術が無い。……それは不便そうだな」

「……その代わり技術が発達してますから、そうは思いません」

「ほう? どんな技術だ?」


 興味を示したエーベリュックに、環は少し考える。


「そうですね……。移動に馬は使いません。馬車に近い形ですが、燃料を燃やして推進力を得ます。遠い場所へは空を飛ぶ乗り物を使用して、一度に百人以上を運べます。

 世界の反対側の人間と直接話す道具もありますし、この神殿の何十倍もある高さの建築物がいくつもそびえ立っています。月に、星の重力を振り切って宇宙に飛び立つ技術もあります」


 エーベリュックが眉を上げた。


「興味深い話だな。大魔に対抗する技術はないのか?」

「星を何回も破壊できる兵器はありますけど、そもそも大魔に効くかどうか……。核兵器を使ったら自分たちも住めなくなりますし……」


 環の頭の中で、ゴジラにミサイルを撃ち込む映像が流れる。


「魔術はないのか……。なぜおぬしは魔物になりきらない……?」

「さあ? 私が聞きたいです」


 エーベリュックが目を細めて環をじっと観察していた。


「なにか、護符のような物を身に着けておらぬか?」

「護符、といいますと?」

「守護がかかっていて呪いに対抗できる。見た目は装飾品であることが多い」


 環は自分を見下ろした。神社の安全祈願の御守りは自宅の登山用ザックに結んであって持って来ていない。ダイヤモンドのネックレスはギルドに置いてきた。残るはピアスだが、これで呪われてるので論外だ。護符とやらの心当たりはない。


 しかしエーベリュックは違った。環の左腕を指す。


「その手首に巻いているものは?」


 腕時計のことを言っているのだと気づき、環は腕を持ち上げる。


「これは、ただの時間を確認する道具です」

「時間を確認する道具……?」

「この世界のみなさんと違って、私たちの世界では自分で正確な時間がわからないので」

「つまり、常に身に着けているということか」

「ええ、まあそうですね」


 そういえば不調が続いていて、まともに風呂に入っていない。ここ数日はほとんど汗もかかなくて、体も水を絞った布で拭いている程度だ。腕時計を外すことはなかった。


「でも、ただの時計で護符なんて大層なものではないですよ?」

「手に入れた経緯は?」


 エーベリュックは妙にしつこい。


「両親からの贈りものです」

「父母に……」


 元々は父から母へ贈られた腕時計だったが、水仕事の多い母はなかなか身に着けずに放って置かれていた。あるとき、自分の腕時計が壊れた環に母親が貸してくれ、邪魔にならない大きさでデザインも気に入った環に、就職を機に正式に譲られることになった腕時計だ。使ってくれた方が時計も喜ぶ、と父も賛成していた。

 他愛のないエピソードだが、環にとっては手元に残った唯一の両親の形見となった。


「でもただの田舎の会社員とパート主婦で、魔術師ではありませんでしたよ?」

「今はどうしている?」

「……亡くなっています。突然の災害で……」

「……なるほど……」


 環の答えを聞いたエーベリュックは、ゆっくりと深くうなずいた。


「……家族を失っていたか。さぞ辛い日々を過ごしただろう。思い出させてすまなかった。許せ」

「エーベリュックさん? いえ、どうも、ご丁寧にありがとうございます……」


 まさか、名前さえも一向に憶えてくれないエーベリュックに謝罪されるとは思いもしなかった。面食らっている環を見たエーベリュックは、さらに爆弾を落とす。


「タマキよ」

「……ええ? 名前……憶えていたんですか……」

「憶えておるわ。呼ぶのが面倒だっただけだ」

「なんて理由……」


 面倒くさくて異界の女呼ばわりされていたとは。そっちの方が長いだろうに。


「おぬしの正式な名前を聞いておらなんだ。タマキだけか?」

「フルネームは木津環ですけど? どうしたんですか?」

「キチュ?」

「……き、づ、たまき、です」


 会社の重役みたいな顔をした、いい年のおじさんの舌っ足らずな喋り方は可愛くないなと環は思った。せめてフクロウのビジュアルなら可愛かっただろうに。

 そのフクロウは日差しを浴びて気持ちよさそうに目をつむっている。使い魔といえど、夜行性の鳥だと昼間は眠いのかもしれない。


「キヅ・タマキだな」

「ええ。急にどうしたんです?」

「おぬしを帰還させる儀式陣に、名を組み込まねばならんのだ。それを確かめるために来た」

「ああ、そうでしたか。ありがとうございます。……そうか、帰れるんですね」

「今さらなにを言っておる」

「確かに」


 眉をしかめるエーベリュックに、環は少し笑った。正直なところ、エーベリュックが本当に帰してくれるとは思っていなかった。

 エーベリュックは疲れた様子で目頭を揉む。


「お疲れのようですね」

「ほとんど寝ずに儀式陣を描き続けておるからな。水晶がないと不便でいかん」

「……ありがとうございます」


 エーベリュックはベルトにくくりつけた革のポーチから、短い試験管のような管を取り出す。中には蛍光ピンクに近い液体が入っていた。そのコルクっぽいフタをスライドして開け、一口飲んだ。


「……それ、なんですか?」


 すごい色だと思いながら環は聞いてみた。


「ああ、魔力の回復薬だ」

「へぇ……。もしかして、怪我を治すような飲み物もあったりします?」


 蛍光ピンクの管をしまったエーベリュックは、同じポーチの中から蛍光グリーンの管を見せる。


「こちらが怪我を治すポーションだ」

「うーん、さすが異世界」


(ゲームの世界だぁ……)


「おぬしの世界にはないのか?」

「ありませんねぇ」

「ふっ、やはり不便ではないか」

「む……、まぁ、否定はしませんよ」

「ほう?」


 勝ち誇った顔のエーベリュックに、環は負けを認める。


「水源と繋がった折りたたみ式の水筒は確かに傑作です。あれはすごいですよね」

「あれか……」


 エーベリュックがどこか遠い目になって、屋上の端に向かって歩く。なんとなく着いていくと、エーベリュックは広い森を眺めていた。


「あの、私なにか失礼なことを言いましたか?」

「いいや……、異界の女よ」

「また戻ってる。環ですよ」

「タマキよ、おぬしの世界にも、ここのように豊かな森や水があるのか?」

「……地域によりますけど、私の国は国土の七割が森林です。毎年雨も降りますし、治水もしてますから水も不足してません」

「そうか……羨ましい話だ」

「エーベリュックさん?」


 エーベリュックは静かな顔で森を見ている。


「タルギーレには、豊かな森は多くない」

「あ……」


 環はエーベリュックが言っていたことを思い出した。


「大魔の影響……ですか?」

「うむ」


 エーベリュックがうなずく。


「我らは魔術を発達させて生き延びてきた。飲み水を確保するために数少ない水源と水甕みずがめを繋ぐ魔術、さらに水筒へ繋ぐ魔道具。

 家畜や家族を守るための結界魔術。通常武器が通じない魔物を倒すための魔道具。

 限られた薬草で作るポーションもそうだな。大量に作れぬゆえ、少量で効果が出るよう研究を重ねている。必要とあらば、忌々しい妖精魔法にさえ手を出すこともある。そうやって、生き残るためにはどんなことでもしてきた」


(……忌々しい妖精魔法)


 聞き覚えのあるフレーズだと思ったら、昨夜聞いたばかりだった。


「妖精魔法って、あの、踊っていた……?」


 エーベリュックが真顔で目を見開く。


「それ以上言うな」

「あ、ハイ……」


 あまりの迫力に環は押し黙った。

 妖精の靴といい、歌って踊る妖精魔法といい、本人たちが不本意なのは伝わった。確かにエーベリュックたちは、進んで幼児靴を履いたり、人前で歌って踊るタイプではない。きっと背に腹はかえられないといったところなのだろう。

 聞いている限りでは、なりふり構っていられない現実を生きているようなのに……。


「……それなのに、あの魔術師は予算を使い込んだんですね……」


(そりゃあ怒るはずだわ……)


 環は思わず遠い目になってしまった。思い出したのか、エーベリュックがプルプルと震えた。


「……あの忌々しい、オルドデューブの小倅こせがれめが……!!」


(……オルドデューブっていうのね、あの高笑い男)


 帰る直前になって、やっと元凶の人物の名前が判明した。今さらわかったところで、出来ることなど何もないのだが。


「ふぅむ……」


 怒りを抑えたエーベリュックが大きく息を吐く。


「まあいい。あの小僧のしでかした失態も、今日でケリがつく」

「お、お疲れ様です」


 重役顔なのに中間管理職のようなことを言うエーベリュックを、環は会社員のさがで思わずねぎらった。


「ふん。言ったであろう、礼を言われる筋合いではない」

「まあ、そうかもしれませんけど」

「さて、名前も知れたことだし、わしは戻るぞ」

「よろしくお願いします」


 環は頭を下げた。エーベリュックはそんな環を見た後に背中を向ける。


「亡霊騎士が出る時間までには準備が終わる。そのときに、おぬしの疑問にも答えをやろう」

「え?」


 環が頭を上げたときには、エーベリュックは通路に姿を消すところだった。


「私の疑問? ……なんだったかしら?」


 何か質問をしていただろうか?

 だいたいはその場で聞いている気がするのだが。


 環が記憶を探りながら空を仰ぐと、青い空に、けぶるように幻想的な白い月が見えていた。


(……あれが、闇の月……)


 呪いのピアスのように禍々まがまがしい感じはしないのに、不思議なものだと思う。それともこれは、環が魔物になりつつあるから禍々まがまがしく感じなくなっているだけかもしれない。そう考えると、自分が自分でなくなるようで怖くなる。


「……降りよう」


 これ以上、屋上にいたくなくて、環は通路に戻って扉を閉めた。

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