4F 残響

401



 深い霧が立ちこめたところへ微風が吹き込むように、季人の意識はゆっくりと覚醒し、瞼を開いた。


 眼球を動かし、ここが見慣れた事務所であり、自分が今ベッドに横たわっていることを、背中の感触と視界から理解した。


「まんまとしてやられたね」


 鼓膜にフィルターが掛かったようにウィルの声が遠くに聞こえる。


 椅子に腰掛けていた彼が季人の様子を一瞥して声をかけた。


「おはよう季人」


「……おぉ」


 寝過ぎた後の体の様に全身がだるい。 頭を動かすのも億劫で、目線だけ動かして季人は左を見た。


 普段よく見る、片手にハンバーガーを持ったままキーボードを操作する相棒、ウィルだ。


 季人は再び視線を真正面に戻し、天井を見上げる。


「どうして、俺は意識をもっていかれたんだ……」


 ハッキリとは覚えていない。 だが、気付けば意識は朦朧とし、立ち上がる事も無いまま床を舐めていた。


 その後どうなったのか……起きたばかりで覚醒しきっていない頭では思考が収束しない。


 どうやってここまで戻ってきたのかも分らない。だが、ウィルが隣にいるという事は、彼にここまで運ばれたという事だろうか? いや、そんな事より……。


「……笛の音は聞いてなかったはずだ」


 自分は確かにそれを防ぐためのヘッドフォンを装着していた。 音楽……音によって感覚を支配されるのであれば、対策していた自分には影響は無いはずなのだ。


 しかし、結果的に自分はセレンの術中に陥った。 全身から力が抜けていき、催眠術に陥ったことに対する興奮を覚える暇もなく、意識を奪われた。 今まで生きてきた中で一度も体感したことのない感覚だった。


「……季人、ハーメルンの笛吹男の逸話は知ってるかい?」


 降って湧いたようなウィルの問いかけ。 何を意図するのか掴めなかったが、季人はそれに頷き、肯定を示す。 有名なドイツの民間伝承の一つだ。


 ネズミの被害に困っていたハーメルンという町の人々はある時、町にやってきて駆除を申し出た道化師のような恰好をした笛吹きに、ネズミ退治を依頼する。


 笛吹きは自ら奏でる音色を使って町中のネズミ達を川へと誘導し、ネズミ達を溺死させて見事に退治してみせた。


 しかし、町の人々はその奇行を怪しみ、笛吹きに報酬を払わなかった。


 笛吹きは怒り一度は町を後にするが、数日後再び現れた。


 大人たちが教会に出かけている間に、笛吹きは町中の子供達をその笛の音で町の外へと誘導し、そのまま笛吹きも子供達も二度と帰ってこなかったという話だ。


「その話には、こういう一説がある。 百三十人の子供が連れていかれたが、逃れた者もいる。 その子達は、聾者と、盲目だったとか」


「盲目……目が見えなかったから助かったっていうのか」


「音楽とは、耳だけでも楽しむことが出来る芸術ではあるけれど、その演奏者を見る事で、さらに引き込まれる事がある。 それは、臨場感という言葉が適切なのかもしれない」


 コンサートやライブが典型に当たるのだろうが、この場合は……。


「はは。 こう言いたいのか? 清廉な雰囲気を纏った少女に見惚れてしまったって」


 思い返してみれば、あの時、あの瞬間のセレンは舞台効果もあったかもしれないが、確かに聞いている物を引き込む……魅了するだけの美しさがあったのは間違いない。


「かわいい女の子は嫌い?」


「好きだ。 ロリコンじゃないけどな」


 男なら綺麗な異性に目を引かれないわけがない。 そこに年齢の差など関係ない。 綺麗な物、可愛いものは森羅万象愛でるものだろう。 


「じゃあ見惚れちゃうのも仕方ないね。 ……いや、まぁ冗談はさておき、これは中々の難問だよ」


 モシャモシャとジャンクフードを頬張りながら言うウィルが、本当に難問と思っているのかは季人にとって疑わしいものだったが、とりあえずは肯定しておく。


「あぁ……。 聴いてもだめ、見てもだめってのは、なかなかハードな相手だな」


 もし次に会うとしたら、ヘッドフォンだけじゃなく、ヘッドマウントディスプレイが要るな……。


 そんな事をぼんやりと考えていた季人に、ウィルが続ける。


「仮説の段階だから、そこまで深刻に考えなくてもいいかもね。 本当は別の要因が働いているのかもしれないし。 というか、もう会う事も無いかもしれないしさ」


「そう……だよな」


 運命というほどドラマチックな物でも、偶然というほど予測出来なかったわけでもない。


 それでも、一夜にして起こった出来事の締めくくりに出会った少女。 そのインパクトは今でも脳裏に焼き付いている。


 不可解で、非現実的な演出の中で邂逅したセレンの事は、忘れようと思っても無理だ。


「……」


 そう思うと、どこか名残惜しい。 もうあの異質な空間と時間を体感することが出来ない……。 残念だと心の底から思う。


 御伽の行方不明から始まった日常から乖離した短い捜索劇は、何とも味気ない幕引きとなった。


「……あれ?」


 そこで季人はふと、当初の目的であり、一番重要なことを思い出した。 というか忘れちゃいけない事だ。


 普段より重く感じる自分の上半身を無理やりベットから起き上がらせる季人。


「なぁウィル、御伽は……?」


 自分がこうして生きて帰ってきているのだから、御伽も無事だとは思うが……。


「彼女なら、今頃学校に行っているよ。 そろそろ昼休みじゃないかな」


 そう口にしたウィルの言葉は、季人を一時放心状態にするのには申し分ないほど簡素で、簡潔な回答だった。


「……学校に……昼休みって、え、は? いや、えっと、今何時だ?」


 部屋の壁に掛けられている時計に視線を移す。 単身と長身がちょうど真上で重なっていた。


 しかしそうではない。 季人が聞きたいのも、確認したいのもそこではない。


「行ってるのか? 学校に……」


「そうだよ。 今朝方、季人の電話が延々と鳴っていたから、きっと御伽ちゃんからじゃないかな。 大方、朝食を食べに来ない君の事が心配になったんだろう」


 ようやく頭も覚めてきたと思いきや、淡々と語られるウィルの話は、気の抜けた炭酸の様に味気ない、


 まるで誘拐事件前に逆行したかのような、初めから誘拐なんて無かったかの様な説明に、季人の頭の中は若干混乱気味だった。


「心配って……あいつ自分がどういう状況に巻き込まれていたのか、分ってないのか? いや、そもそもどうしてそんな事をウィルが知ってるんだ?」


「僕が草薙家に電話したから。 やっぱり状況は把握しておきたかったからね。 確か、朝の八時前くらいだったかな。 そうしたら、もう御伽ちゃんは登校した後だった」


「……え?」


「電話には神主様が出てね。 聞けば、いつの間にか彼女は自室で布団を敷いて寝ていたと言ってた。 私見で状態を判断した後にそのまま寝かせて、朝起きたころには、昨日の事は忘れていたとさ。 まぁ、みっちり説教はしたそうだけど。 理由も分っていない御伽ちゃんからしたら災難だろうけどね。 あ、それと神主様、季人にお礼を言っといてくれってさ。 後で季人からも電話しておいてくれよ」


「一体、何がどうなって……」


 玄関で眠っていた? それで、朝にはもう学校に行ったって……?



 ――「私がしたかった事は、ひとまずこれでお終い。 ここにいる人達にも別に何もしないわ」



 セレンは確かにそう言っていた。


 だったら、本当に、彼女は何がしたかったんだ。 何の為に御伽や他の人達を……。


「季人、そういう君もね、普通に帰ってきたんだよ」


 数瞬の時を置いて、「……は?」と口にする季人。


 普通に、帰ってきた? 普通ってなんだ? ウィルが運んでくれたんじゃないのか?


「ひょっとして、僕がここまで君を運んだと思っているのかい? 残念だけど、僕は君以上に非力でね。 成人男性を担げるほどのパワーは持ち合わせてないんだ」


 へはは、と笑いながら当然の事を話すように、自慢げに自身の前髪を弾くウィル。


「そりゃ、そうだろうけど。 それじゃあ、誰が?」


「だから言っているだろう? 君が、自分の足で、ここまで帰ってきたんだよ」


 子供に言い聞かせるように話すウィル。 


「……マジかよ」 


 初めはウィルが何を言っているか分らなかった。


 しかし、昨夜の……正確には真夜中過ぎの光景がフラッシュバックし、直ぐにあたりがついた。


 セレンの催眠術。 御伽たちが受けたそれと同じように、自分はまさに、ハーメルンの笛吹き男に操られた子供と同様、その音色によって夢見心地のままウィルの下まで誘導されたとしたら……。


 どうしてウィルの部屋だったのかは分らないが、可能性としてはそれが一番有力で、それ以外は考えつかない。


「もちろん、普通の精神状態じゃなかった。 昨夜、突然呼びかけに答えなくなった君の下に行こうと急いで準備していた時、女性の声で、「そこで待っていて」と君のスマートフォンで言われたんだ。 それで言われた通り半信半疑で待つ事数十分後、君が玄関をいつもの様に開けた時は相当驚いたよ。 でも、いくら話しかけても虚ろな目をしたままで、何も聞こえていないかの様に真っ直ぐベッドまで歩いてきて、そのまま潜り込んで寝息をたてたんだ。 正直な話、あの時に限っては今の君よりも僕は混乱の極みにいたよ」


「それじゃあ、御伽も?」


「君と似たようなもんだろう。 君がこの部屋に帰ってきた時間から察するに、近辺までは車で運ばれて、そこから催眠誘導による帰還が促されたのかもしれない」


 もしそうだとしたら、やっぱりあの場にはセレン以外にも、関係した人間が……協力者がいた事になる。


 それも、確かめようの無い推論にしか収まらないが。


 ばたっと季人は体をベッドに戻した。


 親父さんからの電話から始まった、慌ただしかったこの十二時間に、いちおうの一区切りがついた。


 あの時の、真夜中の音楽ホールで張りつめていた最高の空気と、感じた事が無いほどの緊張感が、まるでテレビの電源を切るかのようにぷっつりと消えてしまっていた。


 その事に、季人は一抹の寂しさを感じていた。

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