第2話 上野へ

 節の住んでいた村から山一つ越えると、駅のある賑わった町に出る。大黒柱駅へと赴く際に、同じ駅舎から汽車に乗った。今度は大黒柱駅とは別方向の、上野行きの汽車に乗る。

「安くて美味いよぉ、弁当、弁当」

 弁当売りの少年が丁度、車窓から見えたので、節は瞳を輝かせ、漣を見た。買っても良いか? と、言いたいのであろう。丁度己も腹が減っている。漣は頷き、窓を開けて弁当売りを手招いた。

 すぐに彼は気が付いて、ホームを走って来た。

「旦那、中々良い男だね。婆ちゃんだったら、弁当の一つは無料で分けているよ」

「何があるのだ」

 少年の話を余り聞く気も無く、漣は節を持ち上げ、少し下の弁当の入った立ち売り箱を覗き込ませた。

「えぇと」

 漣が見えないのではないか、そんな心配をする節に、

「大丈夫だ。私からも見えている」

 と、答えた。

 立ち売り箱の中には、鳥飯弁当や、焼き鮭弁当、焼売弁当などが並んでいる。どれも食欲をそそられるものばかりで、節は悩んでしまった。

「お勧めって、ある」

 等々そう聞くばかりである。

「俺のお勧めは焼売弁当だな。遥々横浜から取り寄せたんだ」

「横浜」

 少年の言葉から出た、見知らぬ地名に、節はおうむ返しに尋ねた。

「港がある、恐らくここから東京よりも遠い町の事さ。焼売弁当にするのかい」

「そうするわ、漣、あなたは」

「私も同じものを貰おう。横浜の焼売弁当など、久しぶりに食す」

 と、財布を片手に漣は答えた。

「二人で二百円だよ」

「わかった」

 そう答え、財布から百円札を取り出し、少年に手渡した。

「毎度あり」

 少年はそう言って、次に呼ばれている場所へと駆けていった。

間も無く、汽笛がなる。この駅から上野迄、長い旅である。ゆっくりと、列車は動き出した。

「これが、憧れていた駅弁と言う物ね…」

 崎陽軒と書かれた包装紙を破り、現れた弁当箱の蓋を持ち上げて、節は声を弾ませた。中には、細かく山形に盛り付けられた白米に、焼売、野菜の煮物や、杏子迄入っている。その中でも、節の心を踊らせたのは、赤と白の練り物のような物であった。

「漣、これは何」

 それを箸で掬い上げ、節は漣に問うた。弁当をまだ開けていない漣は、

「蒲鉾、と言う物だ、節。魚の擂り身を山形に形作り、蒸した物だ」

 と、答えた。

「お味噌汁についてくる、つみれと同じような物かしら」

「まぁ、そうだな。節は、家でつみれ汁を食べた事があるのか」

 すると節は、考え込むように車窓から見える景色を無言で暫く眺め、言った。

「一度だけ。余りにも美味しくて、女中さんに聞いてしまったわ。お母様やお父様と、同じ物を食べられるなんて、幸せだったから」

 それだけ言葉を吐き出すと、節は再び代わり行く外の景色を眺め始めた。弁当は、彼女の膝の上に乗ったままであった。

 少し彼女の過去に干渉し過ぎたのであろう。漣は悟り、同じ車両に乗った者たちを見た。大荷物で上野へと向かう客、余り荷物の持たず地元の駅で降りる客。様々な夢や希望を乗せて、汽車は上野への旅路を急いでいる。途中、幾つかの駅で客を下ろすと、あとは上野まで停まる事はない。山や川などの風景が窓に映り、やがて町の景色に変わった。

「凄い、漣、あれは何」

 夕映えに燃える建築中のビルディングを指差し、節は目を見開いた。鉄骨で組まれた足場に人が上り、工事をしている。そろそろ日が沈む。丁度、彼らも仕事を終えて足場を降り始めていた。立ち並ぶクレーン車の姿が、闇に侵されかけている。

 漣は、この問かけに答えられない己を恥じた。最後に見た都会には、鉄骨の足場や、クレーン車と言ったものは建ってはいなかった。それ程迄、優しい大蛙の主が護る、あの川に長く居座りすぎていたのであろう。

 客の誰かが持ち込んだのか、ラジオから流行歌が流れ出す。一昔前に流行った、りんごの唄である。

「私、この曲を聞いた事があるわ」

 と、節は顔を上げた。既に弁当は食べ終えられ、空いた隣の席に、漣が食べたものと共に放られている。

「私が外に出られないと知った、入ったばかりの女中さんが、気を使って鉱石ラジオを買ってくれたの。そこで、流れてきた曲よ」

「十年位前に流行った曲だ。私は聞き飽きてしまった」

「そう」

 それだけ言って、節は暗くなった車窓の景色を見た。汽車は闇を切り裂くように走って行く。都会に出たと言う事は、上野駅が近い。六時間程、汽車に揺られていたのである。

季節柄もあってか、集団就職の学生もいない。気が付けば客席は、疎らに人が座るのみであった。

 そうして、暫く汽車は乗客たちを揺らした後、無事上野駅へと到着した。

「やっと着いたわね」

 プラットホームに下り立ち、改札へと向かう客たちの列から少し離れ、トランクを置き節は身体を伸ばす。そんな彼女は平然としている漣を見、

「漣、あなたは身体を伸ばさなくて平気なの」

 と、問うた。

「私は大丈夫だ。節はそんなに旅は辛かったのか」

 逆に質問が返され、節は少し戸惑ってから、頷いた。しかし、待っているのは地獄のような現実だ。後々告げるよりも、今言い切ってしまった方が良いと、漣は覚悟して口を開いた。

「上野で宿を探して、明日山手線に乗って東京を目指す。そこから、急行出雲に乗り込み、浜田市駅で降りて、立千恵線に乗り換えて出雲市駅へと向かおう」

「また汽車に乗るの」

 と言う問いが、思わず節の口から出ていた。

「あれほど言ったであろう、節。地方の神々の乗る特別な乗り物で行こうと」

「だって、大鴨さんの見たって言う汽車に乗ってみたかったんですもの」

 あの鴨め、と、漣は頭を抱えた。外の世界を全く知らない少女への話の種とは言え、汽車の話は不味かったのである。

「兎も角、宿を探そう」

 節の髪を撫でつけ、漣は言った。後ろに結んだ髪が、夜風に揺れた。

 汽車は何本も通るプラットホームの一つに入り、長い旅の終わりを告げる。そこから、外へと向かった。改札から出ると、上野駅と掲げられた看板の上に、様々な人生模様の描かれた巨大な壁画があり、節の目を驚かせた。

「うわぁ……」

「ほら、行くぞ、節」

 漣に手を引かれながらも幾度も振り返り、節はその壁画を見ていた。

 幸い宿はすぐに見付かり、一晩温かい布団で眠れる事となった。兄妹と見られたのか、六畳一間の部屋に、二組の布団が敷かれている。節は早速、閉められたカーテンを引き、その奥に取り付けられた曇り硝子の窓を開き、空を仰いだ。命を絶った夜には負けるが、今宵の月も美しい。

「見て、漣、月が綺麗よ」

 このような事ではしゃぐ姿は、川の主とは思えない、本物の少女のようである。

「私の病気が悪化して、部屋から出られなくなった時、良く見えない月を想像していたわ。今日は満月だとか、星明かりが眩しいから、新月だとか」

 節は言った。漣は一瞬、哀れみを彼女に感じた。心の病気とは、患者を渦巻く家族や友人間によってなるものも多い。長く生きて来た中で、そんな者達を何度も見てきた。しかし、このような者の家族達は、皆その者を隠そうとするのである。

 一族の、恥だと言って。

この娘も、そのような目にあってきたのであろうか。彼女が余り生きていた頃の事を語らないのは、その所為なのかも知れない。

「明日も早い。寝るぞ、節」

 己にと敷かれたものの、掛け布団を捲り上げ、漣は言う。

「わかった……」

 節は少し剥れた様子だったが、やがて明かりを消して、布団に潜り込んだ。目を閉じると、遥かなる故郷の川が浮かぶ。例え自転車が棄てられ汚れようとも、己はその川の主なのである。

 今度、漣と二人係りで取り除いてしまおう。節はそんな事を考える。しかし、その取り除いた自転車は何処へ行くのであろう。廃品回収車に頼む事も考えたが、結局は山に破棄される事になる。それでは、そこの主に迷惑をかけてしまうかもしれない。

 明日、汽車の中で漣に相談してみよう。そう思って、節は目を閉じた。

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