魔法の呪文

中学校一年の帰りの会でした。最近校区内で変な人が出るから気をつけるようにという注意がありました。


「変な人、お前やったりして。」


そんなことを隣の席の友達がニヤニヤしながらボソッと言いました。僕にとっても特に面白くもなく、聞こえていた周りの人が笑うわけでもなく、くだらないことを言った本人ではなく、突如題材にされただけの僕が、なんとも言えないばつの悪い気持ちになりました。


それから月日は過ぎて、先生の注意も、友達のくだらないギャグもすっかり忘れていました。僕は部活動を終えて一人で下校していました。家に帰ったらすぐ着替えるわけで、わざわざワイシャツを着ず、部活動用のトレーナーの上に学生服を着ていました。


十二月で、下校時間ともなるとかなり薄暗くなってきていました。薄暗いのをいいことに僕は詰襟のホックと、五つのボタンのうち一番上のボタンを留めずに、学生服を楽に着こなしていました。


一人で帰るのはつまらないし、お墓の近くの道も通らないといけないので、なんとなく早足でそそくさと家に向かっていました。


おじさんが反対方向から歩いてきました。赤のダウンジャケットを着た四十歳ぐらいのおじさんは、擦れ違うのではなく、突然進行方向を変えて僕の前に立ちはだかりました。そして、


「こらぁっ!」


と僕を一喝しました。びっくりしました。立ちはだかっている身長は百八十センチぐらいあります。当時の僕より軽く三十センチぐらい高く、見上げる感じです。そんな大きなおじさんからいったいなぜ怒鳴られたのか分からない僕は絶句していました。おじさんは、今度は少しやさしく、


「ちゃんと、第一ボタンを留めんか。」


そう言って僕の近くに寄ってきました。僕のボタンに手を伸ばし、留めようとしました。そのとき、


「ああっ、お前はワイシャツを着ていないな。」


と言って、第一ボタンの留まっていない学生服の襟首から僕の胸のほうに手を入れて体をまさぐりました。僕は、なぜ体をまさぐられないといけないのかよく意味が分からないまま、ワイシャツを着ていないのは事実なので、


「すみません。すみません。」


と謝りました。おじさんはひとしきり僕の胸をまさぐると手を抜いて、


「ちゃんと、ワイシャツは着ろよ。あと第一ボタンは留める。いいな。」


と言いながら、ホックと第一ボタンを留めてくれました。僕は第一ボタンを留めていなかったのも事実なので、


「すみません。ちゃんとします。」


と謝りました。おじさんは、


「よし。」


と、言いました。僕は、服装にうるさいおじさんからこれで解放される。さあ、帰ろう。と思いました。しかし、おじさんはもう一度僕の前に立ちはだかったままでどけてくれません。どけないままおじさんは僕に訊きました。


「おい、魔法の呪文を知っているか?」


僕は、


「え、いや、知りません。」


と答えました。おじさんは、


「よし。おしえてやろう。」


と言いました。いったい何なんだろうと思っていると、おじさんは、僕の学生服の一番上のボタンをゆっくり指差し、そしてゆっくり 「日」 と言いました。続いて上から二つ目のボタンを指差し、おなじくゆっくり、 「月」 と言いました。同じ要領で三つ目、四つ目、五つ目を、 「火・・・水・・・木」 と指差していきました。ボタンの位置が下になるにつれ、おじさんは少しずつ体勢を下に移していきました。五つのボタンは全て指差し終わりました。これで終わりかと思わせておいて、なんとおじさんは今度は、 「金!」 と言いながら、僕の股間をえぐるように下からしっかり掴みました。おじさんは僕のものを掴んだまま僕の方を見て下からの目線でニヤリと笑いました。何が起きたのか、何の意味があるのか、分からないまま、掴まれたまま、僕はしばらく動けず立ち尽くしていました。ということは逆におじさんはずっとニヤリとして掴んだままでした。体の中心を押さえられると、見事なほど何もできなくなります。二人でその状態のまましばらくしてから、おじさんは、僕、すなわち僕の中心を解放し、小走りでどこかに行ってしまいました。


魔法の呪文は終わったようです。


おじさんは僕のだらしない服装を叱り、そのあと魔法の呪文といって冗談をした。それだけのことである。長い間そう思っていました。男性が好きな男性が存在すると知ったのは高校生のときです。猥褻行為とは必ずしも男性が女性にする行為ではないと知ったのも高校生のときです。その逆だけではなく、男性が男性にすることも猥褻行為と言える、と考え方を応用できるようになったのは大学生になってからです。


しかし、高校、大学で得たそのような知識と、帰りの会で先生が言っていた「変な人」と、そのおじさんがなぜ、一番上のボタンを留めることに執拗にこだわっていたのかということが、点と線がつながったのはそれからさらにしばらく経ってからです。そしてそのとき、おじさんに十数年間かけられていた魔法の呪文の効力が、やっと解けた気がしました。

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