1 誘因突起


 田実巡タミメグリは冬空の下――とは名ばかりの空虚な暗闇ばかりが漂う公園のベンチで震えていた。


 携帯機器から放たれる声が耳の奥に遠退いていってしまわぬよう、懸命に耳に押し当てた。


「生活費振り込んでくれ、ひとまず五十万。すまんな本当に……」


 誕生日に、そう電話口で父親から聞かされて謝られて、自分がどう答えたのか曖昧だ。


 だが、メグリは二つ返事したに違いない。

 声が遠退くのではなく、意識が飛びそうだったのだ。


 父は電話を切る間際、つけ加えた。


「あ、メグリ。お前まだ仕事辞めてないのか?」


 日付を跨ぐ前に、コンビニに走った。


 貯金から五十万を崩して父に送金。

 懸命に仕事して貯めた数字がごっそり消えていることを目の当たりにした。


 まるで自分が世界一、些末さまつな存在のような気がした。

 世の中の全部から責め立てられているようで、情けなさに呆然とコンビニの駐車場に立ち尽くす。


 ……何でお金渡しちゃったんだろう?

 ――父さんに必要だったからだ。

 

 何に使うんだろう?

 ――さっき生活費って言ってたじゃん。


 せっかく自家用車買うために貯めてたお金なのに一晩で消えた。これから切り詰めて生活しなくちゃならない。

 ――だから何? 父さんのほうが生活が苦しいんだから。


 私が父さんを養わなくちゃいけないの?

 ――私は長女なんだから当たり前でしょ。


「まだ仕事辞めてないのか」ってどういう意味なんだろう? 何の脈絡もなく出てきた話だったよね。 

 ――父さんが心の中でアルバイトとか嫌がってたの知ってたじゃん。


 どうしてお金は催促さいそくするのに仕事辞めろって言うんだろう?

 ――父さんはかくがついた、資格があるとか公務員とか、キャリアになる仕事に就けって言いたいんだ。


 現に仕事して経済的に自立してる娘に何で指図するの?

 ――心配してるだけでしょ。


 メグリは溢れ出る問答を遮断するために、呟いた。



「――不幸面すんな、恵まれてるくせに」



 やっと、上手く感情が抜け落ちていく。


 自分を正当化しようとか、父の非を探そうとか、泣こうとか、なにかと自身を慰めたがる気力をねじ伏せる。

 父が正しい、と言い聞かせる。


 メグリは高卒で社会に出て、まだ二年目。

 塾講師の仕事をアルバイトから始めて、正社員にしてもらって、一年も経たない。

 社会経験は皆無に等しい、はずだ。


 父の価値観が正しいに決まっている。


 ――本当は、そうでもないと気付いている。でも、どうしていいか分からない。


 もう一度、念を押した。


「不幸面すんな」


 泣くな。甘えるな。


 すぐに涙が引っ込んで、コンビニの灯りに、顔色の悪い無表情の女が映し出された。




 そんな酸鼻を極めた霜夜に、メグリは国光杏子クニミツアンコと出会った。


 正確にはその日初めて顔を合わせたわけではない。

 なぜなら、


「あれぇ? せんせぇ?」


 彼女は、ふらふらと公園に足を向けたメグリの顔を覗きこんだ。


 肩口に切り揃えられた黒髪。踵を履き潰したローファー。ブレザーの制服の、寒々しいミニスカート。大量のストラップがジャラジャラ跳ねる学生鞄。


「国光さん……」


 アンコはメグリの勤める塾の生徒だった。

 さらに言えば、メグリをいじめていた少女だった。

 少なくともメグリはそう認識していた。


『タミちゃん、靴片してー』『これコピーして』『甘いの買ってきて』


 そんなくだらない用事で呼びつけられて、幾度もその場で持ち物全部投げつける寸前までいった。


 だが、しなかった。

 保護者のクレームに直結するのは目に見えていたし、そもそも受験勉強を助ける立場である自分は彼女らに逆らえない。


 考えてみれば、家族にも仕事仲間にも生徒にもメグリはこき使われてばかりだ。


 メグリは自分の格好を改めて見下ろした。


 日本社会の無難をかき集めた服。オフィスカジュアルと称してよいギリギリの地味さ。


 ――この見た目から、私はダメなんだろうな。


 そして――唐突にメグリは深海に引きずりこまれた。





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