第3話 漣の失態と、恩賜上野動物園

「なんて事だ……」

 聞き慣れない、漣の絶望的な声に起こされた節は、目を擦りながら起き上がった。閉められたカーテンから、朝日が揺れている。

「どうしたの、漣」

 すると漣は節に跪き、言った。

「申し訳ありません。主殿。急行出雲は夜行列車でした」

 そのような漣の態度に節は、

「それじゃあ、夜まで自由と言う事よね。丁度良かった。東京の町を見てみたいわ」

 と、喜んだ。幸いにも、行事に遅れる事は無い。少女の気紛れに付き合うのも悪くはないのかも知れないと、漣は思った。

「わかった、節。何がしたい」

「えぇとね、まずは受付のおば様に聞いてみましょう」

 節は言う。確かに、宿の店主ならば今の東京の、節の年齢にあった場所を知っているかも知れない。しかし、昨夜歩いたのみだが、ほの暗い街灯の光の元でも、かつて一度だけ訪ねた事の有る、大正の頃の東京とは違うものとなってしまったのがわかる。

「行きましょう。漣」

 トランクを抱え、節は言った。

「あ、あぁ」

 漣はそう言って、トランクの持ち手を持ち、節の前に出た。襖を開け、廊下に出る。度重なる戦火にも負けずに焼け残った宿の廊下は、朝であると言うのに、何処かひんやりとしていて、何者かが潜んでいるのではないかと思わせた。

 大黒天の気配がする。恐らく、そのモノも出雲にいるのであろう。宿の入り口に行くと、着物姿の店主が節と漣を迎えた。

「何処か不安そうですが、大丈夫ですか」

 と、漣を見て老婆は言う。

「なんとか。しかし、少し手違いがありまして……夜まで時間ができてしまって……」

 すると彼女は、

「お連れのお嬢さん位の年齢ならば、上野動物園でも、良いかも知れませんよ。お猿の列車が走っています」

「お猿の列車、」

 その言葉に、節は目を輝かせた。

「その他にも、像もインドから贈られて来ましたし、アフリカからはキリンやサイが、また、ゴリラも初来日しています。最近なら、海水水族館に次いで、園内を繋ぐモノレールや、”いそっぷ橋”も有名ですね。楽しめると思いますよ」

「そうですか。有難うございます」

 漣は店主に礼を言って、節と共に外に出た。

「さて、節──」

「お猿さん列車に乗りたい」

 漣の言葉をも遮り、節は声を張り上げた。

「インドって言う所から送られて来たって言う、象さんや、アフリカからのキリンさんたちにも逢ってみたい」

「節はそんなに動物園に行きたいのか」

 川の主と言っても、心は未だ少女である。はしゃぐ節を見つめながら、漣はため息を吐いた。

「実は私ね、お母様から唯一誕生日プレゼントに貰った、動物の図鑑を持っていたの。それで、実際の動物がどう言うものかって、見てみたかったの」

「そうか」

 報われる人生を歩んでこられなかった節を、憐れに思いながらも、漣は頷いた。そうして、

「では、上野動物園迄行ってみようか」

 と言う言葉を口に出した。

 宿を後にして、恩賜上野動物園のある、上野公園へと足を向ける。植えられた桜の葉は風に揺られ、枯葉となって道々に落ちている。階段を上っている途中、似顔絵画家に声をかけられた。

「格好良いお兄さんと可愛いお嬢ちゃん、ご兄妹ですかな。見た所観光客のようですね。旅の想い出に、似顔絵でもいかがですか?」

「ほう」

 漣は階段に出しかけた足を止めた。

「節、どうする。川の衆に自慢できるぞ」

「どの位の、時間がかかるの」

 早く動物を見たいと言う、逸る気持ちから、節はそんな事を聞いた。

「二人なら、十分程度で仕上がります。きっと満足されると思いますよ。因みに値段は二人で十円になります」

「それじゃあ、書いてもらおうかしら。漣、大丈夫」

「節こそ大丈夫なのか」

 漣が聞くと、節は少し俯いた。

「実はね、私は自分の顔を確りと見た事がないの。お部屋にも鏡もなかったし。水鏡に写した、月の明かりに照らされた朧気な顔しか見た事がない……この際だから、似顔絵でもいいから見てみたくて」

 そう言って、目前に置かれた椅子へと座った。漣は後ろに立ち、節を護るかのようにその小さな両肩に手を添える。似顔絵画家は直ぐに色紙へと筆を滑らせ始めた。

そうして十分程経った時、イーゼルから色紙を取り上げ、節に手渡した。

「はい、終わりましたよ。こう、題材が綺麗だと描いていて気持ちが良いですね」

「有難う……」

 渡された色紙に描かれている少女は、黒目勝ちな、鼻筋の通った赤い唇の美少女である。

「また良かったら来てくださいねぇ」

 絵をトランクにしまい、手を振る画家に背を向けて、節と漣は再び階段を上がり出した。

「ねぇ、漣」

 と、春には満開になるのであろう木立に枯れ葉がしがみつく桜並木を通りながら、節は胸に抱いた似顔絵をちらと見て、漣へと話しかけた。

「なんだ」

 隣を行く漣は視線を節に落とす。

「私って、こんなに美しい女の子なの、」

「節は綺麗だぞ」

 と、漣は当たり前のように言った。

「そ、そうなの。有難う……」

 直ぐに答えを返されると思っていなかったのか、そんな漣の言葉に、節の頬には紅葉が散った。

「節は己に自信が無さすぎる。仮にも一つの川の主なのだ。年が同じ位の少年少女とは違う。もっと胸を張って良いのだぞ」

 やがて、噴水前を横切り、動物園の入り口へと至る。隣には子供遊園が有り、節の心は由来だが、動物の方がそれに勝ったようだった。早速、発券売り場へと足を向ける。受付の女性が、にこやかに笑っていた。

「大人一人と子供一人だ」

 漣は言う。それに対して、

「大人と子供、合わせて二円になります」

「有難う」

 漣が入場券と引き換えに、財布から金を出して、女性へと手渡した。

 そうして、入場の列に並ぶ。前方が少し手こずっている様子で、列が進んでないのである。しかし間も無く、中に入る事ができた。目前にある、園内の地図を見る。

「節はなにが見たいのだ」

 腰を落とし、節と同じ目線に合わせた漣が問うた。すると節は悩むように、地図の前に陣取っている。

「散らばっているのよ。ゴリラも見たいし、キリンやサイも見てみたい。あと象さんと、お猿さん列車」

「順々に見ていこう。未だ時間には余裕がある」

「そうね」

 節は言って、漣と手を繋いだ。園内は中々混んでいる。不安から来るものなのであろう。

「漣って、冷たい手をしているわね」

 不意に節が言った。漣はそれに驚いた様子で、

「あくまでもこれは仮の姿だ。体温までは管理できん」

 そう言った。しかし、繋いだ節の手は温かい。互いに同じ仮初めの姿の筈であるのに、何故であろうと、漣は思考した。


 初めて訪れた動物園で過ごした時間は、節にとって、とても有意義な時間であった。節は特に猿の列車が気に入ったようで、何度も共に乗ろうと漣に声をかけた。喜ぶ節の隣で、うんざりとした顔をした漣の姿は、他の客にはどう見えたのであろうか。

 やがて時は瞬く間に過ぎて行き、閉園を告げるアナウンスが流れ始めた。

「そろそろ出よう、節」

 海水水族館でワニ等を見ていた時の事であった。節は頷くと、手摺より漣と繋いでいない方の手を離した。

「東京迄行くの」

 出口にて、彼女は漣を見上げ、尋ねた。

「そうだな」

 来た道を辿りながら、漣は答える。間も無く、似顔絵を描いた階段に差し掛かる。既に辺りは暗く、絵描き達の姿もない。

 出た改札口から、上野駅に入り、今度は山手線のプラットホームを目指す。そこから鴬色の列車に乗り込んだ。降下上から見る東京の夜景は、あちらこちらぼんやりと明かりが灯り、その明かりに節は興奮を隠せないようであった。

「見て、漣。蛍みたい」

 列車の中で、節は弾んだ声で言った。乗客達の視線が集まる。それがどこか温かいのは、漣のみが感じた事であろうか。

 東京駅に降り立つと、並ぶ沢山のプラットホームに、節は驚いていた。

「うわぁ……」

 隠せない声が漏れる。

「ほら、あの列車に乗る。行くぞ、節」

 止まっている汽車を指差し、漣は言った。既に、上野で夕食は済ませている。

「待って、漣。冷凍ミカンを買いたいの」

 またあの鴨に聞いた事であろう。漣は頭を抱え、急行出雲の止まるプラットホームへと向かう途中の売店で、冷凍ミカンを三個セットで購入した。

「良いニュースだ、節」

 道すがら、漣は言う。

「何」

 夢見た冷凍ミカンを手に持ち、節は首を傾げた。

「急行出雲は寝台車だ。横になれるぞ」

「え、本当に」

 と、彼女は目を見開いた。

「三等席だが、俺と向い合わせの席を取った」

「有難う、漣」

 プラットホームで、節は漣に抱きついた。やはり、触れるその肌は温かい。

 そうして、出雲へと向かう汽車に、二人は乗り込んだのであった。

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