第5話 底辺世界の再訪者
俺達は再び下層にいた。
由衣は、昼夜通しての看病の甲斐もあって順調に良くなっている。
上層の混乱によって、下層の閉鎖は今のところ行われる気配がない。
「なあ、由衣。俺がナイフを隠してたこと、本当は知ってただろ?」
俺は昔から護身用ナイフを常に忍ばせている。上層に来てこのかた身の危険を感じることなど無かったが、こればかりは昔からの習慣というか病気のようなもので、今でも変わらない。
由衣は俺よりも長く下層にいた。上層に来て平和ボケした俺の殺気など、簡単に見破ったに違いない。
「ええ、知っていたわ」
「それで何故、挑発するようなことをしたんだ」
「兄様に刺されたかったからよ」
「……はい?」
「だって兄様、私が上層に来たことに全く気付かないんですもの」
「それで?」
「私のこと、勘違いで傷つけたら、きっと付きっきりで看病してくれるだろうなって……。それに、上層暮らしが長くなった兄様は、何か劇薬のようなものがなければ下層に戻ろうとはなさらなかったでしょう?」
「ただ帰ろうとだけ言ってくれればよかったじゃないか」
「兄様、それで本当に上層の暮らしを棄てて下層に戻ってくださいました?」
「それは……」
想像してみる。おそらく俺は由衣を説得して上層に残る道を選んだだろう。
「ほら、やっぱりこれしかなかったでしょう?」
「それで本当に死んだらどうする」
「それはそれで……良かったかもしれないわ」
「…………」
俺はあの時、こいつを本気で始末しようとした。
もし、急所を外れていなかったら。そう考えると、非常に恐ろしい。
後から知ったことだが、あの音声はわざと上層だけに流されていた。
ポンプ停止などという嘘っぱちの放送は、由衣が意図的に、上層を混乱に陥れるために打った芝居だったのだ。
散々下層民を振り回した上層に対する復讐でもあったのだろう。俺を誘き出すだけなら、もっと簡単な方法が山ほどあるのだから。
「それとね、兄様。私は兄妹3人で暮らしたここを沈められたくなかったの。兄様はこの都市全体を救おうとしていらっしゃったけれど、私はそれをやめさせてでもここを守りたかったのよ」
「なぜ……こんな腐った場所を?」
「兄様、今日は何の日か覚えていらして?」
「……」
「薄情なのね、弟の命日すら忘れてしまうなんて」
はっとする。弟が"鼠狩り"に遭って殺されてから、今日でちょうど7年だった。
俺は黒崎の爺さんに養子に取られて水無月の姓を失くし、同時に過去を棄て去って生きることを選択した。だが、忘れるべきでない大事なことまで忘れていたようだった。
上層での生活に染まり、いつの間にか下層の閉鎖入水はやむなしと考えていた俺に対して、この妹はそこまで信念をもって騒動を起こしたのかと思うと感心するしかない。
かくして、この騒動は「謎多き上層混乱・失踪事件」として一応の終結を見る。
騒動の後、柏原黒崎の両翁は権力の座から退いた。俺達の起こした騒動の責任を取った形だ。
強権的な両翁が退いたことで、下層を見捨てようという論調も以前ほどは見られなくなったようだった。
俺の推測に過ぎないが、由衣はそこまで先を読んでいたのだろう。
騒動のさなか、執務室から総帥代行と、ツートップの片割れの子息が姿を消した。それも、後には血溜まりと開け放たれた窓。
何があったのか憶測が憶測を呼び、現在進行形で俺達は人々の脳内で闇夜に紛れる暗殺者になったり、はたまた野垂れ死んだりしている。中には、2人揃って闇の巨大勢力に拉致されたとする陰謀論まであるらしい。想像力逞しくて結構だ。
何はともあれ、上層を巻き込む大騒動に至ったことで都市の維持に綻びが生じていることが改めて知られるところとなり、クロノスの議会は可能な限りの都市存続と、組織の権力構造見直しを発表した。ようやく、真に民主的な時代がやってくるかもしれない。
尤も、その恩恵が下層にもたらされるのがいつになるのか、そもそも期待できるのかという問題は残るうえ、衰退した工業の立て直しがきかなければこの都市の行きつく先は変わらない。
しかし、下層閉鎖は少なくとも当分の間行われることは無いだろう。
結果、すべては由衣の思惑通り。俺もセカイも、こいつの掌の上だったのだ。まったく、とんでもない。
あれから何週間が経っただろうか。俺達は、どうにか得た第19層の新たな自宅で今後をあれこれと考えていた。
この場所は、第26層ほど荒れてはいない。が、今日明日の生活に困る暮らしであることには変わりがなかった。
「なあ、これからどうするよ?」
「兄様が決めて」
「……とは言ってもな、中層以上には行けないし、どうしようかね」
「それよりも兄様、今日もまた何もお口にされないつもりですか?」
「まあさすがに、今日は食べるさ」
そう、俺はこの2日間、ほとんど何も食べていなかった。
下層の中でも最上層である第17層で労働にありついて由衣の分だけの食糧はどうにか確保していたのだが、そろそろ空腹で立っているのが億劫になってきている。
上層暮らしに染まり切った俺には、もはや後ろ暗い生活に戻ろうという気力もなく。
とはいえ、今となっては後ろ盾なんてものの一切ない俺達だ。それならそうと働きに行くしかない。
「行ってくる」
「(そんなに無理をしなくてもいいのですよ、兄様――いえ、"黒崎"傑様)」
うつむき加減のつぶやき。俺はそれを聞き逃さなかった。
こいつは何か重要なことを隠しているらしい――それは、俺たちの兄妹関係を揺るがす、決定的な何か。
「何か言ったか?」
とぼけてみる。
「いえ、無理だけはしないでくださいね」
こいつがこのままでいいと言うのなら、俺はもうそれで構わないと思った。
この腐った都市の中、腐臭漂う下層での、いつも通りの今日が始まる。
アンダーグラウンド -another story- もののふ(RiOS) @rios_paradox
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます