孤独のスクール・ボーイ

「今すぐ車を買うたりするかどうかの問題じゃなくて、運転免許はひまな時にとっといた方が絶対よかよ。」


両親をはじめとして運転免許を持っている人生の先輩はみんな口をそろえてそう言っていました。僕は今大学で初めての夏休みを迎えようとしていました。旅行に行くとか、アルバイトをしまくるとか、特に何か予定があるわけでもなく、そんなときに同じく人生の先輩から、


「学生はよく、夏休みとかば利用して合宿免許とかに行くもんねー。あれにすればちょこちょこ自動車学校に行かんでよかし安かけん結構人気のあるごたっよ。」


と、そんな情報を聞いていました。ひとりでキャンパス内を歩いていると学生食堂の前の生協でたまたま『合宿免許』と書かれたパンフレットを見つけました。普通自動車と自動二輪の教習を同時に行う七月二十二日から八月十一日まで二十一日間のコースで、場所は四国の徳島の自動車学校というのがありました。学校の敷地内に合宿所があり月曜日から土曜日までは三食付き、卒業検定に失敗して滞在期間が延びても追加料金はなしと言う条件でした。夏休みが始まってからすぐ合宿が始まり、お盆前に終わる。異郷の地神戸で暮らしはじめて初めてのお盆だし絶対長崎に帰って帰省のみんなと会いたいと思っていた僕にとって、仮に何回か卒業検定に落ちたとしてもお盆までには若干余裕があるし、ぴったりのコースだと思い、これに決めようと思いました。早速書類をそろえて入学手続きをしました。


出発の朝がきました。ポケットには生協がくれた行きがけの鉄道の指定席券、かばんには着替えいっぱいと、これもまた生協がくれた自動車学校のパンフレットと、そして帰りがけの日時未定の乗車券が入っていました。新幹線で新神戸駅から岡山まで行き、そこで高知行きの特急「南風」に乗り換えました。ひとりでこのような列車の旅をするのは初めてで、ドキドキしながらもとても楽しいものでした。瀬戸大橋からの雄大な景色に感動を覚えました。なんだか、頑張るぞという気になりました。さらにしばらく乗っていると列車は四国の内陸部へと向かい、阿波池田という駅に停車しました。


その駅の前の広場に自動車学校の送迎バスが迎えに来るということになっていたので、下車して集合場所へ行きました。同時に入学する人たちが同じ列車に乗っていたようで、十人ぐらいがそこに来ていました。スクールバスが到着しました。みんなおいおい乗りこみました。


気付きました。気付くのが遅すぎました。本当に遅すぎました。気付くまで、全くそういうことは気にも留めませんでした。


合宿所の部屋に案内されてからから気付きました。僕以外の十人がわっと一斉に三人、二人、四人の三グループに分かれて自分達の気に入ったベッドを確保しました。そう、僕以外の他のみんなは友達同士誘い合わせのうえで合宿免許に来ていたのでした。送迎バスの中でそんな素振りが見えなかったのは、特急の中でいやというほどしゃべってちょっと疲れていたからだったのかもしれません。僕はひとり寂しく、唯一余った和室の隅っこの二段ベッドの上段を自分の居場所にして、荷物を置きました。


みんな自動車学校に着いたとたんウキウキして元気が出たらしく、中を見学しに部屋の外に出て行きました。二段ベッドの上段にぽつんとひとり取り残されたとき、心の底から孤独を感じて悲しくなりました。自分の居場所は天井が近くて狭苦しいのにそこから見下ろす部屋は広く大きく、そして遠く見えました。


それからの合宿生活は孤独そのものでした。広い教室にみんなが仲良し同士並んで座るのにくっついて座るわけにも行かず離れた席にぽつんと座って授業を受けました。朝食も、昼食も、夕食もぽつんと座ってみんなの楽しそうな会話をよそにひとりで黙々と食べるしかありませんでした。夕食が終わったあと寝るまでの時間は、他のみんなにとっては一番楽しい時間なのでしょうが僕にとってはただ、ただ寂しいだけの時間でした。まだメールはおろか携帯電話も全く普及していない頃でした。本とか暇をつぶせるようなものは全く持ってきていませんでしたし、徳島の山奥にはまだコンビニエンスストアなどなく、雑誌もお菓子も買えないところでした。部屋にいるのがつらいので、夕食を食べてから日が落ちるまでの時間は、たまたま敷地内に捨てるようにおいてあったスコップをもって庭の土をいじって過ごしたり、ひたすら散歩したりしました。日が落ちたらすごすごとみんなが盛り上がっている部屋に戻って二段ベッドの上段で過ごしました。自分の二段ベッドのはしごはぎぃぎぃ音が鳴り、下の人や回りの人になんだか迷惑のような感じだったので、頻繁な上り下りは避けました。ベッドの下段で三人組が盛り上がっていたときがありました。さすがにそのときは敢えてその盛り上がりの中をはしごを下りて突っ切って行ききれず、おしっこをしたかったのに我慢してそのまま膀胱がぱんぱんのまま一晩寝ました。


ある日、部屋のみんながそれぞれどこかに出掛けて誰もいなくなるときがありました。久々に下界に下りて過ごそうとしましたが何もすることがなく、仕方がないので畳の目ってどのくらいあるんだろうと疑問を抱き、ひとつずつ数えました。数えている途中に部屋に戻ってこられたのであわててトイレからでも戻ってきたような感じでベッドの上段に戻り、再び上界で生活しました。


ある日、ベッドの上段の、さらに壁際で張り付くように伏せると、部屋の中のあらゆる角度から見えなくなることができることに気付きました。僕は壁に張り付いて部屋の中から自分の存在を消しました。みじめなことに少し心が楽になりました。


どんな厳しい教官でも自動車教習のときが一番心休まるひとときでした。というよりも、教習がない日曜日などは全く言葉を発する必要がなく、そのまま上下の唇がくっついてしまいそうでした。


教習はストレートで順調に進んでました。それしか集中することがないから当然といえば当然かもしれません。とにかく最短で卒業して神戸に一旦帰り、すぐ長崎に帰省して友達と会うことだけが唯一の楽しみでした。


最終日のちょっと前に教習課程の少ない自動二輪の卒業検定が、普通自動車のそれより一足早くありました。雨の中でした。金属の一本橋の上でズルッと滑ってそのままオートバイごと植え込みに突っ込んで見事に不合格でした。


「次の検定は八月十一日だから頑張ってね。」

「え?明日はないんですか?」

「うちは小さな学校じゃきに、普通自動車も自動二輪も三日に一回しか検定やってないよ。」


とんでもない状況に立たされたと思いました。合宿最終日の予定である八月十一日、この日に自動車と自動二輪の検定を受けて両方とも合格しないと次の検定は三日後の八月十四日。八月十四日に合格したとしても一旦神戸に荷物を置きに帰ってやっと長崎に帰り着くのはお盆当日夕方。友達とはろくに会うこともできないわけです。お盆に帰ることを心の支えにして頑張ってきたのにそれすらなくなってこの孤独な生活を続けるのかと思うと頭がぐわんぐわんなり、やがて恐ろしく不安になりました。


最終日。ついに普通自動車と自動二輪の卒業検定の日です。もちろん講義はすべて受講し終わっているので、あとは卒業検定だけ。失敗すると授業もない、なにもない自動車学校でお盆の時期に三日間の延長で長崎の友達にも会えない。教官はもし三日間の延長になったら徳島市に行って本場の阿波踊りを見に行ったらいいよと言っていたのですが、ひとりで集団行動を見たらますます空しくなるので絶対いやだと思いました。


絶対に落とせない二つの試験でした。まずは自動二輪、学校の玄関にある電光掲示板の自分の番号が光りました。まずは合格。しかしほっとする間もなく、精神統一する間もなく次の普通自動車の検定に移動しなければなりませんでした。


すぐ検定用の自動車に乗り込みました。途中で国道に蛇が飛び出して急ブレーキを踏むという不吉なハプニングがありましたが、どうにかエンスト等もせずにコースは走りきりました。やるだけのことはやりました。あとは発表を待つだけとなりました。


いよいよ発表の時間になりました。


合格した人は当然この学校を去るわけですが、特急の時間の都合で合格した人はすぐ卒業証明書を受け取って、そのまま玄関前に待機している送迎バスに乗り込んで駅に行くという段取りになりました。こっちは真剣なんだからそんなウルトラクイズみたいな演出は要らないのに、と思いながら、ずっと電光掲示板を見ていました。掲示板を見過ぎてちょっと首が疲れて目を離した瞬間周りのみんながわっと色めきだちました。合格番号が出たのでした。あわてて首をあげました。自分の番号はちゃんと光っていました。よかった!やった!ウルトラクイズみたいな演出要らないのにと言ってたくせに、喜びを分かち合う仲間もいないくせに、めったにしない体全体で表現する喜び方をして、カバンを持ってバスに突撃するように乗り込みました。


さようなら。 その後長崎で会った家族や友達は本当に懐かしく愛おしく、温かい気がしました。もう二度と免許は取らないぞと思いました。

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