第4話 事件、混乱、逃走

下層区画の閉鎖淪没まで残り3日と迫ったある日の午後――それは、突然のことだった。

『1番ポンプが停止されました。只今より点検を行います。多少の水位上昇が予想されますので、下層区画の住民は避難準備を行ってください。繰り返します……』

非常放送設備から、自動音声が流れる。

総帥の執務室からのみ操作できる排水ポンプの停止措置が行われたようだった。

「あれ、今日って整備の予定あったっけ」

「いや……聞いてないな。緊急かね」


『2番ポンプが停止されました。只今より点検を行います。多少の水位上昇が予想されますので、下層区画の住民は避難準備を行ってください。繰り返します……』

2番ポンプ停止の放送、さらに続いて3番ポンプも停止した。

「……おいおい、どういうことだ?」

都市を維持する4つのポンプのうち、3つが停止。

「なあ、何かおかしくねぇか?」

同僚たちにも戸惑いが見られる。


『4番ポンプが停止されました。只今より点検を行います。多少の水位上昇が予想されますので、下層区画の住民は避難準備を行ってください。繰り返します……』


「やっぱおかしいぞこれ」

「下層の閉鎖早めたのか? にしては何も連絡無いが」

「いや、そもそも閉鎖の時にはパニック起こさせないために放送掛けないだろ?」

「総帥は一体何をしているんだ?」


点検の際には、ポンプを停止する。

これはよくあることだ。

しかし、全てのポンプを止めて保守作業をするには、組織に常駐する整備要員だけでは明らかに足りない。

作業の間に1層分くらいは沈んでしまうだろう。

同僚たちも、これは異常だとばかりに対応策を話し込んでいる。

「そういえば、柏原総帥が倒れたとかで先週から娘が代行で仕切ってるんだったよな」

「そういやそうだったな」

「総帥代行、大丈夫か? やることがずいぶん派手だな」

「沈んじまったらどうするんだ」

「そのあたりわかってんのかね。どうやらお転婆な娘さんらしいが」

「俺、忠告してくるわ。そういや代行の名前って何だ?」

「柏原、じゃないのか? 倒れた柏原の爺さんの娘――いや、養子だったか。たしかそのはずだが」

「それは知ってる。名字じゃなくて名前だ」

「柏原……柏原……そうだ、柏原由衣だ」

「――ッ!!」


――由衣。その名を聞くなり、俺は走り出していた。まさか、な。


執務室の周りは、混乱した職員たちで溢れかえっていた。

人垣を腕でかき分け肩で分け入り、警備員を跳ね除けて、執務室に飛び込んだ。

鍵は掛かっていなかった。


果たして、柏原由衣――否、水無月由衣はそこにいた。

後ろ手でドアに鍵を掛けると、目の前のそいつと対峙する。

「兄様、お久しぶりですね。兄様ならきっと、すぐに駆けつけてくれると信じておりました」

「何故だ……何故ここにいる?」

「兄様、昔仰っていたでしょう? 『楽園を創ろう』、と」

「ああ、そうだな。だから俺は爺さん――黒崎翁の権力を利用してクロノスに入った。全てはこのクソッタレな世界を正すためだ」

「でも兄様、やることが遅いんですもの」

「だってよ、組織の構造を変えて、下層民も救い、更に工業まで復活させようだなんて、そう簡単なことじゃない。俺はまだペーペーもいいところだ」

「使えないわね、兄様。楽園を創るんでしょう? 早くこんな場所、沈めてしまえばいいのよ」

語気を強めた妹。

何かがとんでもなく間違っている気がした。

――この場所を沈める?

ポンプを延命するのではなく、このまま止めてしまえと?

「由衣、お前まさか……」

「どう足掻いてもこの都市はもう終焉り。ポンプの稼動を弱めて下層を沈めたとしても、それは時間稼ぎでしかないわ」

「現状ではそうだ。しかし……」

「兄様、私はまた命の選別が繰り返されることが許せないのよ」

それには同意だ。割を食うのはいつも下層民で、上層のエリート共は他人事なのをいいことに見ないフリをする。

「しかし、だからといって皆で仲良く死にましょう、ってか?」

「一番平等ではありませんか?」

「…………」

それは要するに、すべての人間の命は平等に無価値だと言っているに等しい。

話にならない。

どこで道を誤ってしまったのだろうか。

ひょっとすると、最初から全てが間違っていたのかもしれない。

俺は嘆息すると、柔和な笑みを作った。

「由衣、仕方のない奴だな」

「兄様! 私に付き合って頂けるのですね!」

あの頃と変わらない無邪気な笑顔で駆け寄ってくる。

ああ、こいつは少しも悪びれないのか。

――『私がもし死に損なったり兄様と道を違った時には、情け容赦無く殺して頂戴ね』

ふと、あの言葉が過る。

そうだ、俺はあの時こう答えたはずだった……「ああ、わかった」、と。

何かが吹っ切れた。それはおそらく、上層に来て身につけた理性という名の何か。

この不肖の妹を、始末しなければならない――。

俺は、上着の裏側に隠していた"それ"を取り出すと、衝動に任せて由衣の腹に突き立てた。思ったより深くは刺さらなかったが、皮下に達した感覚はあった。


一瞬の苦悶の後、由衣の顔には一転して微笑が浮かんだ。

「兄様……ありがとう」

「………?」

もっと驚きや抵抗があると思っていた俺は、拍子抜けして辺りを見回す。

「ありがとう……、"騙されてくれて"」

その言葉が決定的だった。

執務席の側にある操作盤を見ると、ポンプは4台とも動作中のようで。

「なあ……どういうことだよ…………」

「……気がつきましたね、兄様。実はね、音声だけ………流せるのです……よ」

先程耳にした、同僚達の会話を思い出す。

――『そもそも閉鎖の時にはパニック起こさせないために放送掛けないだろ?』

そして、放送設備と必ずしも連動していないということは……つまりは逆もまた然り。

放送だけを流すことも可能だったのである。

俺は愕然とした。

突き出した右手は鮮血で染まっている。

――なぜ、由衣は俺を、或いはこの都市全体を騙すような真似をしたのだろうか?

――なぜ、由衣は俺を挑発するような真似をしたのだろうか?

冷静さを欠いた頭では、いくら考えても答えが出そうになかった。

一つ確かなのは、全ては俺の早とちり、とんでもない間違いを起こしたのは俺の方だったということだ。

「どうして……。ごめん、ごめんな。今止血して……医者も呼ぶから」

「それは駄目……。兄様が……捕まってしまうわ。それに、大丈夫……よ、私はこの程度じゃ………死なない……わ」

そう言って、由衣は上着の裾を捲った。

白く華奢な身体には、赤々と血を垂れる刺傷のほかに、幾つもの深い傷が見えた。

俺と同じ。生きるために殺し合ってきた者の身体だ。

――そうだったな。俺達はスラムの人間。

後ろ暗いことをして生きてきた人間だ。

今更1つや2つ罪が増えたところで何を怖がる必要がある?

考えてもみよう。俺の語った理想を求めるとなったら、どの面下げて正義を気取れば良いと言うのだ?

都市が腐っているだとか、権力構造が腐っているだとか、そんなもの以前に俺の生き様こそ腐っていはしまいか?

しかし、そんな骨の髄まで腐った人間にとってさえ、兄妹という存在は特別なものらしい。

俺は数瞬前に殺しかけた目の前のこいつを、今は何としても助けたいと思っていた。

「ねぇ、兄様……。私を連れて……ここから、逃げてくださらない?」

瞬間、心は決まった。もう迷いはなかった。

「ああ、俺達の"楽園"へ行こう」

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