第4話 全力のさよなら

 食事会の翌朝、いきなり母に抱き起された私は、面食らいながらも、この大切な人をぼんやりした意識のまま抱きしめた。


 なぜかって?

 私を起こした母は、ぼろぼろ涙をこぼしてたんだ。

 大好きな母さんが泣いていれば抱きしめてやるのは当然のことだろう?


 長いことそうしてから、ようやく私はそこに弟の姿がないことに気づいた。


 「お母さん。りゅうは?」


 問いかけると同時に、母がその場に泣き崩れてしまったから、「ああ。もう彼のことを聞いてはいけないのかもしれない」と麻痺しきった心の奥でつぶやいた。


 それから私がしたことといったら、本当に恥ずかしい限りだ。


 弟が使っていた物や、彼の名前が書かれた物・・・面影の残るもの、どんなつまらないものでも、彼の存在が感じられればなんでもよかった。

 それらをひたすら集めつづけたんだ。


 彼が保育園に持っていってた折れたクレヨンなんかの道具や、寝るときに握りしめていたお気に入りのバスタオル。

 写真、くつ、一度も読んでいなかった彼の名前の入った絵本・・・・・・。

 全部だ。

 全部全部!


 けれど結局、それらが私の手元に残ることはなかった。

 私が気づいた時、それらは数を大分減らしてしまっていたんだよね。

 その時初めて、間抜けな私は母がそれらを少しずつ処分していることに気づいたんだ。


 慌てて隠し始めてみたけれど、4歳の我が子が大切な物を隠す場所なんて母親には全てお見通しだったもんだから、瞬く間にそれらは姿を消してしまった。


 手元には弟が寝るときに抱いていたカバの絵の描かれたバスタオルが一枚残っているだけ。


 それでもまぁ、彼が最も大切にしていた物は残ったのだから良しとするしかなかった。

 母に「捨てないで」とは言えなかったんだ。

 だって、もう彼女の涙だけは、どうしても見たくはなかったからね。


 それともう一つ、私の心を紛らわせてくれる存在ができたのも大きかったんだと思う。


 弟が父に引き取られたことで、この家に住む最年少者は私になった。


 前述のとおり、祖母はとにかく一番幼い者にはとことん甘くするんだ。

 まるで人が変わったかのように、祖母は激アマ婆さんに大変身した。


 激アマ婆さんは、人知れず弟を恋しがっていた当時の私を連れて、頻繁にある場所を訪れるようになった。


 そこは彼女の友人の経営する美容室であり、弟と同じ歳になる男の子がいた。

 その時にはすでに、私の頭は何かよからぬ方向にやられてたのかもしれないね。

 私はそこにいる彼をどうやら弟と思いこんでしまった。


 その彼は弟と同じくらいとても優しい子だったものだから、難しいことは考えずにいつも私に寄り添ってくれた。


 毎日のように遊びに行っては、お気に入りの図鑑を見せたり、庭に出て虫や草花を一緒に眺めたり、時には転げまわってじゃれたりした。


 これがまた自分に対して非常に頭にくるところなのだが、この心優しい少年の記憶も弟の記憶同様、そのほとんどがおぼろげになってしまっている。


 なぜそんなことになったのかって?


 この幸せな時間は、やっぱりただの夢でしかなかったからだ。

 いい夢ほど、冷めてしまった後でどんなに思い出したくても、なかなか思い出せなくなっているものでしょ?


 ほんの数カ月儚くも続いていたこの夢は、あっけなく途切れてしまった。


 お佳代かよさんという、世話好きのおばさんが、母に見合いの話を持って来たことでね。


 見合い相手の男の人は私とよく遊んでくれた。

 馬になって私を背にのせてくれたり、昆虫採集にも付き合ってくれたし、カエルをつかむのだって母と違ってへっちゃらで、とてもいい遊び相手になってくれた。


 だが、彼が現れると同時に私の元から失われた物が三つあった。


 一つは激アマ婆さん。

 いきなり元の鬼ババアに逆戻りした。


 もう一つはあの優しい少年と過ごす時間。

 そして最後の一つは・・・カバの描かれたあの、弟のバスタオルだ。


 その日から、この家にいる誰も弟の存在を知る者はいなくなった。


 「竜とは、またいつか会える?」


 最後の彼の名残を失ったことで、魂を引き抜かれるほどの寂しさを感じ、さすがにこらえきれなくなってしまった私は、泣かせてしまうだろうかとどこかで怯えながらも、ついに母に問いかけた。


 けれど、幸いなことに母が涙を見るようなことにはことにはならなかった。


 「竜?誰のこと?」


 「弟の竜のことだよ。」


 「きょう。あなたに弟なんて最初からいないでしょう?」


 これだけのやり取りで、当時の私は幼かったにも関わらず、奇跡的にも正しく理解していた。


 「竜はもういない」「覚えていてはいけない存在になってしまったんだ」と・・・・・・。


 ここからは結構、全力だったよね。

 もしかしたらこんなに真剣に・・・気持ちを集中して命がけで努力をしたのは、人生でこれが最初で最後のことかもしれない。


 「竜のことは忘れる。」

 「弟はいない。」

 「竜なんて知らない。」


 血を吹き出しそうに苦しかった・・・・・・。


 祈る様にその言葉を唱え始めた当時のことを、今の私はどうにか思い出すことができたけれど、さっき語った以上のことは弟について、今でもまだほとんど思い出せないんだ。


 つまり、当時の私の願いは叶い、それまでの竜との思い出は私の中からきれいさっぱり忘れ去ることができてしまったということ。


 あの優しいもう一人の少年の思い出と一緒にね・・・・・・。

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