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 静まり返った屋内を非常灯の明かりとハンドライトだけを頼りに進むのは、精神的な安心、安定感を揺さぶるには絶好のロケーションだ。 人間は日の光の下にあるべきであり、火の明かりと共に生活してきたのだからそれも当然だ。


 夜や暗闇とは本来ならば避けるべきエリアであり、古今東西、潜在的な恐怖の伝承や事象は常に深淵から忍び寄る。 それは、文化レベルで人の心に刻み込まれているものだ。


 決して、断じて、季人の様に「マジでテンションあがってきた!」などと不謹慎にも口にする事は無いのだが、もはやそれは季人の性分のようなものなので、ウィルはむしろこの状況においては頼もしく思えた。 臆しているより、その方がサポートしている側からしたらよほど良いのだ。


「このビルの詳細とかは分かるか?」


『請け負ってるゼネコンの資料では……別にそう珍しいことはない、十階建てのよくある大型複合ビルだよ』


「完成前の複合ビルとはいっても、セキュリティーがザルなのはレアなケースだと思うぞ」


『いや、そもそもセキュリティーが本当に無いのか、切れているのか、ちょっと調べてみたんだ。 さっきはああ言ったけど、ここで手を抜くと面倒事が増えるからね』


 確かに、ここで油断した結果、実は動体探知機が仕掛けられていました……なんてオチになったら笑うに笑えない。 RPGの勇者ではないが、俺達の冒険がここで終わってしまう。 結果、姫は助けられず、コンテニューも出来ない。 それでは困るのだ。 


 季人は不安気に先を促す。


「……それで?」


『大丈夫、安心していいよ。 将来的には正面ゲートの天井に高感度型動体探知機が二つ。 非常口の扉に開閉感知型センサーが付く事になるけどね』


 これだけ大きなビルの中にある音楽ホールなら、国内外の有名な音楽団も招致するだろうから、防犯対策は万全を期す事になるのだろう。


 だが、今その厳重な守りは機能していない。


「……それじゃあ、音楽ホールは大丈夫なんだな?」


『一つもついてないよ。 それどころか、さっき入ってきた扉のセンサーも正式稼動はもう少し先だ。 まぁ念の為に正面から行くより舞台袖に繋がる裏口から行くのがベストだと思うよ』


「了解」


 内側との気圧の関係か、その扉を開ける時に少しだけ力が必要だった。 体を滑り込ませるように中へと入ると、空調の利いた生暖かい風が頬を撫でる。


 照明は点いているが、スポットが当たっている壇上とは別に客席は若干薄暗く、本来照らせるであろう明るさの三割弱程度だろうか。


 だが、違和感を覚えるのはそこではない。


 公演予定など無いはずの深夜に、なぜ照明も空調も点いているのかという事だ。


 季人は舞台袖の幕に身を潜めて会場内を見渡す。


 改めて見るとかなり広いと実感する。 天井も高く、八百席位は確認できる大型の音楽ホールだ。


「マジで、どうなってるんだ?」


『真正面から考えれば、誰かがこの会場に用があるって事なんだろうけど、この時間だからね。 ただ……』


「ただ?」


『今僕たちの最終目的は、御伽ちゃんを見つけて保護することだ。 そこにさえ焦点を絞れば、余計な事を考えずにすむ』


 ウィルの言う事はもっともだ。 ここに来た目的は、公演予定のない演奏を聴く為でも、美しい歌声を聴く為でもない。 


 だから、迷わず肯定する。


「それは間違いな……っ」


 瞬間、最後まで言い切る前に季人の心臓は跳ね上がり、幕の後ろに自身の体を最速で隠した。


「ウィ、ウィル」と、声量を極小にする季人。


『何?』


「一階客席の、右側中段近く……」


『うん』


「人が、座ってた。 女っぽい」


 薄暗がりの中でもどういうわけかその輪郭ははっきりと確認出来た。


 女と判断したのはラインの細さと、肩まで伸びた藍みがかった長髪。 そしてシルクの様な光沢を見せた純白のドレス。


『御伽ちゃんかい?』


「違う、そんな雰囲気じゃなかった。 それに御伽とは髪の長さも違う」


 多少距離が離れていても見間違うはずは無い。 毎日、それも年単位で付き合いのある御伽の事を、見間違えるわけが無い。


 途轍もない違和感を感じる。 それが季人の体を震わせる。 しかし、今の心境を正直に晒すなら、喜悦と危惧が同時に存在する自身でもよく分らないものだった。


 多くの衆目を集めるコンサートホールというこの場にふさわしい正装をしているのに、今この瞬間においてはあまりに場違いなタイミング。 舞台効果も相まって、異質な雰囲気を放っている分、より目立つ。 たった一人客席にドレス姿というのは、と言ってもいい。 


『他に人は?』


「一瞬だったから確認できなかった。 も、もう一回いっとく?」


 出来ることなら急激に上がった心拍数を下げる為の一服なり一杯なりが欲しかった。


 当然だが、そんな物はこの場に一つも無い。


『いっとこう。 それで最初に見た女以外に人がいるか確認してくれ』


「よ、よし。 分かった」


 現状で確認出来ているのは二名。 季人自身と不自然に席についている女。 その女が単独でこのような場所に居るというのは考えにくい。


 もしかしたらこの音楽ホール以外の場所にいるかもしれないし、ここからは死角となっている座席の影にいるかもしれない。


 しかしそれと同時に、本来の目的である御伽が居る可能性も十分ありえる。


 むしろ、ここまで事態がお膳立てされている中で、全くの見当違いでしたなんてのは勘弁願いたい。


「もし御伽が居たら?」


『直ぐに回収して全力ダッシュ。 女の子一人位なら持てるでしょ?』


「いや~、ちょっとお兄さん自信がないな~」


 季人の体力は一般成人男性のそれと同じ。 もしくは少し下位という自己分析。 そこに予想だが身長160弱で細身とはいえ体重が四十程の女性をリフトアップ出来るのか脳内で簡単な計算式を組み立ててみたが、期待値はそれほど高くない。


『そこは緊急時における潜在能力に期待しよう。 僕は君達をピックアップ出来るように待機しておくよ』


 自分でさえ感知していない不思議パワーなんて本当にあるのか小一時間ほど話し合いたいが、これから現場に向かって来てくれるというのならその時でいいだろう。


 まぁ自分の力は絶望的なほど非力というわけでもない。 いざ歯を食いしばってとなれば呻きながらでも掻っ攫っていく事にしようと季人は腹を決めた。


「了解……」


 一度深呼吸して息を整え、何か見ているようで見ていない視線を中空にむける。 さらにもう一度季人は深呼吸して、片目だけを幕の外に覗かせて客席を見渡す。 そして即座に隠れる。 その間、一秒。 


「……ヒュ、ヒューストン?」声の調子を上げ、おどけて言う季人。


『どうだった?』


季人は渇いて張り付いた喉に無理やり唾を送り込んで一拍呼吸を置いた。


「……目があった」


『え~と、誰と?』


「初めに確認した女だ。 ていうか、現在進行形でこっちに歩いてきてる」


 反響を抑制し、音色をクリアに伝えるための設計思想を持った音楽ホール。


 レッドカーペットの敷かれたその上を、しかし音も無く、不気味とは正反対の清廉な印象を与える姿でゆっくりと季人のいるステージの方へ歩みを進めている。


 距離を詰めるその一歩が季人の心拍数を火事が起こった際に打ち鳴らす半鐘の打鐘信号のように連打させる。


『おおっと、それはもう早々に腹をくくるしかないんじゃないかな?』


「え、は、早くね? 心の準備にあと十分は欲しいところ」


『残念だったね。 けど大丈夫だろ。 君は追いつめられた時の方が頭も口もよく回る』


「いや、俺のはその場しのぎの付け焼き刃なんだけど……」


『例えその場しのぎでも、刃が点いてるだけまだマシだよ』

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