第23話 真夜中の逃避行 2

 森の横の街道で、環は運んでくれたタントルーヴェにお礼を言った。


「どうも、お手数をお掛けしました……」

「飲め」


 胸を擦りながらの環のお礼に、親切なタントルーヴェがまた水をすすめてくれたので、今度は遠慮なく飲ませてもらう。


「馬はもう少し先だ。靴がないなら背負うが、どうする?」

「……靴はあります。このお水ありがとうございました。タルギーレのお水って美味しいですね」


 そう言って水筒を返すと、タントルーヴェが虚を突かれた顔になる。


「なぜ、タルギーレだと……」


 環は首をかしげた。


「あら? みなさんタルギーレからいらしてるんじゃありませんでしたっけ?」


 ギムレストがタルギーレの犯罪者集団と言っていた気がするのだが、違っただろうか?

 犯罪者集団という言葉の持つイメージよりも、実際はずいぶん話しやすいし、タントルーヴェは親切だと思う。今のところは酔ったくらいで、命の危険を感じる目に遭っていない。

 どちらかというと、環の嘔吐おうとを受ける可能性のあったタントルーヴェの方が、身の危険を感じていただろう。


「……そうか、知らないんだったな……」


 タントルーヴェは独り言を呟いた。環の問いに答える気がなさそうなので、環は草の上に座って、ショルダーバッグからパンプスを取り出し足を入れた。

 立ち上がってマントの腰に付いた草を払っていると、タントルーヴェの視線を感じた。


 タントルーヴェは顔の覆いを外していて、環のパンプスを不審物を見る目で眺めていた。


「……なんでしょうか?」


 言いたいことの想像はつくが一応聞く。


「……その妙な靴で森を歩く気か?」


 想像通りの事を言われた。環だってトレッキングシューズの方が良かったが、それは偽装のために置いてきたので仕方がない。


「これしかないので……。それに妙な靴って……」


 環はタントルーヴェの顔から幼児靴に視線を下ろした。仕事とはいえ、羽のモチーフの付いた幼児靴を履いている成人男性に言われたくない。


「……好きにしろ。転ぶなよ」


 言外の言いたいことが伝わったのか、憮然とした顔でタントルーヴェは背を向けた。環はその後について森の中を歩いていく。フクロウはタントルーヴェの肩に停まっていた。


 慎重に足を進めるパンプスと幼児靴の距離はたちまち開いた。それに気づき戻ってきたタントルーヴェが手を差し出す。


「遅い。掴まれ」

「あー、いえ……」


 環は迷った。


「どうした?」

「いえ、奥様に悪い気がするので、手はどうかな……」

「……なんだって?」


 タントルーヴェがアホを見る顔になった。

 確かにおんぶしてもらって今さら何を、とは思うが、選択肢があるうちは夫婦仲に影響を与えるようなことは避けておきたい。相手が異世界人で仕事とはいえ、亭主が他の女と手をつないで歩くことに対し、奥方はいい気はしないだろうと思う。


「あ、では、背中のリュックに掴まらせてください」

「……おかしな女だ」


 環の名案にタントルーヴェは首をかしげたが、背中を向けて掴まるのを確認してから速度を落として歩き出す。たまに細いヒールが土に埋まるが、それでもずいぶんと歩きやすくなった。


 タントルーヴェの肩に停まっているフクロウが、頭だけを動かして環を見下ろす。


「異界の女よ」

「環です」

「タマキよ」


 フクロウは環の名前を憶える気がないようだ。毎回同じやり取りをしている。


「おぬし、足元が見えておるのか?」


 環はその足元に視線を落としながら答えた。


「ええ。月が明るいですから、大丈夫です」


 中天には大きな白く輝く月が出ている。森の中にも月明りによる木の葉の影が落ちているくらいだ。


「月が明るい……満月か?」

「少し欠けてますけど、ほぼ満月ですよね?」

「……そうか、満月か……」


 妙な事を聞くなぁと思ってフクロウを見ると、フクロウは静かに環を見つめ、頭をくるりと前に戻してしまった。タントルーヴェも黙りこくっている。


(なんか変なこと言ったかしら? 異世界だと満月の定義が違ったりする?)


 しかし、質問できない空気を感じ取った環は、足元の確認が忙しいこともあって、黙って二人に着いて行くことに集中した。


 しばらく進み、狭くなった木々の隙間を抜けると、途端に辺りが明るくなって、環は思わず手をかざして目を庇った。そこはちょっとしたスペースになっていて、暖かい陽光の降り注ぐ草地になっていた。

 一頭の漆黒の毛並みをした立派な馬が、のんびり草をんでいる。鞍と手綱と荷物が着けられているが、木に繋がれているわけではない。

 環は指の隙間から空を見上げてみたが、白い陽光ばかりで青空は見えなかった。


(……どうなってるの?)


 環は掴んでいた手を離して立ち尽くす。タントルーヴェも止まった。

 フクロウがタントルーヴェの肩から草地の中心に降り立って、いきなり地面をつついたので環はぎょっとした。


(まさか、ミミズでも食べるつもり?)


 しかしそうではなかった。フクロウはえっちらおっちらと後退したが、くちばしに何かをくわえているようにはみえない。すると、フクロウがつついた地中から、ビー玉くらいの大きさの赤い宝石のようなものが浮かび上がってきた。空中に浮いたその宝石を、えっちらおっちらと近づいたフクロウがつつく。

 それを合図に、降り注ぐ陽光がだんだん淡くなって夜空が戻り、青々とした草も森の中の地面に変わった。食べる草がなくなった馬が不満そうに鼻を鳴らした。


「タントルーヴェ」


 フクロウが渋い声でタントルーヴェを呼ぶ。タントルーヴェはフクロウの足元に落ちた赤い宝石を拾って小さな巾着に入れ、腰のポーチにしまった。戻ってきたタントルーヴェに環は声をかけてみた。


「タントルーヴェさん。今のはなんですか?」


 タントルーヴェは環を見て、それから視線をまだ同じ場所にいるフクロウに移した。


「今のは結界だ」

「結界?」

「馬が動物に襲われないように、盗まれないように、逃げ出さないようにするために隠し閉ざした空間だ。異界にはないのか」

「……ないです。草まで用意してくれるなんて行き届いてますね。食事とトイレのある駐車場、つまりサービスエリア? ……さすが異世界」


 なんでもありだわ。と感心していると、タントルーヴェがふっと笑った。


「タマキは変わってるな」

「あ……名前呼んでくれましたね。あっちのフクロウは全然憶えてくれませんけど」

「そういえば、あの方に名前を呼ばれるまでに、俺も時間がかかったな……」

「長い付き合いなんですか?」

「ああ。偉大な魔術師だ」

「へぇ……」


 タントルーヴェが尊敬の眼差しを向ける先に、環も視線を移した。

 陽光の代わりに月明りを浴びて土の上に立つ小さなフクロウが、美しい黒い馬と見つめ合っている。森の賢者の姿を借りた偉大な魔術師は、ばさりと羽を広げて、くちばしを開いた。


『空を流れる青いきらめき。通り過ぎるぞ空の上。尾っぽを引いて長く速く』


 羽を見せつけるように広げたフクロウが、渋い声で朗々とアップテンポな歌を歌い出した。リズムを取るようにお尻を左右に振っている。


「…………偉大な魔術師……?」


 環は突如歌い出したフクロウとタントルーヴェを交互に見て、小さくフクロウを指差しながらタントルーヴェを窺った。


「……」


 タントルーヴェは半眼になり、彫像のように動かず、かたくなに環を無視した。

 その間もフクロウの歌は続いている。黒い馬は頭を下げて黒い瞳でフクロウを見つめている。


『野を駆け、山越え、海を渡って、さらばだ友よ、また明日』

「……ふっ……」


 ノリノリのフクロウに、環は噴き出しそうになるのをこらえた。タントルーヴェが横目で睨んでいるのが感じられたので、一歩下がって視界から消え、肩を震わせる。


 翻訳の指輪のおかげか歌詞が理解できる。渋いフクロウの声にはそぐわない可愛らしい内容だった。ギムレストも歌っていたし、これがこの世界の魔術師のスタンダードなのかもしれない。

 人前で歌って踊るだなんてメンタルが強すぎる。ある意味で偉大だ。環にはとても真似できない。


 唇を噛み、涙目になって眉間に力を込めながら、環はフクロウのダンスを見守った。


『帰ろう家へ、星くずが光るより前に。りんごにすもも、暖炉とベッドが待つ家へ!』


 フクロウが歌い終わると、黒い馬のまわりに青白い光がふわりと集まった。そして一度強く光る。環が顔を逸らして光を避けてから視線を戻すと、黒い馬の姿に変化があった。


 ひづめとたてがみと尻尾の先が、鬼火のように青白い炎をまとって揺らめいている。黒い瞳も高温の炎のような青に変わっていた。


「……タ、タントルーヴェさん?」


 驚く環に、タントルーヴェが優越感に満ちた表情を向けた。


(……そんな顔されても、羨ましくないんですけど……)


「あれで神殿まで移動する。来い」

「え……?」


(……あの燃える馬で?)


 馬に近付くタントルーヴェに、環はおっかなびっくり着いていった。近くに寄っても青い炎は熱くない。タントルーヴェが振り返る。


「馬には乗れるか?」

「……いいえ」

「前に乗せたほうがいいか……」


 環は馬を見て少し考える。


「タントルーヴェさん」

「なんだ?」

「前に乗ると風が当たりますよね?」

「もちろんそうなる」

「では、後ろに乗せてくださいませんか?」


 風に当たり続けると疲労が大きいし、馬にまたがるということは、スカートがまくり上がる。そんな間抜けな格好を見られながら移動するのは恥ずかしすぎる。


「……まあ、いいだろう。先に乗れ」

「…………」


 環は背の高い馬を見上げた。あぶみの位置も高い。動かない環にタントルーヴェが息を吐いた。


「持ち上げてやる。暴れるなよ」


 そう言って環の前で屈み、腰と太ももに手をまわして、担ぎ上げるように抱き上げた。


「あっ……」


 目線が高くなり、環はタントルーヴェの肩に手を置いてバランスをとる。そのまま運ばれて、環は馬の背に手をついた。タントルーヴェが腕の力だけで環の腰を馬に乗せる。

 またがるはずが横乗りの形になってしまった。タントルーヴェがひらりと前に乗り、顔だけで振り返る。


「その体勢でいいのか?」

「い、いえ、その、ちょっと待ってください。失礼します」


 環はタントルーヴェのリュックに掴まりながら、苦労してまたがった。マントを足に巻き込むように調整する。これで足が冷えることもない。

 環がもたついている間に、フクロウがタントルーヴェの差し出した腕に停まり、二人は話していた。


わしは先に戻る。後は大丈夫だな?」

「はっ。それではエルー神殿で」

「うむ。任せたぞ。……異界の女よ」


 突然呼ばれて顔を上げると、フクロウがタントルーヴェの肩にいた。


「環です。なんですか?」

「タマキよ。マントのフードを下ろせ」

「え? ……こうですか? わっ!」


 環が背中に落としたフードの中に、フクロウが飛び込んだ。


「な、なに?」

「気にするな。わしは寝る」

「寝るぅ?」


 フクロウは「忌々しい妖精魔法め!」と言いながらもぞもぞした後に、フードの中で動かなくなった。


「まさか……ほんとに寝ちゃった……?」


 唖然とする環を、タントルーヴェが振り返って確認する。


「準備できたか?」


 まるで気にした様子がない。フクロウがフードで寝るのは通常運転なのだろうか。


「できたというか……まあ、たぶん?」

「手を回して掴まっておけ」

「え? でも……」

「落ちたくなければ掴まれ。しばらく駆けて大丈夫だと判断したら、離していい」

「……わかりました。失礼します」


 奥さんに悪いな、と思いながら環はタントルーヴェのお腹に腕を回した。回りきらないその腕を、タントルーヴェが片手で押さえる。


「出発するぞ」

「よ、よろしくお願いします」

「行け、エルゴ」


 タントルーヴェが軽く馬の腹を蹴った。馬首が上を向き、角度が斜めになる。


「え?」


 馬が空へ向かって螺旋らせん階段を登るように駆け出した。


(はっ?)


 馬はたちまち木の上に飛び出し、タントルーヴェが操る手綱に従い、空中を軽やかに走り始める。


(馬まで空を飛んじゃうのぉっ!?)


 奥さんに悪いとか余裕ぶってる場合じゃない。環は手を離すどころか、落とされないようにタントルーヴェにしっかり掴まった。


 月の明かりが降り注ぐ森の上ぎりぎりを、だんだん速度を増して馬は疾走した。眼下の森が飛ぶように後ろに遠ざかり、環の髪が暴れる風にもてあそばれる。


(速い、速すぎるんですけどっ!?)


 夜空を駆ける馬は休むことなく走り続け、夜明けごろ、森の中に石造りの建物の姿が見えてきた。ぐんぐん近づき真上に到達したところで、見覚えのある広場が見えて、その建物が召喚されたエルー神殿だとわかった。

 下から見たときには気づかなかったが、隠れるように屋上がある。馬はそこに降り立った。


「無事……ではなさそうだな」


 振り返ったタントルーヴェは魂の抜けた顔の環を見てそう言い、返事を待たず環を抱えて降りた。屋上の縁に沿って腰かけられる高さのベンチのような出っ張りがあって、タントルーヴェは環をそこに下ろした。


「ど、どうも、ありがとう、ございました……」


 膝にも腕にも力が入らず、ベンチにへたり込みながら環はなんとかそれだけを言った。タントルーヴェが環の腕を押さえていなければ、途中で力尽きて落馬していた。

 精も根も尽き果てるという言葉の意味を、身をもって味わいながら、環は木々の間から差し始めた太陽の光を見上げる。どっと疲れが押し寄せて来た。


(もう、二度と空は飛びたくない……)


 長い夜の冒険が、ようやく終わりを告げた。

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