稲佐橋の秘密

今考えると、信じられないことだが、五歳の頃、バスを乗り換えて一人で幼稚園に通っていた。


幼少期は長崎市のうち、三菱重工の工場や社屋が多くある地域、飽の浦・立神方面に家があったのだが、最寄りのバス停まで母親に送ってもらい、バスに乗ったら、『稲佐橋』を通るので、『稲佐橋』で降りて、今度は稲佐橋から別のバスに乗り換えて、幼稚園の最寄りのバス停で降りる。そこから歩いて幼稚園に通う。


幼稚園の園長さんは名前が特殊だったので覚えている。担任の先生は多分これという感じでぼんやりと覚えている。たしか、仲良くなった子の下の名前も憶えている。あと、なんか、「ゴリラゴリラ」とからかわれているちょっとゆっくりおっとりした子もいた。僕も「ゴリラ」って言ったのかどうかは覚えていない。ただ、覚えているのは、ハナコちゃんという娘が、ある日、 「私、〇〇くんをからかったりしない!ちゃんとお話ししたり、遊んだりする!」 と、言っていたのを聞いて、それ以来、影響されて、僕も右へ倣えで、その子とちゃんと話したり、遊んだりした記憶がある。ハナコちゃんの言葉は、僕にとって人生で最初に感じた優しさの言葉だったと思う。ハナコちゃんの言葉は、それ以来、なにかしら僕の人生において、ものの考え方に影響があった気がする。


ハナコちゃん、幼少にして、モンチッチのようなチュルチュル毛のかわいい娘だった。今どうしているのかな。今もきっと優しい人のはず。僕は小さい頃髪の毛はストレートで、大人になってチュルチュルになった。ハナコちゃんは今どうなんだろうな。ストレートだったりして。


話が逸れた。


帰りは、なんらかのバスに乗り、『稲佐橋』へ行き、『稲佐橋』からバスに乗り換えてお母さんが待ってくれているバス停で降りる。字は読めていたのだろう。バスの行き先は小さいころから分かっていた記憶がある。とにかく、幼稚園にバスを乗り換えて一人で通っていた。


ある日、いつものように、帰っていたら、毎日、代わり映えしない帰路が、なんかつまらなくて、おもむろに橋の欄干から下を見下ろしてみた。五歳の子供にしてみたら、稲佐橋の下の浦上川は、深く、広く、遠い。 水面の遠さがなんとも言えない印象に残った。どのくらい遠いんだろう。 僕は、唾を吐いてみた。唾は、ゆっくりと風に揺られながら落ちていき、最後は河に吸い込まれた。二回目、唾を吐いてみる。同じことが起きた。 他のものが落ちたらどうなるだろう。興味が湧いてきた。身の回りを探すと、なくしたらいけない大事なものと分かっていたが、定期入れがあった。定期入れ落としたらどうなるんだろう。僕は衝動で定期入れをつまんで、河の上に掲げ、ちょっと躊躇したが、そのあと手を離した。定期入れは、ゆっくりと縦に横に回りながら落ちていき、やがて、河に吸い込まれた。河に吸い込まれる定期入れを見て、なんか恐怖を覚えた。ひょっとすると、今の僕の高所恐怖症はこれがルーツだったのかもしれない。


その後、稲佐橋バス停から、帰りのバスに乗った。定期がないのに。バス停でいつものとおり、お母さんが待っていてくれた。僕は、定期券を持っていない。バスを降りるときに、定期券がないので、とっさに察したお母さんがバス代を払ってくれた。


「定期券、どうしたの?なくしたの?」

「うん。ごめん。」


幼くて、『河に落とした』という単語が出てこなかったのか、反射的に、わざと落としたら親に怒られるから、『なくした』ことにしたのか、記憶はおぼろげだけど、これが、人生でおそらく初めてついた嘘。 その後の確かな記憶はないが、嘘つきだけど、再び発行された定期券を渡されて、引き続き通園していたんだと思う。


このことまだお母さんに言ってないな。

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