第6話 旅の想い出

 漣が起こされた時、既に太陽は地に堕ちかけていた。起こしたのは節であり、羽衣ももう着けている。

「漣、紐を付けて」

 起き上がった漣に向かって、顔に押し付けた白い布を着けた節が言う。漣は置かれた木箱から紐を取り、節の額に回して後ろで止めた。己も、白い布を顔に掛け、紐で後ろ手に結んだ。それと同時に、狐が静かに引き戸を引いた。

「ご用意は、お済みでしょうか」

 その言葉に、蒼維と節は頷く。掛けた白い布は、内側からは外の景色が臨めるようであった。外側から見えてはいないであろうか。節は漣の袖を引いて、話しかけた。

「漣、私はただ白い布を掛けているだけ。顔は見えない、」

 それに漣は、

「大丈夫だ。節の顔は見えてはいない」

 と、答えた。

 鹿威しのある中庭から渡殿を渡り、本殿へと入る。そこから、奥にある階を下り、庭に出た。竹で横側が遮られた入り口で、白い提灯を手にした狐が迎えた。提灯は既に明かりが灯され、ぼんやりと辺りを照らしている。

「改めて、ようこそお越しくださいました。この先は神々の領域、荒っぽい者も一柱、二柱いらっしゃいます。お気を付けて、節様。天照大神様から良い名を頂けますよう」

「有難う、狐さん」

 節は答えたが、かの狐が大社に着いた際に部屋へ案内した狐であるかは曖昧なものであった。荒っぽい神もいるのかと、節は少し怖くなり、思わず漣の掌を求めていた。それを悟った漣は、

「此処は神々の集まる地。目出度い所でもあるが、逆に弱味を捕まれやすい。手を繋ぐのは、此処を出てからが良いだろう」

 と、囁いた。その時であった。

「鬼比古様」

 女性の声が聞こえ、振り向けば巫女装束の顔を隠したモノが、漣を目掛けて駆けて来た。

「誰だ」

 連は首を傾げる。すると彼女は漣に抱きつき、

「お逢いしとうございました。宇治朔姫うじのさくひめでございます……」

 と、名乗った。その名は、漣には聞き覚えのあるモノであった。未だ人々が神を恐れていた時分、一つの社で番として暮らしていた生贄と捧げられた巫女である。

「……朔、か。お前も神になる事が出来たのか」

 漣は驚きに声を張り上げた。

「はい、鬼比古様が社を出られ、東に行ってしまわれてから、わたくしはあなたの治めていた山の主となりました。それから数百年……今まで何処で何をしていらしたのですか」

 此処で漣は、己の袖を引く者の存在に気がついた。

「朔、すまない」

 そう言って視線を落とすと、白い布越しにも分かる、節の嫉妬の炎に燃えた眼差しが漣の目を突いていた。

「誰、漣」

 怒りに震えた声で、節は言う。

「い、いや、これは……」

 戸惑う漣を横目に、蒼維が、

「モテる男は辛いねぇ」

 そう、肩を竦めた。

「節様」

 そう狐が話しかけて来、節は漣から視線を外した。

「何」

 その声は未だ怒りに震えていたが、なるべく平常心で節は答えた。

「天照大神様がお待ちです。お一人で此方へ」

「分かったわ」

 節はそう言って、漣から背を向けた。

「節、立派な名を頂いて来い」

 漣が言う。それに合わせて、蒼維が、

「少し緊張するだろうけど、直ぐに終わるから。頑張って」

 と、続けた。

「有難う、蒼維。何処かの誰かさんは昔の恋人さんとお幸せに」

「節、違うのだ、これは……」

 背中に投げられた漣の言葉を無視し、節は狐に付いて再び階を登った。

 寝殿造になっている社は、何処かひんやりとしていて、些か緊張が昂る。

「此方です」

 狐は提灯を置いて、御簾を上げた。節が中に入ると、畳敷の床に、提灯が吊り下げられている。そして、目前には少し高くなった段がある。それを御簾が半分程隠していた。

「天照大神様、霧切川の新たな主を連れて参りました」

 狐は跪き、こうべを垂れる。節も吊られて、跪いていた。

「そう改まるな」

 凛とした声が聞こえてきた。節が顔を上げると、御簾が畳んだ扇によって上げられ、髪を角髪に結い、袴を脚結で巻いた、男装の女神が姿を表した。

「天照大神様……」

 もっと女性らしい神だと思っていたが、考えが違ったようであった。節は凛々しいその姿に、うっとりとした声を吐き出す事しか出来なかった。

「お前が霧切川の新しい主か」

 天照大神は問う。そうして、

「前の大蛙とは出逢うと良く話をしたものだ。話は聞いている。そうか、本当に、奴は死んでしまったのだな」

 と、ため息を吐いた。

「はい。私は、彼の言付けで、次の川の主になりました。大蛙さん……かつての主が立派に仕事をこなしている事も聞いております。天照大神様、私はその後継者に相応しい主になりたいと思っています。どうか、私に名をお与え下さい」

 節は再び頭を下げる。天照大神が頷き、言った。

「分かっている。”霧切川節女神”《むきりがわせつしょしん》では、どうだ」

「霧切川節女神……素晴らしいお名前を有難うございます」

 節は言った。己の新しい名に、誇りすら覚えてくる。

「今宵は、死んだかの主を想って酒を飲もう。丁度、月が綺麗だ。奴もそのような月を、見たかったのだろうな」

 天照大神はそう言って、御簾の奥へと消えて行った。

「良い名を頂きましたね。節女神様」

 狐は言った。

「さぁ、外へ出て、鬼比古様や蒼維様に自慢致しましょう」

「そうね、有難う」

 来た道を辿りながら、そのような会話を交わす。やがて、蒼維の背中が見えてきた。そこには、漣もいる。しかし、朔と呼んでいた山の主の姿はなく、心なしか安心している己自信に、節は底知れぬ怒りすら覚えた。女の嫉妬は醜い。そのような事を言ったのは誰であったであろう。

「節」

 蒼維が、渡殿に現れた節に向かって声をかける。節は急いで階を下りて、彼らへと近付いた。

「どんな名前を貰ったんだい」

 蒼維は尋ねる。節は高らかに、

「霧切川節女神よ、蒼維」

 と、頬笑んだ。

「天照大神様って、想像していたお姿と全く違っていて……少し驚いたわ」

「そうだろう」

 蒼維は言う。

「とても格好良い方だったわ……惚れてしまいそう」

「天照大神様は、此処に集まる皆のものだ。独り占めは許されないよ」

 すかさず、河童は言った。

「霧切川節女神か。良い名だ」

 二人に近付き、漣は言った。朔のつけていた香の香りが、狩衣に付いている。節は一人、苛立っていた。しかしそれを隠し、

「有難う、漣」

 そう答えた。

「朔と言う方はどうしたの」

 少々刺を出し過ぎたかもしれない。漣は肩を震わせている。それから一つ咳払いをしてから、

「朔とは終わった仲だ。節が嫉妬をするものではない」

 何とか言葉を吐き出したようであった。

「それに、もう朔はここにはいない」

「そう。良かったわね」

 節は未だ怒りが治まっていないようで、言葉が刺々しい。

 それから間も無くして、

「北へ帰る皆様の汽車が到着致しました。お乗りになる皆様、お集まり下さいませ」

 狐の声が聞こえた。

「節、どうする」

 漣が聞いてくる。

「僕はこの汽車に乗るよ。良かったらどうだい」

 蒼維も、言葉を継いだ。節は暫く考えた末に、

「乗るわ」

 と、答えた。

「皆様、お荷物をお持ちになり、瓢箪池の付近までお集まり下さい」

 再び、狐が言った。それに倣い、荷物を取りに戻る。鹿威しの前の部屋は、月光に照らされ、明るいものであった。荷物は全て既にトランクに積めてある。三柱の神は、急いで瓢箪池を目指した。

 到着した瓢箪池には、様々な神が集まっていた。蒼維の他にも河童の姿があり、彼は蒼維に声を掛けてきた。

「よう、蒼維。そろそろ良いニュースか」

 と、節を見る。

「違うよ。旅先で出逢ったのさ。彼女も川の主だよ。すい

 蒼維が答える。河童の名は翠と言うらしい。

「よろしく、翠」

 節は手を差し出す。翠はそれに答えて、彼女の手を取った。

糸魚川翠神いといがわすいしんだ。よろしく。見ない顔だが、新入りか」

霧切川節女神むきりがわせつのしんよ。そう、たった今天照大神様から名前を頂いたの」

「だから節と呼ばれているのか」

 翠は納得して幾度も頷いた。

「翠はどこで汽車を下りるの」

「新潟だ。名前に入っている通り、糸魚川の主だからな」

 どうやら、節が一番先に汽車を下りるようである。漣は、ふと寂しげな節の背中を見た。

 やがて、雲に包まれた汽車が、瓢箪池の傍らに着く。神々は暑苦しかった掛け布を外し、どんどんと開けられた扉から汽車へと乗り込んで行く。

「座れるかしら、私たち」

 節が不安げに蒼維に尋ねると、彼は笑って答えた。

「この汽車にも特等席はあるものさ。常連の翠が席を取ってくれている」

「そう。良かったわね、漣」

 節は笑顔で振り返る。しかし、漣の姿を見た途端、先程の嫉妬心が沸き上がって来、すぐに顔を背けていた。

「節、掛け布を取ってやる」

 淡々と漣は言って、後ろで結んだ紐を取った。そうして、それと共に地に落ちそうな掛け布を手に取った。

「有難う、漣……」

 節が少し気まずそうに言った。

「掛け布と紐は此方へ」

 狐が朱塗りの木箱を持って回っている。丁度目の前に来たので、四柱分、木箱に入れた。節たちが入ったのは最終に近かったが、蒼維の言った通り、向い合わせの四人席が残っていた。混んでいたが、他の神々も、全員が座れている。

「この北のルートが結構混むのさ」

 蒼維は肩を竦めた。

間も無くして、汽車が走り出す。一瞬の浮遊感の後には、揺れの無い、穏やかな乗り心地が待っていた。

「ふかふか……」

 蒼維の言っていた事が分かるように、節は呟いた。向かい合って腰かけている漣は、それを優しく見守っている。

「ほら、節」

 隣に座った蒼維が、節に耳打ちする。

「漣も優しいよ。もう、許してあげたらどうだい」

「そうね……」

 節は悩んだ後に、

「漣、ごめんなさい。私、朔さんに嫉妬していた」

 そう素直に言った。すると、漣は慌てて、

「謝る必要はない、節。過去──朔の事を受け入れてくれただけで、私は嬉しい」

 と、答えた。

「次、霧切川、霧切川」

 やがて、車掌の声が聞こえてくる。

「個別に下ろしてくれるのね」

 節は己の指を絡ませた。そうして、トランクを持ち、漣と共に汽車を下りた。

「そうだよ、節。また来年逢おう」

 動き始めた汽車の窓を上げ、身を乗り出し、蒼維が節に手を振った。

「そうね、さよなら。蒼維、翠」

 霧切川の縁に停まった汽車は、汽笛を上げて再び動き出す。

 旅は、終わったのだ。

「主殿。帰りは出雲大社から出る神々の為の汽車にお乗りになったのですね」

 と、大鴨が迎えた。その声に、山女魚や亀が集まってくる。

「おかえりなさいませ。どのような名前を頂いたのですか」

 山女魚は跳び跳ねた。節はトランクを置いて、

「霧切川節女神。天照大神様から直々に頂いたわ」

「素晴らしいお名前でございますね。お疲れでしょう。お休みになられて下さい」

「有難う。あと、これはお土産」

 節はトランクを開け、上野の似顔絵師が描いた節と漣の似顔絵を見せた。皆、それに覗き込む。

「主殿そのままでございます。旅の想い出が出来たようで何よりです」

 山女魚は言った。その時であった。

「あ……」

 漣の声に、集中が集まった。

「主殿に地球儀を買ってくるのを忘れてしまった……申し訳ありません」

「気にしないで良いわよ。漣。きっと山向こうの店に売っているわ」

 俯く漣に、節は優しく声をかけた。

 こうして、新たな川の主が、改めて誕生したのである。

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川の主が死んだ~出雲への訪問編~ 武田武蔵 @musasitakeda

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