第22話 真夜中の逃避行 1

 環はベッドに入って、フクロウが迎えに来る時間まで怪しまれずに過ごそうと大人しくしていた。

 会わせてもらえたヴィラードの顔色も悪くなく、罪悪感で吐きそうなほど緊張していたのは少し落ち着いた。

 別れ際のヴィラードの様子は麻酔か何かで朦朧もうろうとしていたので、逃亡を阻止する指示は出せそうもないだろうと思っている。環が逃亡する真夜中までの時間は稼げそうだった。


 ヴィラードの部屋から戻ったときにマディリエにもお礼を言えた。鋭いマディリエに勘づかれないよう、なるべく表情を見られたくなかったので、うつむいたままとなってしまったが仕方がない。


 本当はカイラムとギムレストにもお礼を言いたかったが、これ以上は不自然だろう。こそこそと出て行くのは申し訳ないが、これ以上、彼らに迷惑をかけられない。


 フクロウの言う通り白の騎士は圧倒的な強さだった。タルギーレの将軍が倒されたという言葉も納得が出来てしまった。


(それに、あのときの殺意……)


 思わず声を上げて制止したとき、環は白の騎士と目が合った。

 そして気づいた。

 向けられた殺意は、最初に神殿の儀式陣で感じたものと同じだったと。空中に開かれた儀式陣の向こう側から環に殺意を向けていたのは、あの白い騎士だったのだ。

 それがここまで追ってきた。きっと諦めることはない。


 環がギルドに留まれば、明日にもヴィラードは殺されてしまう。ヴィラードだけではない。護衛のカイラムとマディリエも殺される。


 自分のせいで他人が死ぬ。


 環にとっては自分が死ぬことより、その方がよっぽど恐ろしかった。


 だから、フクロウの提案は渡りに船だったといえる。環もフクロウが馬鹿正直に全て話しているなどとは思っていない。不都合なことは隠しているだろう。

 しかし、詳細などどうでもいい。要は次に白の騎士が現れるときまでに、ここから離れていたいだけなのだ。環もまた、フクロウを利用している。


 暗い天井を見上げていると、隣室で話し声が聞こえて扉が少し開けられた。とっさに目を閉じて寝返りを打ち、ついでに布団に潜り込む。


(……昨日よりも早いじゃない)


 あのマディリエに殴られていた緑頭の若い男性は、真夜中前に一度部屋を覗くと、その次の確認まで数時間空く。


 目の前で布団に潜り込むところを見せ、朝まで顔が隠れていても怪しまれないようにしよう、という作戦だったが、このときに部屋を確認していたのがマディリエだとは気づかなかった。


 念のため動かずにいたら昨日と同じ頃に再び扉が開いたので内心ほっとした。白の騎士の襲撃があったので、回数を増やしているのかもしれない。


 環は静かに窓から差し込む月明りの位置を眺め続けて、頭の中でこれからやる行動の手順を何度も確かめる。やがて、テーブルの影がフクロウが来た頃と同じ長さになったころを見計らって、音を立てないように体を起こした。


 翻訳の指輪をめ、息を殺してベッドを下り、忍び足で扉から隣室の様子を伺う。時おり、小さな話し声が聞こえるくらいだった。それを確かめてテーブルの方へと移動する。呪いの影響なのか、二、三日前からやたら夜目が利くようになっているので、家具にぶつかる心配はない。


 環は慎重に寝巻きを脱いで、バッグにしまっていたスーツに着替えた。オフホワイトのジャケットは明るすぎて目立つので、それはバッグに再びしまい込む。同色のスカートは脱ぐわけにいかないのでそのままにした。


 続いてクッション性が高まるように何枚も重ねられている薄いマットレスを工夫して人の形を作る。仕上げに謝礼と詫び代わりの品物を置いて、上掛けを被せて整えた。

 ダイヤモンドのネックレスが、この世界でどれくらいの価値になるのか見当もつかないが、少しでも掛かった経費の補填に充てて欲しいと思う。


 窓に近づいて庭を見下ろす。月が明るいので庭に誰がいるのか見分けることが出来る。カイラムともう一人の名前の知らない剣士の姿が見えた。

 亡霊騎士が出てきた辺りを警戒していて、こちらを見上げる様子はない。環は音を立てないように時間をかけて窓の鍵を外し、こぶし一つ分だけ、そっと窓を押し開けて待った。


 あまり時間を置かずに小型のフクロウが窓の外に舞い降りてきた。

 通れる分だけ窓を開けると、えっちらおっちらと入って来て環を見上げる。環は腰を屈め、顔を寄せて囁いた。


「行くわ。準備も終わってる」

「よし。少し待て」


 可愛い顔に似合わぬ渋い声でフクロウは答え、可愛い仕草で窓から下を覗き込んだ。


「大丈夫だ。よいか、静かに窓を開け放て。決して声を出さぬように」


 環に言い含めたフクロウは、音もなく屋根の方へ飛び立った。下にいるカイラムにバレやしないかと緊張しながら、言われた通りに窓を全開にする。


 すると目の前に、一本の黒く細いロープがするすると下りてきた。一定の間隔で輪っかが結ばれている。

 そしてそのロープを伝って、逆さまになった男が下りてくる。全身真っ黒な服装で、顔まで黒い布で覆っていて、見えているのは目の部分だけだ。


 ロープに絡ませるようにした足の先まで見えたとき、環は少し首をかしげた。

 忍者のような格好をしているのに、何故か靴だけミントグリーン色をしていて、くるぶしの辺りに五センチくらいのデフォルメされた天使の羽のようなモチーフの飾りがついていた。靴紐はなく、中央にスリットが入っているだけのように見える。

 目立つ上にデザインが幼児向けだと思う。人目を忍ぶ気があるのかないのか、聞いてみたくなる。


 歩くたびにぴこぴこ音が鳴りそうな靴を履いた男は、窓の正面近くまで下りたところで、頭を中心に体の向きを反転させた。そのまま足を振り子のように動かしたので、環は窓から離れる。


 勢いをつけた幼児靴の男は、窓枠のど真ん中から飛び込んで、一切の音を立てることなく、きれいなフォームで膝を曲げて着地した。靴はぴこぴこ鳴らなかった。手に持ったままのロープを室内に垂らす。


 立ち上がった男は長身で、がっしりとした体つきをしていた。環を上から下まで素早く見回して、背負っていた小さなリュックから、黒いフード付きのマントを取り出して押し付けてきた。


「その服は目立つ。これを身に着けろ」


 押し殺した低い声は真剣で、目立つ幼児靴を履いている割には、まともな内容だった。自分の服装が目立つのは承知しているので、環は逆らうことなくその言葉に従った。

 斜め掛けにしたショルダーバッグの長さを調節して、体にぴったりくっつくようにベルトの遊びを無くして背後に回す。その上からマントを羽織って首元で結び、フードを被る。


「おぶさって、しっかり掴まっていろ」


 目の前に来た男が背を向けてかがんだ。


(……おんぶかぁ)


 ロープを伝っていくのだろうから妥当な指示ではある。今の環には自力でロープをよじ登る体力がないからだ。


 環は山歩きが趣味で、鎖場も登るしナイフリッジも渡った経験はある。そのため、体の使い方を覚えておこうとクライミングを少しかじった。だからこそ幼児靴の男の身体操作が一流であることがわかる。サーカスの軽業師のように滑らかな動きをしていた。


 環も体調が万全でヘルメットをかぶり、下にマットが敷いてあれば、窓の外のロープクライミングにチャレンジ出来たかもしれない。クライミング初心者レベルの環の場合は、それくらいしないと無理な要求だった。フクロウもそれを理解してくれて、幼児靴の男を迎えに寄越したのだろう。


 膝丈のスカートで足を開くのは抵抗があるが、この際、贅沢は言っていられない。幸いマントだし丸見えにはならないだろう。


「よろしくお願いします……」


 環がおそるおそる覆いかぶさると、男は片手で環が前に回した腕を掴み、もう片手で尻を支えて揺らぐことなく立ち上がった。


(……マント越しで良かった……)


 急いでいる状況は理解しているが、それと羞恥心とは別だ。リュック越しとはいえ密着するのは三十路を過ぎていても恥ずかしい。救いなのは、幼児靴の男が全く動揺していないことだった。


 男は躊躇ちゅうちょなく窓枠に乗り、環の腕を掴んでいた方の手と片足をロープの輪に引っ掛ける。身を乗り出し、体が半分宙に浮いたところで、


「窓をゆっくり閉めろ」


と囁いた。


(む、無茶を言ってくれるわ……)


 環は幼児靴の男に片手でしがみつき、ひるみそうになる手を必死に伸ばして窓を閉めた。再び両手でしがみつく環に、男はまたも囁いた。


「屋根に登る。両手を使うから、少しの間、自力で掴まってろ」


 そう言うと、窓枠に乗せていた足を外した。ぷらんと揺れて宙づりになる。環は恐怖で一気に身を固くした。

 どんな体の使い方をしているのか、ぶ厚い体にしがみつく環をものともせずに、男は身軽にロープを登り始めた。


 怖くてたまらなかったが、環は首を巡らせて地上のカイラムを探す。カイラムは先ほどと同じ場所で警戒を続けていた。その姿を瞳に焼き付ける。


(……さようなら。優しくしてくれてありがとう。チョコレート食べてね……。元気でね……)


 直接伝えたかった別れの言葉を心の中で告げた。


 空中の散歩は十秒もかからず終わり、幼児靴の男は苦もなく屋根にたどり着いた。カイラムの姿が見えなくなる。

 男は急斜面の屋根にロープを引き上げ、片手が環の尻に戻った。もう片手で器用に屋根の縁に設置した器具を回収し、中腰になって足音を立てずにロープと環を一緒に棟の上まで運んだ。慎重に降ろした環に向き直って低い声を出す。


「後始末が終わるまで動かずに待っていろ」


 環は一も二もなくうなずいた。こんな急斜面の屋根の上に置き去りにされ、誰が動けると思うのか。

 しかも今はストッキングを履いていて足元が滑る。例え動けと言われても動くことなどできない。パンプスはまだバッグの中だ。履いていなくて良かった。


 幼児靴の男は平坦な地面を歩いているかのように危なげなく移動すると、煙突に巻き付けているロープを取り外しにかかった。それを棟の上で身を固くして見守る環の目の前にフクロウが舞い降りる。


「異界の女よ」

「た、環です」

「タマキよ」


 フクロウは昨夜と同じように律義に言い直した。


「これからエルー神殿に向かう。この街の外に馬を用意している。そこまではあのタントルーヴェが、おぬしを背負って空を飛ぶ手はずだ。不用意に騒がぬように」


 環は今、変な言葉を聞いた気がした。


「……空を飛ぶ?」


 聞き間違いかもしれないと思って聞き直す。


「そうだ」


 しかしフクロウは渋い声で肯定した。


「……空を、飛ぶ? え?」


 意味を理解できない環に、言うべきことは言ったという風情のフクロウは音もなく舞い上がって飛んで行った。入れ替わりに幼児靴の男が戻ってきてしゃがむ。


「異界の女よ」

「あの……環です」

「タマキか」

「はい」


 幼児靴の男はフクロウと似たようなやり取りをした。


「俺はタントルーヴェだ」

「タントルーヴェさん……」

「これから街を出るまで空を移動する」

「空を……」


 やっぱり聞き間違いではなかった。しかし意味が理解できない。


「もう一度背負うからしっかり掴まっていろ」


 そう言って、幼児靴の男タントルーヴェは背を向けて手を軽く構えた。


「……よろしくお願いします」


 環はおそるおそる棟から手を離して、タントルーヴェの太い首に腕を回す。両手が使えるようになったタントルーヴェは、今度は環の尻ではなく太ももを抱えるように手を回して立ち上がった。


「舌を噛むから、口を閉じた方がいい」

「は、はい」


 よくわからないなりに、忠告に従って口を閉ざす。タントルーヴェは棟の上を屋根の端に向かって滑るように駆け出した。


(……はいっ!?)


 そして屋根が終わる直前で踏み切って跳躍する。


(うそっ! いやぁぁっ!!)


 環は心の中で絶叫した。タントルーヴェに回した腕に力が入る。


 空中に飛び出たと思った瞬間、景色が変わってタントルーヴェは見知らぬ建物の屋根に着地した。止まることなく駆け出して今度は方向を変え、屋根の斜面を駆け下りまた跳躍した。


(いっ……!)


 環の内心の絶叫が始まる前に、また景色が変わって別の建物の屋根をタントルーヴェは駆ける。そして跳躍、景色が変わり別の建物に着地して駆け、をくり返す。


(…………)


 環は背後を振り返る。タントルーヴェが飛ぶたびに景色が一気に遠ざかっていく。数十メートル間隔で瞬間移動を繰り返しているようだった。


(……空を飛ぶって、こういうこと……)


 想像した言葉のイメージと違っていたが、確かに飛んでいると言えないこともない。


(さすが異世界。なんでもありね)


 冷静になった環は、深く考えずに納得した。


 風を切って走るタントルーヴェは跳躍をくり返す。パニックから立ち直った環は、今度はだんだん気分が悪くなってきた。


 飛んだと思ったら景色が変わって駆けている。一瞬浮いた胃が落ち着かない。目に映る景色と体の感覚が噛み合わず、乗り物酔いのようになっていた。ただでさえ今は体調が悪いことも追い打ちをかけた。


(…………)


 環はそれでも一応は我慢した。自分のような重い女を文句も言わずにおぶってくれているタントルーヴェに、「酔いました」などと言えないと思ったからだ。


(……やっぱり駄目)


 ひたすら繰り返される中途半端な浮遊感と疾走に、我慢が限界に達した環はタントルーヴェの胸を三回叩いて、降参を伝えた。このままタントルーヴェに吐き戻す方が失礼になる。


 異変を察知したタントルーヴェは、どこかの建物の屋上に着地すると同時に環を下ろしてくれた。環は冷たい屋上に座り込んで口を押さえ、荒い息を繰り返した。


「どうした?」


 タントルーヴェの息も少し上がっている。


「ご、ごめんなさい……。気分が……悪くなっちゃって……」

「…………」


 タントルーヴェが沈黙した。呆れているのだろう。逃亡中に乗り物酔いとか、自分でも情けないと思う。言い訳をさせてもらえるなら、環の体調がどれだけ芳しくない状態なのか説明したいが、そんな元気はない。


 視界に映る幼児靴を、ぜえぜえしながら眺めていると、目の前に細い望遠鏡のような筒が差し出された。続いてタントルーヴェがしゃがみ込む。


 環が目線を上げると、タントルーヴェは顔を覆っている布を首に下げたところだった。いかつい顔で茶色の目をした男には見覚えがあった。首筋まである髪の毛は薄い金髪をしている。


「……あなた、たしか神殿にいた……」


 環が召喚されたときにいた、タルギーレの護衛の一人だ。高笑い男を拘束して連れて行った人物だったと思う。


「ああ、憶えていたか……」

「……タントルーヴェっていう名前だったのね……」

「ああ……。ほら水だ。飲むといい、少しは落ち着く」


 十五センチくらいの長さの筒には、確かに飲み口の穴が開いていた。

 筒の縁と胴体を三等分した位置に金色の縁取りがされていて、地の色は深い赤、繊細な蔓と花が白蝶貝のような光沢の素材で象嵌ぞうがんされ、女性的な印象を受ける。幼児靴といい、可愛い物好きかもしれない。


 それはともかく、喉の気持ち悪さをなんとかしたいので、ありがたく頂くことにした。


「ありがとう」


 環は一口飲んで驚いた。冷えていて美味しい。山中に湧く清水のようだった。もう一口飲んで吐息をつく。少し胸がすっとした。


「……すごく美味しい。ありがとうございます」


 お礼を言ってタントルーヴェに返す。


「もういいのか?」


 環は弱く微笑んだ。


「はい。少し楽になりました。出来ればあともう少し休ませて貰えると……」

「……仕方ないな」


 しゃがんでいたタントルーヴェはそう言うと、自分も片膝を立てて座りこんだ。いかつい見た目のわりにいい奴のようだ。


「すみません。ありがとうございます」

「いや、吐かれるよりはマシだ」

「……すみません」


 タントルーヴェも水を飲みだした。環が膝を抱えて見ているとタントルーヴェは首をかしげた。


「どうかしたか?」

「あ、その、結構容量があるんですね、その水筒」


 見た目はコップ一杯が関の山だと思えた。だから二口で遠慮したのに、タントルーヴェはもう一杯以上は飲んでいる気がする。不思議なものを見る目の環に対し、タントルーヴェは水筒を軽く振った。


「まだあと大甕おおがめ一つ分は残っているかな」

「残っている? 大甕おおがめ一つ?」

「故郷の湖に繋がっているんだ」

「え? ま、魔法か何かで、ですか?」

「……まあ、そんなもんだな」

「……すごい」

「異界にはないのか?」

「ないです。そんな便利な道具。……すごい。……大甕おおがめというと、どれくらいの大きさですか?」

「……」


 少し考えたタントルーヴェは手を動かして大きさを示した。百リットル以上はありそうだ。


「すごい」


 環は感嘆した。


「すごいですね。それだけあれば、水場を確認しながら縦走とかしないで済むじゃないですか。羨ましい」


 山小屋で高いお金を出して貴重な水を買うことも、水の残りを計算しながら、ちびちび飲まなくてもいいなんて羨ましい限りだ。体だって拭ける。


「例えがわからんが、まあ、便利だな」


 環は強く賛同した。


「便利ですよね。その柄もきれいで、持ち歩くのも楽しそうです」


 そう言うと、茶色の目が細められた。


「これは、妻の趣味なんだ」

「妻? 奥様がいらっしゃるんですか?」

「ああ」


 意外に隅に置けない男だったようだ。


「奥様からの贈り物?」

「いや、リリーシェラ……妻の物を貸りてきた」

「あー……なるほど。出張の間、少しでも奥様を思い出したいと……なるほど、なるほど」


 ははーん、可愛い奴じゃないか。と、環が微笑ましくニマニマしていると、タントルーヴェが居心地悪そうにする。そのとき、白けた渋い声が近くでした。


「おぬしら……。姿が消えたと思って戻ってみれば、何をしておる」

「あ……」


 フクロウが不機嫌そうな顔で屋根の端に止まっていた。


「無駄口を叩く暇があれば、とっとと来んか」

「す、すみません。私が吐き気をもよおしてしまって、休憩をお願いしたんです……」

「吐き気……?」


 フクロウが呆れたような声を出した。奥さんの水筒で水を分けてくれたタントルーヴェとは大違いだ。タントルーヴェが頭を下げる。


「申し訳ありません。すぐに出発します」

「急げ」


 フクロウが飛び立つ。タントルーヴェは、また顔を布で覆いながら環に向き直った。


「もう半分以上過ぎている。あと少し辛抱してくれ」

「わかりました……あの」

「どうした?」


 せっかく少し打ち解けたので、気になって仕方ないことを尋ねてみることにした。


「その靴は、さすがに奥様のものではないですよ、ね?」


 まさか奥さんが、この大男と同じ足のサイズということはないだろう。だとしたら、やはりタントルーヴェが自分で選んだ靴ということになる。

 疑惑の目を向ける環に、タントルーヴェは途端に真顔になった。


「……これは、任務のためにエーベリュック様から与えられたものだ。俺の趣味ではない」

「そ、そうでしたか……それは失礼を……」

「ピックリックの忍び靴という妖精の靴だ。視線の通る場所に移動できる。慣れれば一度に百リードも飛べるそうだが、俺はまだ無理だな」

「へ、へぇー……」

「必要だから履いている。俺の趣味ではない」

「……すみませんでした」


 二回も念押しされたので環は謝っておいた。しかし、百リードという単位がわからない。今までも一度に四、五十メートルくらいは飛んでいそうな気がするが、百メートルくらいだろうか。


 タントルーヴェが水筒を縦に押し潰すようにして縮めて、小さな缶詰めサイズにした。途中の節のような部分で内部にスライドできるようだ。


「あ、いいですねぇ、小さくなるんだ。羨ましい。持って帰りたいなぁ……」

「持って帰る……」


 思わずこぼれた本音を聞いたタントルーヴェの動きが一瞬止まり、ちらっと見てから視線を逸らせた。環は苦笑いする。


「別に奪おうだなんて思ってませんよ」

「いや、そういうわけじゃないが……」


 それきり無口になったタントルーヴェは、腰のポーチに水筒を入れて環に背を向け、おぶさるよう促した。ため息をついた環は再びおんぶをしてもらい、目をつむって慣れない跳躍に耐えた。


 冷たい水のおかげか、なんとか吐かずに街の外に出ることができた。

 森の横の人気のない街道に降り立ち、タントルーヴェの背から降りたときには、お互いに大きく安堵の息を吐いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る