3 浮き袋

 深海の家。外はまるで別世界だ。


 メグリが呆気に取られているうちに、アンコはその頭部を変質させた。

 頬と額が肥大していき、潮が引くように頭髪が後退して皮膚に埋もれた。


 まるで――チョウチンアンコウ。


 彼女は見た目通り、自分はチョウチンアンコウだと名乗った。

 なにやら長ったらしい種類を口にしたが、メグリは覚えきらなかった。


 外に出ればメグリは死んでしまう。実質メグリは監禁されたことになる。


 アンコはメグリに解放条件を提示した。


「ウチを好きになって……ウチの浮き袋になってよ」


「…………人間になりたいの?」


「は? バカじゃね? ウチ元々人間なんですけど。人間の肺がほしいわけじゃなくて、浅瀬にも行けるようになりたいだけ」


「…………」


「ウチさ、移り変わるものが好きなの。

 でね、タミちゃんがウチを好きになってくれたら、ウチに浮き袋ができるんだって。

 あの一番眩しいとこまで浮き上がっていけるの」


 唐突に、ゴトンと音がした。反響具合からして風呂場のようだ。


 メグリがこわごわ見に行くと、男の人が倒れていた。


「ああ、そのヒト陸に帰すの忘れてた」


 メグリの背後から風呂場を覗いたアンコがこともなげに呟いた。


「こっ、これ、どういう……」


 アンコの説明によれば、男性を無意識に連れて帰ってきてしまうらしい。

 それはチョウチンアンコウの特性で、今のところ不都合はないのだと言う。


 チョウチンアンコウはいわゆる矮雄の種だ。オスがメスより小さい。


 深海でオスがメスを発見するとからだに噛みつく。

 そのまま徐々に融合して、最期はメスのからだの一部になる。


 つまり多少それが人間にも応用されてしまうわけで。




 アンコはその日『収穫』した男をメグリに紹介するようになった。


 感情の抜け落ちた男の人が、うら若い乙女の部屋に落ちている。


 異常事態も異常事態。

 風呂場ならまだマシなほう。天井から落ちてきたり、掃除機を片付けようとクローゼットを開けたらいたり。


「ぎゃああああ!」


 メグリが悲鳴を上げれば、彼女はバツが悪そうに肩を竦めた。

 そして、このヒトはどこどこで拾ってきた、と付け足した。


 アンコに言わせれば「彼らは望んでその姿になったわけ。まあ……ちょこっと洗脳はしたけど大丈夫」とのことだった。


 それは果たして大丈夫なのか……?


「元に、戻せるの……?」


「戻るよ、役目を終えたら」


 アンコは鼻で息を抜くように笑った。


「ほんとウザイ。呼んでないのにくっついてきてさあ。

 まあでも、所詮? どんな生き物も所詮本能には負けんだよ。見栄とか建前とか理想論とか、全部取っ払ったらそれしか残んないの。人間も一緒」


 メグリの言葉は反射で出た。


「でも私は、メスよ。全部本能に従うのなら、なんで国光さんは私を選んだの?」


 初めて彼女はメグリがそこに存在していることを見つけたような顔になった。


 想定外のことに慌てふためくその顔。彼女の矛盾を突いてやれたことに、一段高みに立ったような浮ついた気分が過ぎった。


 直後にメグリは自分を嫌悪した。


 自分は何だ? この子の講師だろう? 揚げ足取るのが講師か? 違う!


 その時初めて、メグリは彼女の異常性を何とか正常に近づけてあげたいと思った。


 しかし、メグリが説教したところで受け入れる姿は浮かばない。そういうもの、として生きてきたのなら尚更。


 さらにアンコと過ごすうちに気づいた。

 彼女は他意や下心を頭に入れずに喋る。よく言えば純真、悪く言えばバカ。


 友人らがメグリの陰口を言い合う間、アンコは彼女らの背後の悪意に思い至らず、言葉のままに受け取ったらしい。

 それにはもう脱力するしかなかった。





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