君の記憶と、君との約束

高梨結有

君の記憶と、君との約束

「この『井の頭恩賜公園いのかしらおんしこうえん』には何本の桜の木があるか知ってる?」

 僕は隣を歩くユカコにいた。

「うーん、そうだねえ……」

 ユカコは植わっている桜の木を一本ずつ数えているのか、小さな声で「一、二、三」と口ずさみながら辺りを見回している。そして数え終わると僕の方を向き、

「えっとね、百三十八本ぐらい!」

 と目を輝かせながら答えた。それがなんだか子供っぽくて、僕はつい笑ってしまった。

「ふふっ。残念。もっとあるよ」

「じゃあ……二百六十一本!」

「もっともっと」

「三百五十七!」

「おしい、もう少し。というか、なんでどれも中途半端な数字なの?」

 そう言って僕は笑う。そんな僕を見て、ユカコは口を尖らせながら言った。

「だって、なんとなくそんな気がしたんだもん。ねえ、もういいでしょ。正解教えてよ」

 意地悪な僕のことを、肘で軽く小突いてくるユカコに促されながら、僕は答えた。

「正解はなんと……約四百本だよ」

「えーなにそれー」

 納得がいかないのか、ユカコは不満そうな顔をする。

「結局中途半端な数字じゃん。だったら私が答えた三百五十七本でも正解でいいじゃん」

「まあまあ、そう言わずに。あ、それよりさ――」

「まーたそうやってはぐらかす……。で、なに?」

「実はここの桜の木ね、夜になるとライトアップされて、それがすごく綺麗なんだって。今日はこのあと予定があるから無理だけどさ、いつかまた、一緒にその様子を見に来ようよ。この場所にさ」

 僕の言葉を聞いたユカコの顔には、さっきまでの不機嫌さはもうどこにもなく、代わりに嬉しそうな笑みが浮かんでいた。そしてユカコは当然のように、

「うん、いいよ。約束ね」

 と、明るい声で返事をした。


 あの日、僕たちが初めて井の頭恩賜公園を訪れた時、僕たちはまだ大学生だった。

 あれから十年が過ぎ、その間僕とユカコは夫婦となり、一緒に過ごす時間も格段に増えた。多少の言い争いや喧嘩をすることはあっても、僕たちはそれ以上に一緒にいることに幸せを感じていた。

 だから、あの日交わした何気ない約束なんて、正直いつでも叶えることができると、ずっとそう思っていた。そう信じていた。


 今日、僕はあの日ぶりに井の頭恩賜公園にやって来ていた。もちろん、ユカコも一緒だ。ただあの日と違うのは、ユカコが僕の隣を歩いていないことだ。

 ユカコは僕の前、僕が押す車いすに乗っていた。

 僕は車いすにブレーキをかけると、ユカコの前に回り、どこかうつろな眼差まなざしをしているユカコに訊いた。

「ユカコ、この場所覚えてるか? 昔、僕たちがまだ大学生だった頃に、一緒にデートに来たところだよ」

 ユカコは辺りをキョロキョロと見渡すと、申し訳なさそうな表情をしてから、

「うーん……ごめん。全然思い出せない……」

 と静かに言った。

「ううん。気にしなくていいよ」

 僕は明るく答えた。

 そう。ユカコは思い出せないのだ。あの日の約束も。僕と出会ってから過ごした日々も。

 ――数年前、ユカコは仕事から帰る途中、交通事故に巻き込まれた。幸い命は助かったものの、自分の足で歩くことはできなくなった。そして事故の際、頭を強く打ち、記憶をつかさどる脳の一部に深刻なダメージを負った。

 記憶障害を引き起こしたユカコは最近の記憶を忘れ、反対に昔の記憶を思い出し始めていた。

 ある朝目が覚めると、何年も前に亡くなった両親はどこにいるのかと訊いてきたこともあった。そしてある日は、唐突に高校時代の友達であるアヤちゃんの家に遊びに行くと言い出したこともあった。

 最近はその症状もより深刻になり、僕の名前を思い出すのに時間がかかることもある。

 僕と彼女が出会ったのは、大学に入学した後のことだ。あの日、この公園にデートでやって来た時、僕たちは付き合い始めてまだ数ヶ月しか経っていなかった。そしてあの日の記憶を、今のユカコはすでに忘れている。それはつまり、ユカコの記憶の中では、僕と過ごした日々はもうほとんど残っていないということだ。

 でも今日、僕はここに、井の頭恩賜公園にやって来た。記憶障害の状態から見て、ユカコがこの公園のことを覚えていないということは分かっていた。でもそれでも僕はここに来た。それはこの場所が、ほんの些細ささいなことだけれど、僕とユカコがまた来ようと、ライトアップされた桜を見に来ようと、たしかにそう約束した場所だったからだ。

 ユカコの記憶を取り戻すために僕は最善を尽くした。もちろん病院にも行った。色々な検査もした。この公園以外にも、記憶を取り戻す手掛かりになりそうな場所を巡ったりもした。親交のあった人にもたくさん会った。でもユカコの記憶は良くなることはなく、どんどん昔に戻っていった。

 もう僕には、僕たちには、この公園で交わしたあの日の約束しか残されていなかった。それにすがるしかなかった。でもそれも無意味だった。ユカコはもう、忘れてしまったのだ……。

 僕は泣きそうになるのをこらえ、心配そうに見つめるユカコに、無理やり作った笑顔を見せながら言った。

「もう少し、見て回ろうか」

「うん……」

 ユカコは小さくうなずいた。

 僕は車いすのブレーキを解除すると、車いすを押した。

 ひょうたん橋から七井橋へと続く道を歩く。

 頭上にはアーチ状に伸びた桜の枝があり、風が吹くたびに桜吹雪が舞う。

「綺麗だね……」

「うん……」

 ユカコは舞い落ちる一枚の桜の花びらをじいっと見つめていた。その花びらが地面へと落ちると、また顔を上げ、今度は別の花びらに視線を移し、その花びらが地面へと落ちるまで見つめ続けていた。そんなことを何度も、何度も繰り返していた。


 夕闇が迫る時間帯。園内は徐々に暗くなってきた。

「もうすぐ桜がライトアップされる時間だね。寒くはない?」

「うん、大丈夫」

 桜の花びらに視線をえたままユカコは答える。そんなユカコの後頭部を僕はじいっと見つめる。

 すると突然、見つめていたユカコの頭が小さく震えたかと思うと、ユカコは車いすに座ったまま上半身を前に倒し、うずくまるような姿勢になった。

「……ユカコ?」

 返事はない。

 僕は慌てて車いすを止め、ユカコの前に行き、ユカコの顔を覗き込んだ。

 僕が覗き込むのと同時に、ユカコは勢いよく顔を上げた。

「ユカコ、突然どうしたんだ?」

 ユカコは僕の問いに答えることなく、目を細め僕の顔をじーっと見つめる。

「ユカコ?」

「お兄さん、誰?」

「えっ?」

 思わず声が裏返った。いつの間にか視界がかすみ、頬を伝う暖かい感触があった。

「お兄さん、どうして泣いているの? どこか痛いの?」

 ユカコは僕の頭に手を伸ばすと、僕の頭を撫でた。

「い、いや……。そうじゃ、ないよ……。平気だよ……」

 喉の奥に何か熱い塊のようなものが詰まっているみたいに、上手く声が出せない。

「ほんとうに? でも、すごく辛そうだよ」

 ユカコの目には事故に遭う前の、記憶を失う前の輝きが戻っていた。でも僕には分かった。その目の輝きは、僕が彼女と知り合うよりずっと前のものなのだと。目の前にいるこの女性は、もう僕が知っているユカコではないのだと。ユカコの知っている僕は、もうどこにもいないのだと。

「ご、ごめんね。いきなり泣いたりして……。でも、大丈夫だから……」

 僕がそう言うとユカコは困った表情で、うーん……とうなりながら何かを考え始めた。そして、あっと声を上げると僕の頭から手を放し、頭上の桜を指さした。

「ねえ、お兄さん。お兄さんはこの公園には何本の桜の木があるか知ってる?」

 僕は目許めもとを手で覆いながら首を縦に振った。

「なんだ、知ってるんだ。でもね、私も知ってるんだよ」

 ユカコはそう言うと、まるで歌でも歌うかのように声高らかに言葉をつむいだ。

「たしか、百三十八本だったかな? あ、違う。二百六十一だ。あれ、それも違うな。じゃあ、三百五十七本だっけ?」

 ユカコは、おかしいなぁ、知ってるはずなんだけどなぁ、と首をひねる。僕はこみ上げてくる熱いもののせいで、何も言うことができなかった。

「あ、思い出した!」

 そう嬉しそうにユカコは声を上げた。

「正解は……約四百本だ。ねえ、お兄さん。合ってるよね?」

 僕は何度も首を縦に振り、

「うん、合ってるよ……」

 と絞り出すように言った。

「やった、正解だ。……というかお兄さん、いつまで泣いてるの?」

 ユカコはふふっと笑った。

「ご、ごめん」

 震える声で僕は謝る。

「まあ、いいけどね。あ、そうそう。この桜の木ね、夜になるとライトアップされるんだって。前にね、誰かに教えてもらったの。せっかくだからさ、お兄さんも一緒に見て行こうよ」

 僕はこくりと小さく頷く。すると目許に溜まっていた涙が地面に落ち、霞んでいた視界がわずかに晴れた。

 彼女の笑顔が映る。何年も見ることのなかった、心の底からの笑顔。

 ――そうか、僕は勘違いをしていたんだ。ユカコが記憶を失ってから、僕はその記憶を取り戻すことに躍起やっきになっていた。僕の知っているユカコがいなくなってしまうと恐れていたんだ。でも結局、記憶を失ってもユカコはユカコのままだった。僕の知っているユカコは、ちゃんと目の前にいた。

 ユカコの記憶は、もう元に戻ることはないのかもしれない。でもユカコは、こうやっていつまでも、変わらぬ彼女らしさで僕のことを笑顔にしてくれるだろう。

 今度は僕が、彼女を笑顔にする番だ。

 僕は涙をぬぐいユカコを見た。

「ユカコ」

 僕が呼びかけると、ユカコは「うん?」と小さく返事をした。

 僕は軽く深呼吸をしてから言った。

「実はここの桜の木ね、夜になるとライトアップされて、それがすごく綺麗なんだって。今日はこのあと予定もないしさ、だから……その様子を一緒に見ようよ」

「いや、それいま私が――」

 ユカコは何かを言おうとしたが、一瞬考え込むと、すぐに笑顔に戻り、

「うん、いいよ」

 と、明るい声で返事をした。


 黄昏たそがれどきが終わりを迎えると同時に、園内の桜は光を帯び始めた。

 その光輝く桜の木々の側で、幸せそうな表情をしたある男女が、仲良く桜を見上げていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君の記憶と、君との約束 高梨結有 @takanashiyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ